マタイの福音書第28章16~20節

マタイの福音書第28章16~20節 

「復活されたキリストの権威と約束」

 

 復活されたキリストと弟子たちとが再会した様子を詳しく伝えてくれているのは、ルカの福音書とヨハネの福音書です。たとえばルカの福音書には、二人の弟子がエマオという村に向かっている途中で復活されたキリストと出会った出来事が記されています。このエマオの途上での出来事は多くの画家たちの絵心を捕らえるものとなったからでしょう。エマオの途上でのキリストと弟子たちの出会いの様子を描いた有名な絵が幾つもあります。

 ヨハネの福音書には、復活されたキリストと弟子たちとの出会いの出来事が幾つも記されています。そのなかでも特に印象深いのは、弟子の一人であるトマスとキリストの出会いでありましょう。トマスは「あの方(キリスト)の手に釘の跡を見、自分の指を釘跡に入れてみなければ、また自分の手をわき腹の傷跡に入れてみなければ、私は決して信じない」と言ってキリストの復活を信じることができないでいましたが、そのトマスにキリストが近づいて来られ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい」とトマスに語られたのでした。このトマスと復活のキリストとの出会いは、讃美歌の中でも歌われるものになっています。

 ではマタイの福音書はというと、復活されたキリストと弟子たちと出会いについては、実に手短にこう記しています。

 

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。

そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。

 

弟子たちは、復活のキリストと再開をしたときに礼拝しました。そのときに「疑う者もいた」とはどういうことでしょうか。そのことを考える上で思い出したいのは、弟子たちよりも先に、復活のキリストに出会った女性たちのことです。この女性たちはキリストと出会ったとき――イエスさまが復活された。ああ、なんと嬉しいことだろう、というような喜び方はしていません。この時の女性たちついて聖書が記しているのは、女性たちが恐れを抱いたということです。キリストの復活を知った時、そして実際に復活のキリストと出会ったとき、女性たちは恐れたのです。その恐れの中で喜びが生まれてきて、その喜びがしだいに大きくなっていったのです。

 

弟子たちがガリラヤの山で復活のキリストと出会ったときも――イエスさま、私たちはあなたに言われたとおり山に登ってきましたよ。予定通りに、ここでお会いできましたね。だから、ここで私たちはあなたを礼拝します……などという呑気なものではなかった。復活のキリストが姿を現わされた時、弟子たちはどんなに驚いたか、そして女性たちのように恐れもしたでしょう。その驚きと恐れの中でとっさにとった行動がひれ伏すことだったのです(「ひれ伏す」を新改訳聖書2017は「礼拝した」と訳しました)。

ひれ伏し礼拝をしながらも――本当にこの人はイエスさまなのだろうか……と疑いの心を捨てきれない者がいたのです。あるいはこう言うべきかもしれません。――本当にこの人はイエスさまなのだろうか……と疑いながら、それでも、目の前のキリストに礼拝をせずにおれなかったのです。

ところで、新約聖書には「疑う」という意味を持つ言葉が数種類用いられているようです。そのなかで、今朝の聖書にあります「疑う」という言葉は、マタイの福音書に2回使われているだけのたいへん珍しいもので、心が二つに分かれてしまうという意味から生まれてきた言葉だといいます。復活されたキリストに出会った時の弟子たちの心は、キリストの復活を喜ぶ心と――本当にこのお方は、死んだイエスさまなのだろうか……と復活の事実を受けとめきれない心とに分かれてしまっていたのです。

そういう弟子たちをごらんになったキリストは――ああ、これではだめだ…… 弟子としては失格だ……というふうにお嘆きになることはありませんでした。それどころか、こうした弟子たちのところに近づかれ、この弟子たちに大切な働きを託すためにこうお語りになったのでした。

 

わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。

父と子と聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、

わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

 

復活されたキリストには、天においても地においても力を発揮する権威が与えられています。「権威」と聞くと、――あの人は権威をふりかざして威張ってばかりいる、というふうにあまり好ましくないことを思い浮かべる人もあるかもしれません。しかし、権威ということには好ましい面があることを否定できません。たとえば、重い病気のために入院することになったとしましょう。そして、その病を治すためには難しい手術を受けなければならないと診断された。そういうときに、この病院のドクターはその手術にかけては権威のある医師だと聞くと、私たちは安心するのではないでしょうか。

 復活のキリストに与えられている権威もそれは、私たちに安心をもたらすものです。そのようなキリストの権威については、簡潔にこう申しあげることができます。

 

 復活のキリストの権威、それは、すべての者に赦しを与えるための権威です。

 復活のキリストの権威、それは、すべての者に癒しと平安を与えるための権威です。

それによって、

復活のキリストの権威は、人間が人間らしく生きていきてゆくための健やかさをもたらします。

こうした権威をもつ復活されたキリストは、一つの、しかし大きな約束の言葉をこうお語りになりました。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

 この言葉と結びつけて思い出したいのはクリスマスのみことばです。マリアが身ごもっていたとき、ヨセフの夢に現れた天使がこう告げたことが第1章にこう記されている。

 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」

 

インマヌエルとは神が私たちとともにおられるという意味です。天使は、イエスがインマヌエルと呼ばれるようになると告げているのですが、そのことの実現を記しているのが今朝の聖書なのです。復活のキリストが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と、インマヌエルの名前に表された祝福を約束として告げてくださったからです。神が私たちとともにおられるというこのインマヌエルの祝福がキリストの復活によって実現したということを福音書記者マタイは喜びを込めて、今朝の聖書に記しているのです。

さいごに、復活されたキリストの権威約束を土台とし、すべての弟子たち、すなわちクリスチャンに対して語られた命令を受けとめてまいります。

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。

父と子と聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、

わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」

 この言葉は、しばしば「キリストによる宣教(伝道)命令」と呼ばれています。このキリストの命令を受けとめて、教会は今日に至るまで伝道の働きを担ってきました。このキリストの宣教命令を受けとめたクリスチャンたちの働きによって、日本にも教会が生み出され、その働きのなかで私たちもまたクリスチャンとしてここにあります。そのことを思う時に、このキリストの宣教命令のもつ重みと、それを受けとめてきた人たちの働きの重みを覚えます。

 その一方で、またこんなことも思います。私が神学校で学んでいたころ、もう既に言われ続けて今日に至っていますことに「1パーセントの壁」ということがあります。日本のクリスチャンの人数は、日本の人口の1パーセントほどでしかない。その1パーセントの壁を何とか超える伝道を……ということが言われ続けてきました。しかし、現状は1パーセントを超えるどころか、むしろ減少傾向にある。

 そういう中で、私たちは、あらためて、キリストの宣教命令をどのように理解し、これを受けとめ、そして重要なことですが実践していくのか。そのことをきちんと考えておかなければなりません。そこで紹介したいある人の言葉があります。

 

それは、3年まえに100歳でお亡くなりになった武田清子さんという方の言葉です。武田さんは、20歳の時に洗礼を受けてアメリカに渡り、二つの大学と一つの神学校で学ばれました。やがて日本とアメリカの間に戦争がはじまると、武田さんがアメリカで生活できるようにと保証人になろうと言ってくれるアメリカ人の神学者がいました(ラインホールド・ニーバーのことです)。しかし、武田さんは帰国をしました。その理由を武田さんは「日本は負けるとわかっていました。灰になるなら、そこにいなければいけない。愛国心というよりアイデンティティーの問題でした」と言っています。戦後は、東京大学で博士号を取得され、国際基督教大学の教授として長く務められました。そのような武田清子さんが日本のクリスチャンの人数が人口の1パーセントを超えたことがないことについてこう言われたのです。

「1パーセントでも、周囲に影響を与えるだけのものがあればいいのです。」

 

 日本で「1パーセントの壁」ということが言われ続けている間に、韓国ではクリスチャンの人数が人口の25パーセントまでに増えた、日本はいつまでも1パーセントのままでいいのか。いったい我々の伝道に何が足りないのか……日本の教会の伝道にどんな問題があるのか……というようなことが伝道について話し合う会議などで繰り返し論じられてきました。しかし、武田さんは、大切なことはクリスチャンとされているひとりひとりが、周りの人に影響を与えられるようになることだと言うのです。もちろん、この場合の影響とは良い影響のことです。

 キリストが「あらゆる国々の人々を弟子としなさい」とおっしゃったことの意味は、この世から仏教徒やイスラム教徒がいなくなり、世界中のすべての人がキリスト教徒になるようにせよ、というようなことではありません。――あらゆる国々の人々を弟子としなさい、と言っているのに1パーセントの壁も乗り越えられないとは何事か! とそんなことをキリストは言われるでしょうか。

 「1パーセントでも、周囲に影響を与えるだけのものがあればいいのです」という武田さんの言葉と「あらゆる国々の人々を弟子としなさい」というキリストの言葉には、何か共通する響きがあるといえましょう。

 個人的なことを申しますが、復活節になると一度は必ず聴く音楽があります。モーツァルトが作曲しました『踊れ、喜べ、幸いな魂よ(エクスルターテ・ユビラーテ)』という歌です。これを昨日、ウィーン少年合唱団が歌っているCDで聴きました。実に明るく軽やかな曲調ではじまり、最後は名高い「アレルヤ(ハレルヤ)」が喜ばしく歌われて終わります。この音楽を聴きながら、いつも思い出す言葉があります。それはカール・バルト(ラインホールド・ニーバーと同じ時代に生きたスイスの神学者)の言葉です。バルトは『モーツァルトへの感謝の手紙』という文章を著しているほどに、モーツァルトの音楽を神からの賜物としてこよなく愛した人でして、その文章にこんなことを書いているのです。

 

 あなたの音楽を聴くとき私は、

(高慢ではない)勇気を与えられ…… 

(退屈ならざる)純粋さと、

(腐敗した安逸の平和ではない)平和を贈られるのを実感するのです。

 あなたの音楽を耳にしていれば、

若くもあり年老いることもできます。

   勤労にいそしむことも憩うこともできる。

   歓び楽しむことも哀しむこともできる。

   つまり一言でいえば、生きることができるのです。

 

『踊れ、喜べ、幸いな魂よ』を聴きながら確かに、バルトが言うような勇気、純粋さ、平和を、あのお方がご自身の権威によって、私にも贈ってくださっていることを想います。

そして、あのお方が、世の終わりまで私と共にいてくださるので、若さだけでなく、老いること(この4月で57歳になります自分の年齢)も喜ばしく受け入れることができる。忙しく働きながら、その忙しさの最中で憩うこともできる。歓び楽しむだけでなく、哀しむべきときに素直に哀しむことができる、すなわち人間らしく生きることができるということを想います。それは、あのお方、すなわち復活されたキリストがクリスチャンに与えて下さっている祝福だといってよいでしょう。この祝福を受けながら、この世・社会のさまざまな厳しい現実のなかにしっかりと踏みとどまり人間として生き続け、生き抜くこと。それが「あらゆる国々の人々を弟子としなさい」というキリストの言葉を実践するために「周囲に影響を与える」ことと深く結びついているといえましょう。

 

 

                                 (2021年4月18日 復活節第3主日)

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