マルコの福音書第8章27~33節

マルコの福音書 第8章27~33節 

「ペテロは何を誤ったのか」

 

 私たちは、一生忘れることのできないような大きな失敗を一度や二度するものです。もしここにペテロがいたとして、こんな質問をしてみたとしましょう。

「ペテロ先生、こんなことをお尋ねして大変失礼ですが、あなたにとって生涯忘れられない失敗ということで思い出されることはなんですか」。それに対してペテロはこう答えるのではないかと思います。

「一つは、つい先ほど皆さんが讃美歌(新聖歌221)で歌っていたでしょう。『ああ主の瞳 眼差しよ 三度わが主を否みたる 弱きペテロを顧みて』と。私が三回もイエスさまを知らないと言ってしまったこと。あれは私にとっての実に恥ずかしい失敗でした。そして、もう一つは、今朝、皆さんが聞いた聖書の物語がそれです。私がイエスさまから『下がれ、サタン』と叱られることをしてしまったことです」。

 

 まあ実際には、相手の大きな失敗を尋ねるようなことは、余程のことがない限りありえないことです。またそういう失敗は人の前には隠しておきたいし、それを話題にされるようなことは嫌なことです。考えてもみてください。自分の失敗が歌に取りあげられて名前まで出てきて歌われるなんで普通でしたら耐えられないことでしょう。しかしペテロは、そういうふうには考えなかったのではないかと思います。むしろペテロは、後に教会の指導者になってから、いろいろな教会を訪ねる折に自分の失敗を語ってきたのではないか。そして、そういう失敗を重ねてきた自分をそれでもキリストは見捨てることなく愛し続けて下さったということを証言してきたに違いありません。またそれを聴いた初代教会のクリスチャンたちも「ああ、これはペテロ先生だけの問題ではない。私もまた同じ過ちを犯してしまっている……」と悔い改めを新たにしてきたのです。ですから私たちも、ペテロの失敗を他人事のように聞くのではなく、ペテロの過ちから大切なことを学び取り、同じ失敗を繰り返してしまうことがないように心したいと思うのです。

 さて、ペテロがキリストから叱責を受けるきっかけになりました出来事を聖書はこう記しています。

「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。イエスはこのことをはっきりと話された。」

ここでキリストが「教え始められた」というときの「教える」とは、例えば、誰かに道を尋ねられて道を「教える」というような一時のことではなくて「教育をする」という意味です。キリストは、ペテロから「あなたはキリストです」という信仰告白ともいえる言葉を聞いた後、キリストとしてのご自分のことを弟子たちに教育をはじめられたのです。そこで、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを「はっきりと話された」と聖書が記していることにも注目したい。「はっきりと」とは「あからさまに」「公然と」と訳すこともできます。このときのキリストの口調は、いつもとは違っていたのです。

 

キリストが捨てられて殺される、そして三日の後に甦ると聞けば、私たちはすぐにそれは十字架の死と復活のことだと分かりますが、そういうことを当時の弟子たちはまだ理解できる段階ではありませんでした。ですから弟子たちは、先生はこれから殺されるような危険な目に遭おうとしておられるという点だけを聴き取ったのだろうと思います。イエスが殺されるということは弟子たちにとって考えられないこと、あってはならないことでした。イエスの身を案じたからでしょうか。そりよりもなによりも、キリストであるイエスさまに死なれては困るという思いが弟子たちにはあったことでしょう。

 そこでペテロは、キリストを「わきにお連れして、いさめ始めた」のでした。「わきにお連れして」とは、例えば学校の先生が生徒を注意するときに、他の生徒が見ていないところで注意をした方が良いと考えて「ちょっと職員室に来なさい」と呼んだりするのと同じです。ペテロも「ちょっとこっちに来てください」とイエスを引き寄せた。そしていさめたのです。「いさめる」とは33節に記されているキリストがペテロを「叱って言われた」と同じ言葉です。ですからペテロはイエスをわきに引き寄せて叱ったのです

「先生、何ということを言うのですか。先生が殺されるなんてとんでもないことです。あなたはキリストなんですよ。キリストであるあなたが殺されるようでは困ります。ご自分の身分をわきまえてください」。

 

 すると今度はキリストがペテロを叱って言われました。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。このときキリストは振り向いて弟子たちを見ながらそうおっしゃった。ですから、叱られたのはペテロだけでなく弟子たち全員であったと言ってよいでしょう。弟子たち全員に多かれ少なかれペテロと同じ思いがあったのです。

 

 「下がれ、サタン」。これはまことに厳しい言葉です。そして、こう言われてしまうほど信仰者として不名誉なこともないと思います。「いやー、今だから言えますが、私は昔イエスさまから『下がれ、サタン』と言われてしまったんですよ……」などとにこにこしながら語れるようなことではありません。このときのキリストはまことに真剣そのものだったのですから。ですから、私たちも注意深くこのキリストの言葉を聴き取らなければなりません。

 

先ずキリストは、ペテロその人がサタンであると言ったのではありません。ペテロはあくまでもペテロです。そのペテロをサタン呼ばわりして「ペテロよ、お前はサタンのようだ」と言われたのでもない。そういうことではなくて、キリストはペテロの考え方のなかに、サタンの考え、悪魔的なものがあるのを差して「下がれ、サタン」と言ったのです。そして、サタンのような考え方とは、どういうものであるかについてはこう言われました。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」

キリストが弟子たちに教え始められた、いわゆる受難の予告を弟子たちが理解できなかったのは無理もないことだと言えましょう。しかし、「あなたはキリストです」とペテロは言ったのです。そのキリストがお語りになっていること、キリストが教えて下さっていることなのですから、その教えがすぐに理解できなくても、それを先ず受けとめる。そして「キリストを遣わしてくださっている神のご計画は、いったいどのようなものなのだろうか……」と思う。「神のことを思う」とは、そういうことでしょう。そんなに特別なことではありません。「天の父はいったい何をなさろうとしているのだろう……」と不思議に思う。そういうことはペテロたちにもできたことです。しかしペテロはそれができなかった。「イエスさまの考えは私の考えとは違う。イエスさまの考えはおかしい、私にはイエスさまのおっしゃっていることは受け入れられない……」とペテロは断じた。そして、自分の考え、人間の考えによってキリストをいさめたのです。

 

来週の日曜日に教会総会を行います。そこで2021年度の教会会計の決算が報告されます。教会の会計報告を見て私たちが何を思うか。そこで私たちが「神のことを思うか、人のことを思うか」そのことが問われてくると思います。会計というものは、なかなか思い通りにはならない面があります。神さまを信じていれば、必ず必要が満たされて黒字になる、神さまが与えて下さる、というような単純なことは言えません。

「神のことを考える」とは、そういう単純なことではないと思います。

ロシアとウクライナの戦争について、侵略しているのはロシアなのだから「神さまは早いところロシアをプーチン大統領を何とかしてほしい」と考えることが「神のことを思う」ということではない。そういうことは、神を引き合いに出してはいるけれども結局に人間の考え、人のことを思っているに過ぎないのです。本気で「神のことを思う」ならば、一旦、人の思いを捨てる。自分の主張したい考えを捨てる必要があります。そして神の言葉のまえに静まる。「神のことを思う」とはそういういうことでしょう。

 

それがペテロにはできませんでした。そのペテロに対してキリストは「下がれ」と言われました。これは「どこかに行ってしまえ」と追い払う言葉ではありません。「下がれ」ということばの原文には「後ろに回りなさい」という意味があります。キリストの後ろに回る、つまり弟子としてキリストの後に従うということです。

サタン的な考え方のもう一つの特徴と言ってもよいでしょう。それはキリストの後から従うのではなくてキリストの前に出ることです。キリストよりも偉い人間になってしまうのです。このことは私たちも余程気をつけていないと、いつのまにか同じことをしてしまいかねません。例えば祈りにおいてです。

 

名前も何処の国の人であったかも忘れてしまいましたが、ある人の祈りを思い出します。それは次のような祈りです。「主よ。このことを行ってください。そのために、私はあなたに従う用意ができています」。この祈り手は、はっきりと自分の願いを求めます。しかし求めつつ、自分にはキリストに従う用意がありますと告白する。これはキリストの後ろに従いつつ、その主に願い求める人の祈りです。

 

私たちは、どんなことでも祈ってよい。これはクリスチャンに与えられている一つの特権です。しかし、その祈りをするときに、キリストの前に立ちはだかり、キリストに要求を突きつけるような祈りであったとしたら、それは荒野で石をパンに換えてみよといったサタンと変らないものになってしまいます。あの荒野でもし仮にキリストがサタンの言うとおりに石をパンに換えても、サタンはキリストに従うことはしなかったでしょう。最初から従うつもりはないのです。ただイエスの前に立って要求しているだけです。

 

しかしそれにしてもペテロはどうしてキリストの前に出てしまったのか。そしてキリストを叱るなどという過ちを犯してしまったのであろうか。そのことは、私たちが一度きちんと理解しておかなければならないことだと思います。といいますのは、先ほどからも申しあげているとおり、このペテロの失敗は、私たちもまた犯しやすい過ちだからです。

 

結論を急ぎますが、ペテロはキリストのイメージを自分でつくってしまった、そのことがそもそもの問題であったといえます。イエスがいよいよキリストとしてどういう道を歩むことになるのか、そのことを弟子たちに教育をはじめたときに、弟子たちはその教育を受けとめることができなかったのです。なぜか、弟子たちにはもう既に〈自分にとってのキリストのイメージ〉が出来あがっていたからです。そして、そのイメージに弟子たちはこだわり続けたのです。

キリストは、自分たちから税金をとりあげ苦しめるローマ帝国の支配から救ってくださる。

キリストは、自分たちを批判ばかりしている祭司長や律法学者の鼻を明かして下さるに違いない。

キリストは、自分たちの貧しい生活をパンの奇跡のような方法で豊かなものにしてくださる。

このようなキリストのイメージが弟子たちのなかには既に出来あがっていました。そのイメージと、苦しめられた後に殺されるというキリストの歩まれる道が、あまりにも食い違っていたために弟子たちはうろたえたのです。そこでペテロはイエスがキリストの歩むべき道について語る教えをさえぎった。そしてキリスト前に立ちはだかった。そのために「下がれ」と言われてしまったのです。

 

 キリストについて、自分の好みに合わせてイメージをつくってはならない。カルヴァンは、「あなたは、自分のために刻んだ偶像をつくってはならない」という十戒の意味は、「まことの神」を「自分の都合に合わせた神のイメージにして心に刻む」ことだという意味のことを言いました。自己流のキリスト理解、自己流のキリストのイメージは結局、それは偶像崇拝につながってしまいます。自己流のキリストのイメージは捨てなければいけない。それにこだわり続けている限り、真実のキリストを知ることはできないのです。

 

まことの救い主キリストはただお一人です。人がそれぞれにイメージする数だけのキリストがいるわけではありません。 真実のキリスト、正しいキリストの姿を知るための方法は、まず聖書が語り伝えているキリストを学ぶことです。この礼拝の説教を聴くことも、正しいキリストの姿を知るという意味があります。

 

もう一つの大切な方法は、もう季節は違いますが、雪の降り積もった日のことを想像してみてください。まだ誰も歩いていない雪道を歩くことはなかなかたいへんなことです。もしそういうときに誰かが自分よりも先に歩いてくれると足跡が雪道に出来ます。その足跡に、自分の歩き出す足を重ねるようにして歩くと歩きやすいものです。

それと似たように、キリストが歩まれた歩みに私たちも信仰生活の足取りを重ねる。ようするにキリストのまねをするように生きるのです。そうするとキリストがどのような救い主であったのかということが良くわかるようになります。キリストのまねをして生きようとすると、私たちはすぐに行き詰まってしまうことを何度も体験することになるでしょう。キリストのように隣人を愛することができない。キリストのように赦すことができない。キリストの真似をすることがどんなに難しいかということを思い知ります。しかし、そうしてこそ、自分に与えられているキリストによる赦しの大きさに気がつく。キリストがどのような救い主であるかが分かってくるようになるのです。

 

                                  

 

(復活節主日礼拝説教)                        

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