マタイの福音書第28章1~10節

マタイの福音書第28章1~10節 

「キリストの復活」

 

 イエス・キリストは、金曜日に十字架でみ苦しみを受けて死なれ、その金曜日から数えて三日目の日曜日に墓から復活されました。この日曜日の明け方、二人の女性たちがキリストの墓を見に行きました。この二人は、弟子たちと共にキリスト仕えてきた女性たちでありました。そんな二人がキリストの死後、三日目に墓を見に行ったその理由は、当時の習慣によるものでした。つまり二人は、香料を持って、墓に納められている遺体にそれを塗ろうとして墓に出かけて行ったのです。これは、なんとも奇妙なことではないでしょうか? といいますのも、キリストを十字架に追いやった祭司長やパリサイ人といった人たちは、キリストが「わたしは三日後によみがえる」と復活を予告したことを覚えていて、そのことに対処するために、キリストの墓を見張ってほしいとローマ総督に要望しているのです。そういうわけで、キリストの墓には番兵がついていました。このように、いわばキリストの敵であった人たちは三日目の復活ということをよく覚えていたわけです。ところが、キリストの身近にあった女性たちは、三日目の復活ということを確かめるために墓を見に行ったというのではなくて、ごくありふれた一種の墓参りに行っただけなのです。

そして、キリストの弟子たちにいたってはこのときどうしていたのか、聖書は何も記していません。しかし、弟子たちのことを知る重要な手がかりになることは記しています。それは天使(御使い)の語りました言葉のなかにあります。イエスの墓を見に来た女性たちに対して、天使はこう言ったのでした。

「イエスは死人の中からよみがえられました。

そして、あなたがたよりも先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます。」

 

ここで注意して聞きとりたいのは「あなたがたよりも」すなわち弟子たちよりも先に、復活されたキリストがガリラヤに行かれると天使が言っていることです。天使は、弟子たちがガリラヤに行こうとしていることを知っていた。その弟子たちよりも先にキリストがガリラヤに行かれると告げている天使の言葉どおり、日曜日の朝、弟子たちとはどうしていたかというと、ガリラヤに行こうとしていたのです。

ガリラヤとは、弟子たちの出身地、故郷であったところです。その地方にはガリラヤ湖という湖があり、弟子たちのなかには、キリストの弟子になる以前、この湖で漁師をしていた者が何人もおりました。そうしたガリラヤ出身の弟子たちが故郷に帰えろうとしているのです。一つの仕事を立派にやり遂げて成功者として錦を飾って故郷に帰るというのではありません。――イエスさまの弟子となって故郷を後にしてきたけれども、肝心の先生であるイエスさまがいなくなってしまって、これからどうしていったらよいのか……という途方に暮れる思いで故郷に帰るのです。

弟子たちのなかには、もとの漁師にもどってやり直そうという者がいたかもしれません。その場合であっても――よし、俺はもう一度最初から漁師としてやり直すぞ!という積極的な思いからではなく――イエスさまがいなくなってしまわれた以上、他にやることがないから……という諦めの思いしかなかったでありましょう。このような落胆と諦めに落ち込んでしまっている弟子たちの姿が、今朝の聖書に記されている「ガリラヤ」という地名からは浮かびあがってくるのです。

こうして、キリストの復活を伝える聖書は、キリストの敵であった人たちが三日目の復活についての予告をよく覚えて、彼らなりに注意を払っていたのに対して、キリストの身近にあった女性たちや弟子たちは、復活についての希望を全く持っておらず、キリストが「わたしは三日後によみがえる」と語られたみことばを思い出すことすらも全くできないでいたことをありのまま記しているのです。

しかし、だからといって、今朝の聖書は、キリストの復活を希望とすることができず、復活のことを覚えてもいなかった人たちの、ふがいなさを語ることが目的なのではありません。そうではなくて、キリストの復活を物語る今朝の聖書は、偉大な慰めを私たちに告げてくれているのです。その偉大な慰めを、復活祭の礼拝の恵みとして、共に受けとめてまいりたいと思います。

  さきほど申しあげましたように、ガリラヤに行こうとしていた弟子たちというのは――これから、どうしていったらよいかわからない……と途方に暮れ、――いままでの努力は何の意味があったのだろうか……と空しさに落ち込んでいる人たちでありました。そうした暗く重い心を引きずるようにしてガリラヤに行こうとしていた弟子たちの姿というのは、私たちが陥る現実と重なるものといえます。

 皆さまの中に――これから、どうなってゆくのだろうか……と、これから先のことで不安を抱いている方はいないでしょうか。あるいは――私のこれまでの努力はなんだったのだろう……と、過去のことで納得がいかなかったり、悔しい残念な思いを払拭できずにいる、という方はありませんか。そうしたときの私たちと、ガリラヤに行こうとしていた弟子たちとは、程度の違いはあるかもしれませんが、心に重圧がのしかかり、軽やかさを失っていたという点で同じであるといえるしょう。こうして聖書は、遠い過去の出来事をただ記しているのではなく、私たちの心を映し出す鏡となるのです。

 

 さて、そうした弟子たちに対して、そして私たちに対しても、神の言葉を伝える天使は復活祭の福音をこう告げています。

「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを探していることは 分かっています。

ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです……

『イエスは死人の中からよみがえられました。

そして、あなたがたよりも先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』。

いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」

 

 天使が「いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました」と念入りに告げた言葉のとおり、この後、弟子たちはガリラヤで復活されたキリストとの出会いを果たします。そのあたりのことについて詳しく伝えてくれているのはヨハネの福音書とルカの福音書です。これらの福音書を今朝は紐解くことはしませんが、復活されたキリストと弟子たちとの出会いを伝える記事には共通して言えることがあります。それは、キリストが復活された後、そのキリストを弟子たちが探し回るというのではなくて、復活されたキリストの方から弟子たちにお出会いになっているということです。復活されたキリストが、いわば先回りをして弟子たちを迎えるのです。このことは、私たちがキリストの復活を福音として受けとめるための重要なヒントといってよいでしょう。

 弟子たちが落胆失望のゆえにガリラヤに行こうとしている、その弟子たちより先にキリストはガリラヤに行き、そこで弟子たちを迎え、弟子たちを励まされました。そうしてようやく弟子たちは元気を取り戻していったのです。私たちにとりましても、困難や不安、あるいは落胆を覚えながら、重い心で出かけて行かなければならない所があります。そこに、キリストは先回りをして待っていて下さる。そして、私たちが元気を取り戻すために必要な助けを与えてくださいます。

 復活祭の福音について、もう一つのことを受けとめたいと思います。

 本日は礼拝の後、墓地に行き、祈りのときを持ちます。復活祭に合わせて墓前祈祷をする一つの理由は、復活の福音によって亡くなった人のことを偲び、また私たち自身にもいずれやってくる死の時を、復活の福音をもって備えるためです。

 個人的なことを申しますが、私は牧師になりまして23年目になります。その間に、おそらく40名近い方たちの葬儀を執り行ってきました。そのなかには、突然亡くなられた方が何人もおられました。例えば、岡山から大阪の教会に赴任をしてすぐに葬儀をしたことがありました。大阪の服部喜望教会に赴任して最初の日曜日に、私たちの歓迎会が行われまして、そこで笑顔で挨拶をしてくれていた一人の男性教会員が、その翌日、仕事中に転倒されて亡くなられたのです。まだ50歳代の方でした。

 それから2年ほど後、役員の一人でありました男性教会員の方が、日曜日の礼拝で司式をしたその晩に、突然、自宅で呼吸が止まってしまい、救急搬送され人工呼吸器による処置をうけましたが亡くなられました。40歳代の方でした。他にもまだ例をあげることができます。

死というのは突然訪れる。――まさか、あの人が亡くなるとは……と言わずにはおれないような、誰も想像しなかったような時に、死の不意打ちに遭うようにして亡くなった方が何人もいらっしゃいます。こうしたこともまた私たちの人生の一つの現実です。そして、この死の不意打ちをくらうようにして死んでしまうということが私たちにとって不安や怯えの種になります。

 そういう私たちに、復活の福音は重要なことを気づかせてくれるのです。それは、私たちを不意打ちにするのは死だけではないということです。復活のキリストこそは、不意打ちのようにして私たちを迎えてくださるのです。弟子たちがガリラヤで約束どおりキリストに出会うことになった時も、――予定通りでしたね、というようなことではなくて、キリストとの出会いは不意打ちでした。――まさか、こんなところで、こんな形でイエスさまと出会えるとは! という驚きの出会いであったのです。

 墓を見に行った二人の女性が、復活されたキリストに出会った時も不意打ちでした。二人が弟子たちのところに向かって走っていたときに、その行く手にいつのまにかキリストが立っていて、ふたりに「おはよう」と声をかけて来られたのです。そのようなキリストとの再会を、この二人の女性たちは全く予期していなかったでしょう。そのようなキリストとの出会いは二人にとって忘れがたいものとなり、後々までしぼむことのない慰めとなったに違いありません。

 

 なるほど、私たちは確かに死の不意打ちを受けるかもしれません。いつどのようにして死ぬ時が来るかは分かりません。しかし、そういう私たちを復活のキリストは、まさに不意打ちをかけるようにして迎えて下さいます。

 私たちが思いもよらないような方法で、場所で、また思いもよらない時に、復活のキリストはご自身をあらわし、私たちを死の恐れから救ってくださるのです。このキリストによる不意打ちを期待し、喜ぶこともまた復活の信仰に生きる者に与えられる福音と言えましょう。

 

先回りをして待っていてくださる復活のキリスト。

あらゆる突然の危機からも私たちを守るために、

恵みの不意打ちをかけて下さる復活のキリスト。

そのキリストによる平安が、皆さんを満たしますように!

 

(2021年4月4日 復活主日)

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