マルコの福音書第8章1~21節 Ⅰ

マルコの福音書第8章1~21節 Ⅰ

「聖餐で想起されたキリストの言葉」

 

 コロナの感染リスクを考慮して、今でも多くの教会が制限を課した礼拝を続けています。例えば、讃美歌は1節だけをうたう、あるいは聖歌隊だけがうたう。礼拝堂が密にならないように出席者数を制限しているといった教会があるようですし、説教者の飛沫が広がるのを防ぐために、説教卓の周りを囲むように透明のシートを吊り下げることをしている教会の話を聞いたこともあります。そうした取り組みを聞いていますと、宇都宮共同教会は比較的、制限の少ない礼拝をしている方だろうかと思うことがあります。 

しかし、一つだけはっきりとした、大きな制限を今に至るまで続けていることがあります。それは聖餐を休止しているということです。コロナ禍のなかで聖餐を休止することについては牧師の間でも賛否両論があるようです。その賛否両論について、また宇都宮共同教会が今も聖餐休止を続けている理由をこの礼拝説教で語ることは適切ではないと思いますので、ここではその話はしません。ただ、聖餐を休止するだけで何もしてこなかったというわけではありません。聖餐を祝うことはできなくても聖餐の恵みを想い起す、そのことを努めて大切にする礼拝を続けてきたつもりです。ですから今朝、本来であれば聖餐を祝う新しい月の最初の日曜日、聖餐を想い起すためにふさわしい聖書の言葉を聴くことができることを喜びながらこの説教の準備をしてきました。そのふさわしい聖書の言葉とはこれです。

「すると、イエスは群集に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった」(6節)

 聖餐を祝う時に毎回読みます「聖餐を定めた聖書の言葉」いわゆる聖餐制定句というのがあります。コリント人への第一の手紙第11章にあります言葉です。そこにはこう記されています。

「主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい』」

この聖餐制定句と今朝の聖書の6節にはほとんど同じといってよいパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き」という言葉があります。といいますのは、この福音書の著者マルコは、聖餐のことを意識してこの箇所を書いたからです。またこう申しあげてもよいでしょう。マルコの福音書が書かれた時代の教会に生きていたクリスチャンたちの中には、礼拝で聖餐を祝うたびに、今朝の聖書に語られているパンの奇跡の出来事を思い出しながら聖餐に与っていた人がいたであろうということです。「私はね、あのときイエスさまが用意してくださったパンをいただいた四千人の中の一人でして……」とその思い出を何度も語るような人が教会員の中にいたかもしれないのです。また、12人の弟子たちも後に使徒として教会の指導者として働く中で、聖餐を祝うごとにパンの奇跡の出来事を思い起こしたに違いありません。

 しかし、弟子たちにとって、このパンの奇跡、特にこの四千人に対してなされたパンの奇跡はある厳しい思い出と結びついています。その厳しい思い出を呼び起こすものとなっていましたのは、21節に記されています「まだ悟らないのですか」というキリストの言葉です。

 

その言葉が語られた時、キリストと弟子たちは舟に乗り込んでいました。四千人に対するパンの奇跡がなされてまだそれほど経っていない時のことです。弟子たちは弁当であるパンの用意を忘れたことに気づいて、お互いの顔を覗き込んでいたのでしょう。そのときキリストが「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい」と言われました。

このキリストの言葉については次回にとりあげますので詳しいことは触れませんが、要するにキリストは「パン種」というたとえを用いて、弟子たちによくよく注意すべきことを語られたのです。ところが弟子たちは「パン」という言葉が聞こえたものですから、弁当のパンを忘れたことについてイエスさまは何か言われたとのだろうと思い、「パンを忘れたのは誰の責任か……」というようなことを互いに論じはじめた。その様子にキリストはもはや黙っていることができずにこう言われました。

「なぜ、パンをもっていないことについて議論しているのですか。まだわからないのか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。」  

弟子たちがパンの奇跡を体験したのは今回が初めてというのではありません。しばらく前には五つのパンと二匹の魚によって五千人の人々の食事を満たした奇跡を既に体験しているのです。ほとんど同じといっても良い奇跡を体験してきた。それなのに「目があっても見えないのですか。耳があっても聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか」とキリストは叱責されたのでした。

 

 それではいったい弟子たちは、二度のパンの奇跡に立ち会いながら何を見損なってしまったのでしょうか。何を聞き損ってしまったのでしょうか。キリストが二度にわたるパンの奇跡をなされたとき、その心には共通したものがあったことをマルコの福音書は記しています。それは群集を憐れまれたということです。

一度目の奇跡のときにキリストは「大勢の群集をご覧になり……羊飼いのいない羊の群れのようであったので、ふかくあわれまれた」と第6章には記されています。そして今回の第8章では、食べるもののない群集をごらんになっているキリストが弟子たちを呼び集めて群集が「かわいそうに」と言っているのです。この「かわいそう」という言葉は「憐れむ」という言葉と同じです。

一度目の時は、福音書を書いたマルコが、群衆をごらんになったキリストの心を解説して群衆を「ふかくあわれみ」と記した。今回二度目の奇跡については、キリストご自身が群集をごらんになりながら「わいそうである」とお語りになった言葉が記されているのです。「かわいそに」と語りながら群集を憐れまれたキリストの思いやりは、それに続く言葉にもよく表されています。

「この群集はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなります。遠くから来ている人もいます。」

そう語りながらキリストは「だから私はこの人たちがかわいそうだと思う」と弟子たちにご自分の胸の内を、ご自分の心を見せておられる。ところが弟子たちにはそのキリストの心が見えないのです。

 

それでも弟子たちは「先生はこの群集に食べるものを与えたいと考えておられるようだ……」ということについては気がついた。そこで弟子たちは周りを見回しましたがパンを売ってくれる店などないし、仮に店があっても四千人もの人の食事を用意するほどの金もない。そこで「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょう」とぼやいて言いました。するとキリストは「パンはいくつあるか」とお尋ねになりました。「七つあります」そう言いながら弟子たちは「このとおり、私たちには分けるパンはありません。そんな力も余裕もありません」と答えたのでした。

 

ところで、第6章に記されている一回目のパンの奇跡と今回二度目のパンの奇跡は、たいへんよく似た文章として書き記されています。

まず群集に対するキリストの憐みが語られます。そしてパンをめぐって弟子たちとの対話がなされ、弟子たちは当惑します。その後、キリストはパンの数を尋ね群集を座らせ、手元にあったパンを手に取り祝福の祈りとパンを裂いて弟子たちに配らせ人々が満腹したところで余ったものを集めさせる。その後、舟に乗って湖を渡る。こうしてみると二重写しといってよいほどです。こういう文章の書き方をしているのは、福音書の著者マルコが、あることを際立たせて強調したいからです。それは弟子たちの、普通では考えられないような忘れっぽさ、キリストの心をいささかも察することのできない異常ともいえる鈍感さです。

 今朝の聖書を聞きながら皆さんもお感じになったのではないでしょうか。「なんだこの弟子たちは、パンの奇跡を一度体験しているのに、全然進歩していないではないか。全く同じことを繰り返しているだけじゃないか……」

弟子たちは、つい先日、今回の七つのパンよりももっと少ない五つのパンで五千人を養われたキリストのなさった憐みを忘れてしまっている。キリストがわずかなパンを手に取り、天を仰いでそれを祝福したその姿を忘れてしまっている。パンを手にとって感謝しているキリストの声を忘れてしまっているのです

そして、自分たちの足りない点、状況の不利なことだけに目をとめて、自分たちの可能性だけを勘定し、「そんなことができるでしょうか」と諦めてしまう。そのような弟子たちの鈍さに心を痛めながらキリストはこう語らずにはおれませんでした。

「目があっても見えないのですか。耳があっても聞こえないのですか。あなたがたは何も覚えていないのですか……まだ悟らないのですか。」

 

マルコの福音書が同じような二つのパンの奇跡を省略しないで丁寧に記しているのは、「まだ悟らないのですか」という心の痛みから語られたキリストの言葉を、初代教会が大切に聞き受けとめてきたことのあらわれといえます。聖餐を祝うたびに、キリストがなさってくださったみわざと、語られたみことば想い起しながら、そこで「まだ悟らないのですか」というキリストの言葉を想い起し続けてきた。それが、このマルコの福音書の記事を生み出しているのです。「まだ悟らないのですか」というキリストの言葉は、これもまた教会が信仰のいのちを保つために必要なみ言葉であったのです。

コロナ禍のなかで、聖餐を実際に手に取り、口でそれを味わうことができなくとも、キリストが私たちのために何をして下さったか、それを想い起すことはできます。世の罪を取り除くためにキリストがみ苦しみをうけてくださったその姿を信仰の目を開いて見ることはできます。キリストが十字架のうえで「父よ、彼らをおゆるしください。何をしているのかわからないのです」と、とりなされた、その声を信仰の耳を開いて聞くことはできます。そうしてキリストがこの世を、私たちを深く憐れんでくださっていることを悟ることはできます。その悟りを新しくすることで私たちは聖餐の恵みをも新しく受けとめることができると私はそう思う。「まだ悟らないのですか」と言われてしまうような空しい聖餐式をしてしまわないためにも、今朝の聖書を深く受けとめたいと思うのです。

 

わずかなパンと魚で五千人、四千人の人々の食事を満たすほどの奇跡に立ち会っていながら、見るべきものを見損なう弟子たちのこの鈍さは、しばしば教会を襲います。生きておられますキリストのみわざを信仰の目を持って見ることができない、見損なってしまう時、たとえば会計帳簿、無会計報告を見ながら、あの弟子たちが「これだけの人にどうやって十分に食べさせることができますか」といぶかったように、教会の営みについて、キリストの心を想うことができなくなってしまいます。これは私どもが余程、気をつけておかなければいけないことであります。 

 

二回目の奇跡の中に少しだけ一回目の時と異なる特徴的なことがあります。七節の「また、小魚が少しあったので、それについて神をほめたたえてから、これも配るように言われた」というところです。パンだけでも人々の空腹を満たすことはできたことでしょう。あるいは、こうした緊急時での食事です。パンだけで十分と考えるべきだという意見もあるでしょう。しかし「小魚が少しある」と聞いたキリストはそれをも祝福して人々に分け与えてくださった。ある人は、このときキリストはおかずを添えてくださったのだという意味のことをいいました。キリストの憐れみの細やかさがあらわれ出ているといってよいでしょう。それほどまでにキリストは私どもを細やかな愛をもって憐れんでくださる。そしてまた、まだ神を信じる幸いを知らない大勢の人々のためにも憐れみの心を注ごうとしておられるのです。  (受難節主日礼拝説教)                        

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