マルコの福音書 第8章34~37節
「クリスチャンとはどういう人か」
今、私たちはキリストがこうお語りになったのを聴きました。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」
この言葉を聴いて、私たちが先ず注意すべきことは、これは特別な人にだけ向けて語られた言葉ではないということです。例えば牧師になるような人、カトリックのシスターになるような人、そういう人たちに向けてキリストは「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て……」とお語りになったのではないのです。
聖書(34節)に記されているようにキリストは「群集を弟子たちと一緒に呼び寄せて」この言葉を語られました。弟子たちと共に群集にも関係のあることとして、そして当然、私たちにも関係のあることとしてキリストはお語りになっているのです。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」
この第8章からは、三つの「誰か?」という質問を読み取ることができます。第1の質問は『イエスは誰ですか』というものです。キリストが弟子たちにおたずねになりました「人々はわたしのことを誰だと言っていますか」という質問です。これに対してはペテロが「あなたはキリストです」と言いましたように『イエスはキリストです』が答えになります。
第二の質問は『キリストとは誰ですか、キリストとはどういう人ですか』というものです。これについてはキリストご自身がこうお語りになっています。「多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」。
そして第三の質問はこうです。『クリスチャンとは誰ですか、クリスチャンとはどういう人ですか』。その答えは「自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従う人」ということになるのです。
ですから繰り返すようですが34節の「だれでもわたしに従って来たければ……」というキリストの言葉は、伝道者になるような人だけに向けられて語られているのではなく、すべてのクリスチャンに向けて語られているのです。
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さて、それでは私たちは何時から、自分を捨てて自分の十字架を負うようになったのかというと、それは洗礼を受けたときからです。洗礼を受けた時から、もう既に私たちは、自分を捨てて自分の十字架を負う者となっている。そのことを曖昧にしないで、はっきりと受けとめたい。
先週の日曜日の午後、栃木聖化大会という集会が行われました。この集会の名前にもなっています「聖化」は「きよめ」と呼ばれます。この聖化とかきよめという言葉は、私たちがどれだけきよくなっているかという私たちの状態を表すものではなくて、神のみわざ・神のお働きを表すものです。神が私たちを聖なるもの、すなわち神のものとして別に取り分ける。それを聖別といい、神によって聖別されることが聖化であり、きよめられるということなのです。その聖別はいつ実現するのかと言うと洗礼の時です。私たちは洗礼を受けた時に、神のものとされた。聖なるものとされた。きよめられたのです。そのときから、自分を捨て、自分の十字架を負う者とされているのです。
このことについて、しばしば誤解されることがある。それは、きよめられるためには、自分を捨てることができなければいけない。きよめられるためには、自分の十字架を負えるようにならなければならない、と考えてしまうことです。そうではありません。もう一度言います。私たちは洗礼を受けた時に、神のものとされた。神のものとして聖別され、きよめられました。だから、自分を捨て、自分の十字架を負うのです。
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さて、それでは、神のもとして聖なるものとされたクリスチャンはなぜ「自分を捨てる」のか。この言葉を快く受け入れることに難しさを感じてしまう人は結構多いのではないかと思います。なんとなく宗教臭いと感じる人があるかもしれません。あるいは「国や社会のために自分を捨てて働く」という滅私奉公のようなことを思い出す人もあるかもしれません。自分を捨てるということを「自分のしたいことを諦めるように」と聞く人もあるかもしれません。
「自分を捨てる」ということ、そして「自分の十字架を負うこと」とは一つのことです。それはどういう生き方をすることなのか。そのことを知るために、先に覚えておきたいことがあります。それは、神はなぜ、私たちを聖別されたのか、その理由、その目的です。それは、手短にいえば、神が私たちを用いるためです。何のために用いるのかというと、愛のないところに愛を届ける。愛の薄いところに愛を注ぐ、要するに隣人を愛して、隣人を元気づける。隣人の心に安らぎを与える。そのために神は、私たちを愛の担い手として聖別されたのです。
そのことが分かれば「自分を捨てる」ということの意味、またなぜ自分を捨てなければならないのかということはもうお分かりでしょう。
「人類みな兄弟、世界中の人々に愛を届けよう」と標語を唱えるだけなら、自分を捨てることがなくてもやっていけます。しかし、隣に住んでいる頑固なおじいさんを愛する。否、同じ屋根の下に住んでいる親を愛する。息子とその妻を愛する。それを誠実に行うためには、自分を捨てていなければできません。そうでないと「なんで私がこんな頑固で自分勝手な〇〇さんの言うことに……」となってしまうのは目に見えています。
マザーテレサは「貧しい人々は、私たちのお情けを必要としてはいません。貧しい人々が求めているものは、私たちの愛と優しさなのです」と言いました。「お情け」をかけるということは案外、自分を捨てなくてもできることです。
「ああ、この人は、幼いころの育った環境が悪かったからこんな性格になってしまったんだな、それじゃしかたがないな……」「……かわいそうに」と思って、その人の行動や言葉を我慢して受けとめる、そういう「お情け」とは愛とは、やはりどこか違う。
相手を愛する、そのことを実践しようとするとき、何がしかの痛みが伴うことがあります。あるいは自分のもっているものを犠牲にすることもあるでしょう。はっきりいえば、相手を愛することは損得勘定でいうと損をすることが多い。しかし、そういうことに縛られないで相手に愛を注ぐことができる時というのは、自分を捨てているものです。
キリストは、私たちを愛するために十字架というみ苦しみを負われました。キリストは愛するということのために苦しみを負わなければならなかった。キリストですらそうだったのです。私たちは、キリストよりも上手に、苦しまないで人を愛することができるということはありえないことです。誰かを愛する、そのことに心を注ごうとするなら苦しみが伴う。それが私たちの負う自分の十字架なのです。
隣人を愛するために苦しみという十字架を負う人、クリスチャンとはそういう人なのです。
「自分を捨てる」ということをパウロは「自分に死ぬ」と言いました。自分を捨てるにしても、自分に死ぬにしても、それは一回きりの出来事で完結することではありません。「私は一度、あのとき、自分を捨てていますから、もう自分を捨てることができています」ということになにらないのです。隣人を愛するためには、日々自分を捨て、自分に死ぬことが必要となります。では、自分に死ぬとはどういうことなのか。
こんなエピソードを聞いたことがあります。ヨーロッパのある教会堂の中にある墓地でのこと。夜になると、石でできた棺の一つから音がする。ある晩、祭司は音のする棺のところに言ってこうどなった。「うるさいぞ、死んだ者は死んだ者らしく静かにしていろ!」
このことと私たちが自分に死ぬことは似ているところがあります。私たちはきよめられていないから「自分に死んでいない」というのではない。「自分に死ぬ」ことができたらきよめられるというのでもない。私たちは既に、洗礼を受けた時に自分に死んだのです。ルターは、洗礼を受ける時に何が起るのかということについて、古い自分が、洗礼の水によって溺れ死ぬのだということを言いました。隣人を愛せない古い自分をあの洗礼のときに死んだのです。だから、私たちが日々、自分に死ぬためにやることは、「死んだ者は死んだ者らしくしろ」と自分の心に向かって言い聞かせることです。そうして何度でも自分を捨てる。愛の実現のために何度でも解き放たれてゆくのです。
社会の中で、自分を捨て自分の十字架を負って生きるということを考える時に思い出すことがあります。
(私自身、この話を度々思い出しては月~金曜日の仕事に励んでいます)
もう亡くなられた方ですが、国際基督教大学の教授をしていた古屋安雄という先生がおられました。この先生の下で学んだ卒業生か、あるとき先生のところに集まってきて同窓会をしました。そのとき、一人の卒ぎようせいが先生にこう質問をした。「先生から学びましたキリストによる山上の説教の教えと、今私が務めている商社の仕事とはどう両立しますか」それに対して古谷先生はこう答えたそうです。
「わからないよ。僕は商社に勤めたことがないから」
「しかしね、君が洗礼を受けたということを忘れないで欲しい。神が神の子であることを、神の国の住人であることを忘れないで欲しい。言ってみればね、神は神の国の工作員になったんだからね」
「工作員はね、正体がバレたらだめなしていんだ。だからあんまりクリクリしなくていい。いかにもクリクリしている必要はない。黙って、しずかに働ければいい。だけどねえ、君の職場にも、こっそりと愛の爆弾を仕掛けていらっしゃい。いつかは見事に爆発するようにね」
自分を捨て、自分の十字架を負って生きるクリスチャンは、愛をもたらす工作員、このことを私は度々思い出しながら、仕事をしています。
(復活節主日礼拝説教)