マルコの福音書第8章27~30節

マルコの福音書 第8章27~30節 

「あなたにとってイエスとは誰か」

 

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。このキリストの質問に対してペテロは答えました。「あなたはキリストです」。このペテロの答えは、ただ当たり前のことを答えただけのようにも聞こえます。しかし、このペテロの答えをマルコの福音書は、とても重要なものとして扱っています。といいますのも、イエスが何者であるかということをはじめて正しく言い表すことのできた人の言葉が「あなたはキリストです」というこのペテロの答えだからです。

 

今、読み進めています第8章はマルコの福音書の丁度真ん中、折り返し地点にあたる箇所ですが、そこまで来てようやくひとりの人間が、はじめてイエスのことをキリストと言いあらわす場面が出てくるのです。その意味で、今朝の聖書箇所はマルコの福音書における一つの山場であると言われることもあるほどです。今朝は、この福音の山場ともいえる出来事から『信仰告白』ということについて考えてまたいと思います。そして信仰告白について、考えるだけでなく、私たちの信仰告白を確かなものにしてまいりたいと思います。

 そこで先ず注目をしたいのは、この出来事が起こったビリポ・カイサリアという場所です。このビリポ・カイサリアという地域は、ガリラヤ湖から40キロほど北上したところにあります。そのすぐそばには、この地方で最も高い山でありますヘルモン山があります。標高約2800メートルといいますから富士山と同じくらいの高さの山です。このヘルモン山に降り積もった雪の雪解け水が流れ込む川の上流に沿うようにしてビリポ・カイサリア地方があります。

 

そういう場所ですから、ピリポ・カイサリア地方は、きれいな水にめぐまれ、緑が豊かで景色も良いところです。そういう自然の豊かな風光明媚な地域というのは、権力者の別荘や宮殿などを建てるのに格好の場所として目がつけられるものです。この地域も例外ではなくローマ皇帝の直轄地になりました。ローマ皇帝は後にユダヤの王ヘロデにこの地域を与えました。ヘロデ王はローマ皇帝から与えられたこの地域に、皇帝を讃えるためにピリポ・カイザリアという名前をつけました。「カイサリア」というのは皇帝を意味する「カエサル」からきている名前です。

そのような経緯のある地方ですから、そこにはローマ皇帝を崇めるための像を建てられ、皇帝を讃える神殿が建てられました。つまりピリポ・カイサリアは、ローマ皇帝を神として崇めるための像や建物のある地域であったのです。

また、この地方にはローマ皇帝の支配を受ける前から「パンの神」と呼ばれる農耕の神をまつる習慣がありました。さきほど申しましたとおり、この地域は水が豊かであるということと関係があると思われます、自然を司り豊かな農作物の実りをもたらす神を祭ることがもともと行われていたのです。

このようにピリポ・カイサリアは、美しい自然に恵まれた緑と水の豊かなところであった半面、人間がつくった神々を崇拝し、礼拝することが日常のこととして行われているところでした。キリストと弟子たちがこの地方に入ってきたときにも、ローマ皇帝や農耕の神をまつる神殿を目にしていたことでしょう。そうしたものをごらんになりながらキリストは弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問われたのです。弟子たちもまたそうしたローマ皇帝や農耕の神をまつる神殿を目にしながら、弟子たちを代表するかのようにペテロは「あなたはキリストです」という告白をしたのです。

 

先日、週報を準備しながら考えていたことがあります。それはもうそろそろ礼拝プログラムをもとに戻しても良いのかなということです。たとえば、週報に印刷されてはいますが今は省略しています使徒信条を再開してもよいのではないかということを考えていました。この使徒信条を皆で声を合わせて言いあらわすことを礼拝プログラムの中で信仰告白と呼ぶことがあります。ですから信仰告白というと、教会堂という建物の中で、礼拝をしている時に、同じ信仰をもっている者たちと一緒に告白するものと、そんなふうに思っている面が私たちにはあろうかと思います。

しかし、ペテロが「あなたはキリストです」と告白した場所は、ローマ皇帝を神として祀り、また農耕の神を祀るための神殿のある場所でした。そういう場所のただ中でキリストはお問いになったのです。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。

 

私たちが暮らしている栃木県は、ピリポ・カイサリアと似ているところがあると言えるのではないでしょうか。自然が豊かというところも似ていますが、いろいろな神々をおがむ場所に事欠かないという点ではピリポ・カイサリアに勝っていると言えるかもしれません。私の住んでいます真岡市にも北関東一を誇ります、巨大な恵比寿像が祀られている神社があります。そういうものを「なんだこんなもの、偶像ではないか」と批判することをキリストは私たちに求めてはいないと思います。そういうことではなくて、ピリポ・カイサリア以上にと言ってよいほどにさまざまな神々が祀られ、またそうした神々を受け入れている人が多く住んでいるこの栃木県という地域、皆さんの生活している地域のただ中で、キリストは皆さんにもたずねて言われるのです。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」

このキリストの問いに応えること、それが私たちの信仰告白になります。

 

 さて次に、キリストのなさった質問そのものについてです。キリストはじめに「人々は、わたしを誰だと言っていますか」とお問いになり、それから「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」とお問いになっています。

最初にキリストが質問をなさいましたように「人々はどう言っていますか」という問いに対しては、それほど難しくなく答えられるものです。時には聞かれていないようなことまで、「あの人はこういっています。こっちの人はこんなことも言っています」などと言葉が過ぎてしまうほどに、いろいろなことを答えて話すことができるでしょう。しかし「あなたは、どう考えますか」と聞かれると、そうはいきません。へたな応え方はできない。真面目にならざるを得ません。

 

 ある人は、このときのキリストの弟子たちに対する問いを、一組の恋人同士の対話に喩えるようにしてこんなことを言いました。これまで付き合ってきた男性に対して女性が聞くのです。
「あなたは私のことをどう思っているの」。聞かれた男性がもじもじしながら「A君は、どうやらあなたのことが好きみたいだよ。B君は、あなたのことを素敵な人だと言っていた。それからC君は……」。それを聞いていた女性は、「それじぁ、もう一度聞くけど、あなたは私のことをどう思っているの!」。この女性は、男性が自分に対する気持ちを言ってくれることを求めているのです。自分に対する気持ちをはっきりと言葉にしてくれることを求めている。その求めに対して応えること、そのことと信仰告白とは似ているところがあります。何が似ているのかというと、「私はどう思っているのか」「私はどう信じているのか」そのことを自分のこととして答えることです。

 

 皆さんがもし、同じ地域の方から「あなたは日曜日には教会に通っているようだけれども、あなたが信じている神さまってどういう神さまなんですか」と質問を受けたとします。それに対して、「教会の先生はこう言っています」「教会ではこう教えられています」ということでは他人事のようになってしまいます。「礼拝で牧師がイエス・キリストは救い主だというお話を繰り返し語ってくれますから、きっとそうなんでしょうね。だからわたしもそれを信じることにしているんです」。これでは十分ではありません。

 

近所の方が皆さんに「あなたが信じている神さまってどういう神さまなんですか」と質問をしてきたとき、そのとき同時に、キリストもまた皆さんに対してお問いになっているのです。「あなたは、わたしを誰だと言いますか」。

それに応えるのが私たちの信仰告白です。「イエスさま、あなたこそ私たちの救い主、キリストです」という信仰告白をもってキリストにお答えする。そうすることで近所の方にも「わたしは、この世を救うためにイエス・キリストを救い主としておくってくださった神さまを信じています」と答えることができるのです。ですから信仰告白は、近所の方に対してなされることだってあるのです。

信仰告白は独りごとを言うことではありません。誰にも求められていないのに、独りで何かを主張することでもありません。キリストが私たちに告白を求めておられる。私たちの信仰告白を待っておられるのです。「あなたこそキリストです。あなたこそ私の救い主です」。そのような信仰の告白を主は喜んでお受けくださるのです。

 

 このことは、祈りについてもいえることです。ルターの小教理問答書で「主の祈り」を学ぶところがあります。その問いと答えは次のようなものです。

 

問い 「天にまします我らの父よ」これはどういう意味ですか。

答え 神が私たちのまことの父であり、私たちがまことの神の子であることを信じ、ちょうど愛らしい子どもたちが、その愛する父親に求めるように、全き信頼をもって神に願い求めるようにということです。

 

この教理問答書の言葉を生み出しているルターの信仰、いやクリスチャンの信仰は、祈りについてこう言っているのです。「神は父として、私たちの祈りを喜んでくださる」。しかもただ喜んでくださるだけでなく「それを求めておられる」。ですから私たちが「主の祈り」を祈ることは、「あなたこそ、わたしの父なる神さまです」と告白しているようなものでもあるのです。そうでなければ、祈りは、聞いてくれる相手がいようがいまいが関係なしにつぶやいている独り言のようなものになってしまいます。

 

 ぺテロが答えました「あなたはキリストです」という言葉をキリストはお喜びになったに違いありません。ところがすぐその後でキリストは、そのことを誰にも言ってはならないと弟子たちを戒められました。なぜでしょうか。

キリストがはじめになさいました「人々は、わたしを誰だと言っていますか」という問いに対する、弟子たちの答えから、当時の人々がイエスをどのようにみていたのかと言うことかが分かります。

バプテスマのヨハネ、エリヤ、預言者の一人。今これらの一人ひとりについて詳しくお話しする暇はありませんが、当時の人々は、ヨハネやエリヤ、預言者といった人たちのことを、自分たちを救うために神から遣わされてくる力ある人と考えていました。ピリポ・カイザリアでは神として崇められているローマ皇帝によって屈辱的な生活を強いられているユダヤ人にとっては、そのローマ皇帝の支配から救ってくれるものこそ救い主なのです。

それに対してペテロはイエスのことを預言者の一人としてではなくて「あなたはキリストです」と答えた。イエスのことを救い主と言いあらわしたこの点はすばらしいことでした。しかしながら、そのときのペテロがもっていた救い主についての考え方は、他の人々の考え方と変わらないものだった。ペテロはイエスがどのような意味での救い主、キリストであるかということはまだわかっていなかったのです。

そのため、イエスがキリストとしてのご自分が、この後どのようになるのかということを語り始められたとき、ペテロはそれをとんでもないことだと否定した。そのためにキリストから「下がれ、サタン」と言われてしまっているのです。

キリストが、ご自分のことを誰にも話さないで黙っているようにと戒められたその理由は、ペテロが、ペテロ流の理解でイエスをキリストと宣べ伝えることをお許しにならなかったからです。それを許すことは福音を曲げてしまうことになるからです。「あなたはキリストです」。この信仰告白は十字架のキリストと結びついてこそ真実の信仰告白となるのです。

 

例えば、水戸黄門のように、目の前で悪をなぎ倒して正義を打ち立ててくれるような救い主を「あなたはキリストです」と呼ぶことは正しいことでしょうか。

 

難しい病気をたちどころに治してくれる、倒産しかかった会社を繁盛させてくれる救い主を「あなたはキリストです」と呼ぶことで正しい福音宣教できるでしょうか。

 

自分たちの国を侵略してくる敵を倒すために味方になってくれる救い主を「あなたキリストです」と呼ぶことは、キリストがお喜びになる信仰告白と言えるのでしょうか。

 

人々に見捨てられ、あざけりのうちに十字架で処刑されたイエスを「あなたはキリストです」と呼ぶことは何を意味するのか。それは十字架でみ苦しみをお受けになったキリストによって与えられる救いを信じ、その救いこそが人間を真実に生かすことを信じるということです。

 

 すべての人の救いのために、ウクライナの人のために、ロシアの人のために、北関東一の恵比寿像をおがみに集まってくる人のためにも救い主であり続けて下さるために、そのためにキリストは十字架の苦しみを負ってくださいました。そのようなキリストを「あなたはキリストです、私の救い主です」と告白する信仰をこの礼拝において確かなものとしてまいりたいと思います。

 

(復活節主日礼拝説教)                        

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