マタイの福音書第26章57~75章

マタイの福音書第26章57~75節 

「打たれ、拒まれるキリスト」

 

 今、共にお聴きしました聖書の後半には、キリストの弟子の一人でありますペテロがイエスのことについて「そんな人は知らない」と言って、キリストとの関係を否認したことが語られていました。このキリストを否認したペトロの出来事にまつわる一つの忘れがたい思い出があります。

大阪の服部喜望教会に在任中のことです。服部喜望教会では、教会員の自宅に集う家庭集会が毎月、三か所で行われていました。その家庭集会の一つは、礼拝でオルガンを奏楽してくださり、また長女がピアノを習っていましたときのピアノの先生をしておられる教会員の方の家で行われていました。その家庭集会にほぼ毎月出席したおられた一人のご婦人にHさんという方がおられました。Hさんのお父様は、旧日本海軍の巡洋艦の艦長を勤めた将校であったそうで(これでHさんの年齢がだいたいお分かりになるでしょう)、Hさんご自身はクラシック音楽を聴くことがとても好きな方でありました。

そんなHさんと家庭集会での学びを終えてお茶をいただいているときに一度ならず何度か、こんな会話を交わしたことがありました。

 ――こうして聖書の学びができることを嬉しく思っているんですよ。でもね、先生には申し訳ないけれど、私はクリスチャンにはなれそうにありません。

――どうしてですか?

――私には罪ということがよくわからない。いや、頭ではわかるのだけれども、前任の先生は説教のたびごとに罪、罪ということを言われ、それを私は受けとめることができなかったのです。罪がわからないとクリスチャンにはなれなのでしょう。

――そうですね。しかし、聖書のいう罪というのは、人からさんざん説得されてわかるようなものでもないでしょうね。まあ、気長に学んでいきましょう……というような会話です。

 そのHさんからある晩電話がありました。

――今度、バッハの『マタイ受難曲』のコンサートに行くのだけれども、マタイ受難曲というのは聖書をもとにしてつくられた歌がうたわれるのでしょう。だから前もって、聖書を読んで準備しておこうと思うのですが、どこを読めばよいでしょうか?

――それなら、マタイによる福音書の第26章と第27章を読んでおくとよいでしょう。

それからしばらく後、コンサートが終わった後にめぐってきた家庭集会のときにHさんは嬉しそうに、

――先生、読んでいった聖書箇所がほとんどそのまま歌になって出てきていましたよ、と言ってプログラムを渡してくださいました。プログラムには、マタイ受難曲のドイツ語の歌詞とその対訳が印刷してありまして、その歌詞のなかにHさんがアンダーラインを引いた箇所がありました。それは、ペテロがキリストを「そんな人は知らない」と否認する場面でした。このときのペテロのことがよほどHさんには印象に残ったようでして、結局Hさんはこのペテロの姿を通して罪ということを受けとめていかれたのでした。キリストを否認してしまうペテロ姿が、Hさんにとって、自分の姿を映す鏡のようなものになったのであろうと思います。ペトロの姿を想いながら――所詮、人間とはこういうもの……というふうに済ませてしまうのではなく、――ああ、自分の身を守るためにイエスさまのことを知らないと言ってしまうペテロの姿は私の姿だ、と気づく体験をHさんはなさった。そして洗礼を受ける決心をされたのです。このHさんのように、ペトロの姿を通して、自分も確かに罪を犯してしまっているということを受けとめる体験をされる人は多いでのではないかと思います。だから、今朝はうたいませんが讃美歌『ああ、主の瞳よ、まなざしよ』を愛唱歌とする人も多いのです。

今朝の聖書の前半に語られていますキリストを裁いている人々の姿というのも、それを注意深く見て行くならば、そこにも私たちの罪人としての姿が映し出されてきます。キリストを裁いている人たちと同じ罪を私たちも知らず知らずのうちに、自覚なしに犯していることに気づくことになると思います。しかし、そうしたことについて、今朝は、もうこれ以上触れないことにします。というのは、今朝の聖書は、確かに罪人としての私たちの姿を映し出す鏡としての働きをするのではありますが、それ以上に重要なことに目をとめたいからです。

 

その重要なこととは、今朝の聖書が人間の罪深さに勝って、キリストの慈しみがどんなに大きなものであるかということを明らかにしてくれているということです。裁かれ打ちたたかれているキリスト、弟子から「そんな人は知らない」と拒まれてしまうキリスト。そのキリストの姿には、人間の卑劣極まりない罪に対してすらも微動だにしない神の慈しみが輝いているのです。

 先ほどお話したHさんが洗礼を決心されたのも、自分の罪を受け入れることができたからということだけではないのです。それと共に、私たちの罪深さに対しても動じることのない神の慈しみ、キリストの慈しみの輝きを見ることができるようになったということなのです。人間の罪の現実よりも、神の慈しみの現実は比較にならないほどに大きい! それを知ってHさんは安心したのでしょう。その安心が洗礼を決心させたのです。

確かに、この世において悪の力は大きい。しかし神による善の力はもっと大きい。この世において悪魔の力は強いが、神の力はそれ以上に強い。罪の力を侮ることはできません。しかし、それ以上にキリストの慈しみは大きな力で私たちを救い癒すことができる。そのことを証しするために今朝の聖書は、打たれ拒まれたキリストの姿を物語っています。ですから私たちは、キリストを裁いた人たちのことではなくて、またペテロその人のことではなくて、キリストに注目して行こうではありませんか。

 そこで先ず、キリストは最高法院でどのような裁きを受けたのかを見てゆきましょう。

 聖書がこの裁判についてはっきり語っていること、それはこの裁判そのものがキリストに対する憎しみに満ちていたということです。

いやしくも裁判というからには、何が事実であるか、そのことを正しく明らかにしていこうという空気がなければなりません。しかし、この裁判には憎しみという空気しかなかった。その裁判によってキリストに対して下された判断は、キリストが「神を冒涜した」ということでありました。ひたすら天の父である神の栄光のためにみことばを語り、みわざを行ってきたキリストを指して「この男は神を冒涜した」と言い放ったのです。これほどに根本的に間違った、真実の事柄を根本的にあべこべにしてしまっている判断があるでしょうか!

神の御子に対して――お前は神を冒涜した!と断定した。これ以上にキリストの心を傷つける侮辱的な判決はないでありましょう。こうした、根本的に間違った、侮辱的な言葉によってキリストの心は打ちたたかれたのです。それに比べれば、拳や平手によって打たれ殴られるといったことは、キリストにとってたいしたことではありません。キリストが裁判でお受けになった受難、それは「この男は神を冒涜した」と決めつけられることに耐え忍ぶことでありました。

 

 次に、このような裁きに対してキリストはどのような態度をおとりになったか、そのことに注目してまいります。それについては聖書がはっきりとこう記しています。「イエスは黙っておられた」

キリストを不利に追い込むための証言がなされてもキリストは黙っておられました。普通だったら――それは違う、それは私の言葉を全く誤解している、と反論するでしょう。あるいは――あなたがたには何を言って無駄だ。もう何も語ることはない、といって口をつぐむことがあるかもしれない。しかし、キリストはそうしたことをなさいませんでした。

 私たちが反論をしないで口をつぐむときというのは、しばしば、煮えくり返った怒りに蓋をするようなものであったり、もうこれ以上混乱を大きくするぐらいだったら黙っていようという混乱を避けるためのものであったりする。しかし、キリストはそういう理由で沈黙されたのではないのです。

 この沈黙されているキリストから知るべきことは、沈黙は、しゃべるよりも、よりはっきりとした意思表明になりうるということです。この時キリストは、沈黙することで――わたしはあなたがたが考えているような者ではないし、あなたがたが捏造しようとしているような者でもない、ということをはっきりと表明しておられるのです。

 

 その一方でキリストは、ただ沈黙を守っていただけではありませんでした。語るべきことについては敢然と語ることもなさいました。大祭司が「生ける神によってお前に命じる。お前は神の子キリストなのか、答えよ」と押しつけがましくも聞いてきたとき、キリストは、「あなたが言ったとおりです」と語られ、ご自分がキリストすなわち救い主であることを認める発言をなさったのです。しかし、この発言が、命取りになるのです。もし、この時、キリストの傍に現在の弁護士がいたなら、この大祭司の質問に対しては黙秘するように忠告したことでしょう。しかし、大祭司の問いに対してキリストは沈黙をしなかった。「お前は神の子キリストなのか」という問いに対しては、その通りだと!と一切の曖昧さを残さずにお語りになったのです。

 このときのキリストについてはこう言っても良いでしょう。キリストは憎しみと悪意に満ちた裁判のなかで、憎しみと悪意に対して沈黙をもって闘い、またご自分が救い主であることについては決然とそのことを表明された。この世を救うために、私どもを救うために、キリストは憎しみと悪に対して戦い抜いてくださったのです。

 最後にペテロに対するキリストを見てまいります。といいましても聖書に書かれているのはペテロのことだけでキリストの様子については何も記されていません。そこで注目したいのはイエスを否定してしまったことでペテロが泣いた、その泣いた理由です。それを聖書はこう語っています。

「ペテロは『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた」

 ペテロは最後の晩餐の時に、キリストが語られた言葉を思い出したのです。――ああ、あの時、先生は、私がこんなことになってしまうことをもうわかっておられたのだ……と。

 キリストが最後の晩餐の時にペトロに対して「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」とお語りになった時、その口調は厳しいものであったでしょうか。おそらくそうではなかったでありましょう。キリストはペテロの犯してしまう罪を予告しながらも、そのペテロをどこまでも受け入れ、ペテロを愛するお気持ちが揺らぐことはなかった。ですから「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と語られたキリストの声は、しずかな落ち着きのなかに、ペトロを慈しむ思いが込められていたにちがいありません。そういうキリストの言葉と声を思い出したからこそペテロは泣いたのです。

 

ペテロは、自分を愛し続けて下さったキリストを「そんな人は知らない」と拒む卑劣な罪を犯しましたが、そのペテロの罪よりもキリストの慈しみは限りなく大きなものでした。その限りなく大きなキリストの慈しみの中でペテロは涙を流すことができたのです。ペテロは、自分のふがいなさに悔し涙を流したのではありません。ペテロはキリストのゆるしという慈しみに気がついて、やさしさに気がついて泣かずにはおれなかったのです。                            

 (2021年3月7日 受難節)

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