マタイの福音書第28章1~15節

マタイの福音書第28章1~15節 

「キリストの墓が証しすること」

 

この朝もマタイの福音書をとおして、キリスト復活の出来事を思い起こしてまいります。そのことによって、聖書から聴こえてくる復活の福音による慰めと励ましが皆さんひとりひとりに満たされますように!

 

マタイの福音書が伝えてくれていますキリスト復活の記事には、他の福音書には書かれていない特有の記事があります。それは、墓の見張りをした番兵のことが書かれていることです。この番兵のことを書いているのはマタイだけなのです。なぜ、マタイは番兵のことを記したのか。そうすることによって、あることを強調して伝えたかったからです。

その強調点を受けとめるために、キリストの墓を番兵が見張ることになった経緯を振り返ってみましょう。第27章62節以下にはこう記されています。

 

備えの日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。

「閣下、人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じて下さい。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」 

ピラトは彼らに行った。

「番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。」 

そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。

 

 ここで興味深いのは、キリストを十字架刑に追いやることを謀った祭司長やパリサイ人たちが、キリストが予告して言った「わたしは三日後によみがえる」ということを覚えていて、その言葉を無視できないでいるということです。一方、キリストの弟子たちはといえば、キリストが死んだ後、悲しみと恐れに囚われ、落胆しきって、キリストがお語りになった復活の予告を思い出す者はいなかったのです。ですから、キリストの復活を受けとめるということにおいては、弟子たちよりも祭司長やパリサイ人たちの方がはるかに勝っていたといえます。

もっとも祭司長たちは、キリストの復活そのものを信じてその実現を恐れていたというわけではなさそうです。弟子たちがイエスの遺体を墓から盗み出して、復活をしたと民衆に触れ回ることになれば、厄介なことになると考えていました。そこで、弟子たちにイエスが「死人の中からよみがえった」と言わせないために墓に番兵をつけ、墓を封印したのでした。これがキリストの墓を番兵が見張ることになったことについての経緯です。このような番兵たちについては、こう申しあげてもよいでしょう。

キリストの墓に、見張りをする番兵がいたということは、キリストの復活を認めようとしない人たちがいたことを表わしており、キリストが「死人の中からよみがえった」という復活の報せを封じようとする人たちがいたということを表わしているのです。それはまた、こう言いかえることもできます。

キリストの墓に、見張りをする番兵たちがいたということは、神のご計画を阻止しようとする人間がいたということであり、キリストを復活させる神のみ心を踏みにじる人間がいたということです。

 

 こうして、キリストが「死人の中からよみがえった」という声をあげる者を出させないために、祭司長たちは用意周到に、キリストの墓に番兵を付けたさせたのでした。ところが、その後の出来事は、祭司長たちの思惑とはあべこべに進んでゆくことになりました。キリストが「死人の中からよみがえった」という声をあげる者を出させないために墓に送ったはずの番兵たちが、キリストが「死人の中からよみがえった」ということを証言する者になって行くのです。これは明らかに神のなさったことでした。祭司長たちのために働くはずであった番兵たちを神は、ご自分の働きのために用いてしまわれたのです。これは愉快なことです。そして、私たちはこういうことも忘れずに、ここから一つの望みを汲み取っても良いのではないかと思います。つまり〈神を信じ、神のために生きることを願う人〉を神は用いるだけでなく〈神に逆らい、神に敵対する人とその側にある人〉をも神はお用いになるということです。(そういう例が、旧新約聖書には幾つも記されています。)

 

 さて、番兵たちはどのようにして復活の証人となって行ったか。そのことを福音書は詳しく記しています。先ず、キリストがお甦りになった日、大きな地震が起こりました。その地震について福音書は「主の使いが天から降りて来て石を脇に転がし、その上に座ったからである」と記しています。こうした記述については、おとぎ話しのように感じてしまい、現実のこととしては受けとめられないと考えてしまう人もあるかもしれません。そうした方に申しあげます。どうぞ、こうした福音書の表現につまずかないでください。福音書が言いたいことは、要するに、この地震はたんなる自然現象として起こったのではなく、神の手が働いているということなのです。

墓をふさいでいた石が転がされ、その石の上に座った天使たちの姿を見た番兵たちは「震えあがり、死人のようになった」といいます。これについても、番兵たちは今まで見たことのない、地上のものではない、神が関わっておられるものを直接に見たことによる、そのあまりの驚きに死人のようになったということを福音書は言いたいのです。その驚きの中で番兵たちは、墓に来ていた二人の女性たちが聞きましたキリストの復活の報せを、その場で一緒に聞いていたのではないかと思われます。

 

 「十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。

前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい」

 

ところで、こうして墓の封印は破られたのですが、このことは、墓の中から復活されたキリストが出てくるためのものではありません。福音書は、墓をふさいでいた石が転がされると、そこからキリストが出てきたとは言っていません。墓をふさいでいた石が転がされるよりも前に、既にキリストは復活されて墓の中にはおられなかったのです。

それならば、なぜ、わざわざ墓の封印を解いたのかといえば、それは、神のご計画を封印しようとした人間の妨げがはっきりと破られたことをあらわすためであったといえます。

復活祭の喜びを歌う聖歌はこううたいます。「(墓の)番を続けてきた兵の努力は空しくなった」と。こうして、神のみ心を妨害しようとする人間の努力は空しく終わります。これは神の審きであり、同時に福音と言ってもよいでしょう。

 

 私たちの生きている社会の現状は、神のみ心とは反対向きのことが実に多いということを思います。皆さんの職場はどうでしょうか? クリスチャンとしての信仰をもって、社会で仕事を続けるということは時に、いろいろな苦しみや悩みを伴うことがあります。それはなぜかといえば、聖書を通して知る神のみ心と、社会の現実とがあまりにも違いすぎるからです。

職場だけではありません、家庭はどうでしょうか? 神のみ心を行うことよりも妨げてしまうことのほうが多い……自分自身が、神のみ心を妨害する側に立ってしまっていることがある。そのことを恥ずかしく思うこと度々ではないでしょうか。そうした職場や家庭の中で自分が情けなくなってしまうことがあります。その時こそ、私たちは封印が解かれた墓、中が空になっている墓と、また倒れている番兵の姿を思い起こしたいのです。そうしながら一つの事実を自分に言い聞かせるのです。

――確かに社会には、神のみ心を妨害するものが至るところにある。自分自身が神のみ心を妨害する側に巻き込まれてしまっていることもしばしばである。しかし、神のみ心を妨害する人間の力は空しく終わる。私たちのうちに巣くう神のみ心を妨げる思いや力についてもこれを神が空しくしてくださる! だから私はクリスチャンとして生きることを止めてしまうことはしない。

 さて、話を復活の物語にもどしましょう。

天使からキリストが甦ったことを聞いた二人の女性たちは、そのことを伝えるために、弟子たちのいるところに走りました。そうしている間に、倒れていた番兵たちも、墓で起こった出来事を伝えるためにエルサレムの都に向かって走り出していました。そして、墓で起こったことをすべて祭司長たちに報告したのでした。ここでは兵士たちは復活の証人としての働きをしていたといえます。

こういう場合、兵士というのは見たこと聞いたことを正確に報告するものです。そういう訓練を受けているからです。この番兵をしていた兵士の報告を聞いた祭司長たちは、墓で起こった出来事が弟子たちの仕業によるものではないことは認めたことでしょう。それどころか、兵士たちの報告によれば、墓で起こったことは人間わざではないということを感じとっていたに違いありません。

 そこで祭司長たちはどうしたか。すぐさま会議を開きました。そして、今度ばかりは、あのイエスの言ったことを信じないわけにはいかないという結論を出し、神のみ心をようやく受けとめたかというと、そうではなく、番兵たちに金を握らせたのです。つまり賄賂をつかって、兵士たちに「弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んでいった」と嘘の証言をするように説得したのです。その際、祭司長たちは兵士たちの気持ちを込みとることも忘れていません。つまり、番兵が眠っていたとなれば、職務怠慢ということで、兵士たちの司令官である総督ピラトから――眠っていたとは何事か。お前たちは何をやっていたのだ、と兵士たちは責任を追及されかねません。そうならないように祭司長たちは「このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたに心配をかけないようにするから」という念の入れようです。こうして祭司長たちは、復活の証人を金の力で潰してしまったのです。

こうしたことを詳しく記しているのもマタイの福音書だけです。そして、やはりこうしたことを記しながらマタイはあることを強調しているのです。それは、キリストを復活させた神のみ心に対して、あくまでも心を閉ざす頑なな人間がいるということです。

そもそも神はなぜキリストを復活させられたのか。私たち人間の救いのため、この世を救うためです。そのためのキリストの復活を、あくまでも認めようとしない人間の現実をマタイははっきりさせているのです。

 

こうして今朝の聖書からは、二つの事柄が浮かびあがってきます。ひとつは、神のみ心は人間の不信仰や妨害によっても妨げられることがない強さを持っているということです。そのことをマタイは、兵士たちの見張りが空しく終わり、墓の封印が解かれたことを示しながら強調したのでした。

同時にマタイはもうひとつのことについても強調して示しました。それは、神のみ心によって成し遂げられた復活の事実は、それを認めようとしない人間の頑なさに対してはまことに弱いということです。わずかな金の力でも復活の事実は覆われてしまうほどに弱い。その二つの現実を、私たちは忘れずに、常に心にとめておきたいと思います。そうすることで、私たちは、福音を証しするうえでの不必要な落胆や迷いからも守られるのです。

 

(2021年4月11日 復活節第2主日)

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