マルコの福音書第8章1~21節 Ⅱ

マルコの福音書第8章1~21節 Ⅱ

「キリストのため息」

 

 キリストがわずかなパンで四千にも及ぶ人々に食事を与えるという、いわゆるパンの奇跡を行われた後のことです。パリサイ人たちがやって来て、キリストを試みようとして議論をしかけてきました。このパリサイ人たちは、パンの奇跡のときにその場にいた人たちであったのかどうかはよくわかりません。もしかすると、二度繰り返されたパンの奇跡のどちらかの現場に立ちあった人であったかもしれませんし、あるいはパンの奇跡の評判を聞いていただけであったかもしれません。いずれにせよパリサイ人たちは「このイエスという男が本当に神から遣わされてきた救い主なのかどうか試してやろう、ひとつテストしてやろうではないか」とキリストに議論をしかけ、そして天からのしるしを求めたのでした。

 

 ユダヤ人の間では、来るべき救い主は、まことの救い主であることを証明するために、天からのしるしとしての奇跡を行うと信じられていました。その場合の天のしるしとして人々が想い起したことのなかには、出エジプト記のなかにあります神がエジプトから逃れて来た人々のために天からパンを降らせられたことがありました。エジプトから脱出してきた人々が食べ物のことで指導者であるモーセに不満不平を言い募っていた時、神はモーセに天からパンを降らせると約束され、その通りにパンが与えられました。そのパンをイスラエルではマナと呼ぶようになりました。この時、天からのパン・マナが与えられたということは神のなさった奇跡であり、モーセはただ神が言われたことを人々に伝えただけです。しかしこの出来事は後に、ユダヤ人の間では、モーセが神によって立てられたまことの指導者であることのしるしとして理解されるようになりました。ですからパリサイ人は言うのです。「イエスよ、あなたがまことの救い主ならば、天からのしるしを見せてみなさい。そうしたらあなたを信じよう」。

 

神がエジプトから逃れてきた人々のために天からパンを与えられた奇跡に比べうるほどに、キリストはわずかなパンと魚で何千もの人々に食物をお与えになりました。天のしるしというのならば、キリストはまさに天のしるしを二度もお見せになったとも言えるでしょう。パリサイ人たちにとって何が物足りなかったのでしょうか。パリサイ人たちは自分たちの要求に応じてキリストがしるしを行うことを求めたのです。

 

 マタイの福音書には、キリストが荒野で悪魔からの誘惑を受けた出来事を記すなかで、悪魔がキリストを誘惑したときの言葉をこう記しています。

「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」

このキリストを誘惑している悪魔とキリストにしるしを求めているパリサイ人とはたいへん良く似ています。悪魔がキリストに向かって「あなたが本当に神の子ならば、この石がパンになるように命じてみたらどうだ」と誘惑していることと、パリサイ人が「あなたが本当に救い主ならば、天からのしるしを見せてみせてほしい」と試みていることには共通点があります。誘惑することも試みることも、こころから相手を重んじ、受け入れる姿勢はないということです。

 キルケゴールという人は、荒野においてキリストを誘惑した悪魔とは、教会のことであるという意味のことを言い放ちました。まことに厳しい指摘です。しかし、確かにそういう面があるかもしれません。キリストに対して全く関心のない人は、「キリストが今もほんとうに生きているのなら、それを証明する奇跡を見せてほしい」などということは言いません。そういうことを言いかねないのは、キリストのことを知っているクリスチャンなのです。「イエスさま、あなたが今も生きておられる救い主ならば、教会の大きく成長させてください。そうしたら、人々はあなたを信じるようになるでしょう。あなたが生きておられるというしるしを見せてください。」「イエスさま、あなたは救い主なのですから、わたしの家族の病気を癒してください。あなたの救い主としてのしるしを見れば、私はもっとあなたを信じることができるようになるでしょう」。祈りと称しながら、キリストにしるしを求める。これはもはや信仰による祈りとは言えないものです。信仰者である私たちが気をつけなければならないことです。

 

パリサイ人の求めに対してキリストは、荒野での悪魔の誘惑に対してそうであったように、はっきりと拒否をなさいました。このとき、キリストがどのようにパリサイ人の要求を拒まれたか、そのことを聖書はこう記しています。

イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。

「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことにあなたがたに言います。

今の時代には、どんなしるしも与えられません。」

 悪魔からの誘惑を拒絶する時、キリストは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きると書いてある」と、敵に対して敢然と立ち向かう力強さをもってお語りになったことでしょう。しかし、今朝の聖書のキリストは、そういう力強さではなく、深いため息(別訳「呻き」)をもって「今の時代には、どんなしるしも与えられません」と語りながらパリサイ人の要求を拒まれたのでした。

そこで皆さんにおたずねしますが、キリストはなぜ深くため息をついたのでしょうか……。受難節も終わりに近づき本日は棕櫚の主日、来週はいよいよイースターです。受難節の受難とは、キリストが受けた苦しみのことです。その苦しみの中心にあったものはもちろん十字架による苦しみですが、この十字架に至るまでにキリストは数々の苦しみを受けとめてきたといえます。キリストが深くため息をつかれたということは、これもキリストの苦しみ、受難の一部と言ってよいのです。ではもう一度、おたずねしますが、キリストはなぜ深くため息をついかれたのでしょうか……。そのことを思いめぐらしながら過ごすことは、キリストの受難を思いめぐらすこととなります。祈祷会で、ぜひ、このキリストのため息について、分かち合いをしてみたらよいのではないかと思います。そして、今ここでは少なくとも、キリストが深くため息をつかれた、そのキリストの様子を心に刻みたいと思うのです。そしてキリストにこのようなため息をつかせてしまっているもの、それも私たちの罪であることを覚えておきたいと思います。

 

さて、キリストは「今の時代には、どんなしるしも与えられません。」と言われたのですが今の時代とはいつの時代のことなのか。21世紀もキリストの言う今の時代なのでしょうか。そのことを理解するうえで、どうしても読んでおきたいのはヘブル人への手紙の言葉です。

神は、昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、

この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。 (第1章1~2節)

新約聖書が示してくれている時代と言うのは、きわめて単純です。一つはという時代であり、もう一つは終わりの時という時代です。この終わりの時という二つの時代の境目はどこにあるのかというと、キリストがこの世に来てくださったときです。その時から時代は終わりの時を迎えているのです。キリストが「今の時代」といわれるのはこの「終わりの時」と呼ばれる時代です。

ところで、この終わりというのは何が終わるのかというと、神による救いのご計画が終わる、すなわち完成するということです。神のご計画というのは、終わりがなく延々と続くとか、輪廻と呼ばれるようなものでもない。始まりがあって終わりがあるのです。

ヘブル人の手紙に記されているようには、神のご計画は預言者たちによって、いろいろな時に、いろいろな形で人々に語られてきました。しかしキリストが来てからは、神のご計画はキリストの言葉によって語り尽くされ、数々のみわざによっても示されてきました。だからもうそれ以上のしるしは与えられない。そういう意味でキリストは「今の時代には、どんなしるしも与えられません」と言われるのです。

 

 ここで勘違いのないように一つのことに触れておきたいと思います。先ほどキルケゴールが、荒野での悪魔の誘惑と同じことを教会がしてしまうという話をしました。また、キリストが今も生きておられる救い主であることを自分にわかるように、そのしるしとして自分の願いを叶えてほしいといった祈りは、パリサイ人たちがしるしをもとめていることと本質は同じです。ただし、そのことと、私たちがキリストのみわざを求めることとを混同しないようにしたいのです。今朝の説教で牧師が、キリストに癒しを求めるような祈りをすることは、荒野の悪魔の誘惑のようなものだと言っていた……などと勘違いしないでほしい。私たちは教会の仲間が入院をした、重い病と闘っていると知れば、それこそ時には、奇跡的な癒しを心のどこかに願いながら癒しを祈る。そのことは決して誤ったことではありません。

この福音書を読みながら何度も見てきたとおり、多くの人々は病人をキリストのもとに連れてきて奇跡的な癒しを求めたのです。その求めをキリストは拒否されませんでした。しかしパリサイ人たちの求めるしるしについては拒否された。この違いはどこにあるのか。パリサイ人たちはキリストを試したのです。癒しを求めた人々は、いろいろと未熟なところはあったけれどもイエスを信じたのです。キリストを「試す」ことと「信じる」こととは全く正反対のことなのです。

 奇跡が起こったら信じます。これはキリストを試すことです。そうではなくてキリストを信じる。キリストが必ず最善を行ってくださる。その最善とは、私たちが考えているものとは異なることもあるかもしれません。しかし、それでもキリストが最も良いようにしてくださる。そのことを信じぬくときに、キリストのみわざを求めることがゆるされるのです。

 パリサイ人たちのところから去って、弟子たちの戻ったキリストは、弟子たちに注意を呼びかけてこうお語りになりました。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい」

当時の教師たちは、悪い影響を与えるもののことを「パン種」という言い方をしていました。パン種とはパンを作るときに入れる酵母のこと。酵母を少し入れることによって醗酵作用が起こり、パンが膨らむ。その様子から、わずかなものでも大きな悪影響を与えるということをパン種に喩えたのかもしれません。

では「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に、くれぐれも気をつける」とはどういうことなのか。今朝は手短に実際的ことだけを覚えたいと思います。パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とは、いずれもそれは簡単に教会の中に入り込んできてしまう。だからくれぐれも気をつけなければなりません。

また、パリサイ人のパン種というのは一見、信仰的に正論を言っているようなのですが、聖書を土台としていない。そして、相手の信仰を建てあげるのではなくて批判して裁くことがなされます。

一方、ヘロデのパン種は、目に見える現実だけを重視するものです。例えば、豊かな生活をするには、やはり、結局のところお金がなければどうにもならないでしょう、というような考えです。

こうしたパリサイ人とヘロデのパン種は、繰り返すようですが、実に容易に教会の中に入り込むのです。

そして、パリサイ人とヘロデのパン種による考え方をしている人が語る言葉は、一見すると正しいことを言っているように聞こえるのです。それだけになかなか反論できない。そういうことが起こりやすいのです。

それをそのままにしておくと、しまいにはキリスト教会が病気になってしまう。

「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい」と語られたとき、キリストはパリサイ人とのやり取りの中で深いため息をついたときの、その心をまだ持っていたのではないだろうかと思います。キリストは、今日の教会をごらんになりながら、深いため息をつきながらも、その教会がパリサイ人とヘロデのパン種による影響から離れて、健やかな歩みを取り戻し、また再生することを願っておられるのです。                                (受難節主日礼拝説教)                        

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