マルコによる福音書第7章1~23

マルコの福音書第7章1~23節

「信仰と生活の基準」

 

今、ご一緒にお聴きした聖書には、まことに厳しいキリストのお言葉が連ねられていました。

「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」(8節)

「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています」(9節)

「あなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています」(13節)

ここでキリストから「あなたがた」と語りかけられているのは、パリサイ人、律法学者と呼ばれる人々です。パリサイ人と律法学者とは礼拝を守り、聖書をよく学び、きよい生活を大切にしていた人々たち。要するに神を信じている信仰者でした。ですから、キリストの「あなたがたは」という語りかけを私たちは、「ああ、これはパリサイ人、律法学者に語りかけられていることだ……」と他人事のように片付けるわけにはいきません。

第7章の直前、第6章の終わりのほうには、キリストのもとに集まってきた人々のなかに、キリストが着ておられる服のすそにでも触れば病気が治ると信じていた人々のことが記されていました。こういう信じ方というのは、これまでに何度も申しあげてきたように、私たちが真似をしてはならない間違った信じ方です。しかしながら、病気が治りたい一心で服に触らせて欲しいと願う人々に対してキリストは「あなたがたは、間違った信じ方をしている……」というようなことを語られることはありませんでした。むしろキリストは、寛容に人々が自分の服に触るがままにさせておかれ、触った者は皆いやされたのです。その寛容であったキリストがパリサイ人のような信仰者に対しては、大変手厳しい言葉を連発しておられる。ここが重要な注目点です。

 

※キリストの厳しさは、ただ相手を批判し、責めるだけの厳しさではない。ましてや不機嫌になっている者の厳しさなどでもない。折角、信仰生活を送っているのに、そこに大きな誤りが入り込んでしまっている。そのままで信仰が台無しになってしまう。そうならないでほしい、という強い願いのこもった厳しさである。その厳しさを受けとめることは、信仰の恵みを損なわないためにとても大切なことである。

 

今朝の説教の題を『信仰と生活の基準』としています。信仰というのは生活と結びついています。そしてその生活は年代と共に変わってゆくものです。若い学生の頃の生活、働き盛りの頃の生活、高齢者になってからの生活、世代によって生活の様子というのは全く違う。今年から、新しい職場での仕事が待っているという若い人にとっての不安というものがあるかもしれません。高齢となって、年を追うごとに健康上の不安、これからの生活への不安というものがあるかもしれません。そうした不安を大きくさせないための一つの方法は、しっかりとした信仰と生活の基準を持つということです。「基準なんてそんな堅苦しいことはいいません。どうぞ、あなたの好きなようにして下さい。あなたの自由ですから……」といわれることはかえって不安になる。それよりも「これがあなたの生き方の基準ですよ。この基準に沿って生きて行けば、神の祝福の中に生きることができます!」というものが私たちには必要でしょう。その「信仰と生活の基準」を捨ててしまう、ないがしろにしてしまう、無にしてしまう、それがパリサイ人、律法学者たちの犯していた過ちであったといえます。

さて、キリストがあなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのですとお語りになったことには具体的なきっかけがありました。今や人気絶頂ともなっていたキリストのところにパリサイ人と律法学者たちは、キリストのあら捜しをするためにエルサレムからやってきました。そこであら捜しをして見つけだしたことは、キリストご自身のことではなくて弟子たちのことでした。弟子たちに手を洗わないで食事をしている者がいるのを見つけたのです。手洗いといっても衛生上のことを問題にしたわけではなく、あくまでも信仰に関わることです。そのことが「汚(けが)れた手」という言葉によく表されています。この「汚れ」と訳されている原文は、そもそもは「日常的なもの」いう意味の言葉です。この「日常的」ということと「汚れ」ということはユダヤ人の間では深い関係がありました。

神を信じているユダヤ人にとって、神を信じていない、たとえばローマ人が直接手に触れるものは汚れたものと考えられていました。ですから例えば、お金などでもローマのお金は汚れたものだと考えられていたわけです。しかし日常生活では、どうしてもローマのお金も使わなくてはならないことが多かったものですから、日常生活を送ってきた手は汚れていると考えられたのです。市場で買ってきた食器などもローマ人が触っているかもしれないからそのままでは汚れているから使えない。だから洗わなければいけない。ですから洗うということも、ごしごしこすって汚れを落とすということではなくて、汚れをきよめるための儀式で、ちゃんと細かい作法も決まっていました。しかし、それをやらないで食事をする弟子たちがいた。そこでパリサイ人たちは「あなたの弟子たちは、信仰者として当然やるべきことをやっていないではないか。あなたたちの信仰生活はおかしいのではないか」とキリストに詰め寄ったのです。これに対してキリストは旧約聖書にある預言者の言葉を引用しながらはっきりとこう言われたのでした。

 

イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから」

 

 この預言者の言葉を読んで思わせられたことがあります。それは「空しい礼拝」というものがありうるということです。礼拝は神からの祝福をうけるためのもの、そう私たちは当たり前のように思っている。しかし、その礼拝が空しいものになってしまうことが起こりうる。私たちが知らず知らずのうちに空しい礼拝をしてしまっているとすればそれこそ空しい。そうならないためにも、今朝のキリストの言葉を誠実に受けとめたい。

さて、おそらく信仰者にとって、クリスチャンとして絶対に言われたくない言葉は「あなたは偽善者だ」ということでではないかと思います。そういわれないように、クリスチャンらしい生活をきちんとしなければと思う。ただそこで注意しなければならないのは〈神のみ前に偽善者とならないように心を配る〉ということと人から偽善者と思われないように心を配る〉ということとは違うということです。誰かに偽善者と思われたくないために、その人に気を使いながら生活をしているとかえって偽善に陥ることだってあるかもしれません。問題は神さまの前に偽善者となっていないかどうか、ということです。

 

 そのことを具体的に示すためにキリストは「あなたの父と母を敬え」という戒めをとりあげて、パリサイ人たちの偽善を明らかにされました。「あなたの父と母を敬え」とは言うまでもなく十戒の一つであり、神の言葉そのものです。父と母を敬うということの重要な意味は、両親が歳をとったときには、その世話をきちんとするということです。ですからある人はこう言っています。親が歳をとって体の不自由になってきたら、その親と一緒に生活をしてあげる。そして自分の持っているもので親を養ってあげることを考えなければいけない。

キリストの時代は年金制度などありませんから、親を養うことは子どもが経済的な負担を全て負うことになります。このように「あなたの父と母を敬え」という神の言葉を基準にして生きるということは極めて現実的な生活に関わる教えであるわけです。精神的に父母を尊敬しているかどうかという話しではないのです。

ところがその〈神の教え〉に対して〈人間の教え〉が幅を利かすようになった。それが「コルバン」と呼ばれる教えでした。「このお金はコルバン(ささげもの)だから」と言えば、ささげもの以外の用のために、そのお金を使わなくても良いという教えです。両親を養うためには何かと金が要る。その金をコルバンだからと言えば、それを親のための用いなくてもよいことになる。そして「私には金がないから親の面倒をみてあげられない」という顔をする。そのようにして神へのささげ物という外側をつくろって両親を養うことを誤魔化す。まことに理路整然とした信仰を装った理由によって「あなたの父と母を敬え」という神の教えを無にしている。そのことをキリストは指摘なさったのです。

このときキリストは〈神にささげ物をすること〉と〈親を養うこと〉とどっちが大切かということを問題にしているのではありません。その逆だってある。これは親を養うためのお金ですからといって、神へのささげ物を誤魔化すことも起こり得るでしょう。キリストが問題にしておられるのは、神の教えである両親を養うことをしたくない気持ちを、神への供え物のためにという外見によって隠すことです。そのような偽善に対してキリストは裁きの言葉を語られたのです。「あなたがたは神の言葉を無にしています」。

 そのようにはっきりと裁きの言葉を語られたキリストでしたが、裁きの言葉で終わらせるのではなく、

群集を呼び寄せて言われました。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい」 

そのようにしてキリストが今朝、私たちにも教えてくださっていること。それは何が人を汚すのかということについてです。キリストは「汚れなどないのだら、気にしなくてもよい」とは言われない。汚れは確かにあるのです。その汚れについてキリストはこう言われました。

「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出てくるものが、人を汚すのです」

外から入ってくるものとは、たとえばローマ人が触ったお金に触れた手をきよめないで食事をしたときの食物のことです。そういうものがなぜ人を汚すことはないのかという理由についてキリストはずいぶんと実際的なことを語っておられます。「外から口を通して入ってくるものは、人の心ではなくて腹に入るのだろう。腹に入ったものは便となって排泄されるだろう。だから人を汚すことはない」というのです。

またユダヤ人が人を汚すと考えたものは、神を信じない人たちの触ったものだけではなく、他にも汚れた動物についての掟があり、例えば豚やウナギなどは汚れた動物だから食べてはならないとされていました。なぜ豚が汚れた動物になるのか、はっきりとした理由は分かりません。いずれにしてもキリストは、そういう汚れた動物という掟も廃棄された。そして「すべての食物をきよい」とされたのです。

 

 食べるものによって人は汚れることはない。それでは何が人を汚すのか。キリストは人の心から出てくる悪い考えが人を汚すのだと言われました。その悪い考えの具体的なものが21節から22節にかけて記されています。このところはよく〈悪徳のカタログ〉などと呼ばれたりしますが、いちいち説明をする必要もないでしょう。ただ、興味深いといいますか、身につまされるのは最後に出てくる「愚かさ」ということです。この言葉を新共同訳は「無分別」と訳し、口語訳は「愚痴」と訳していました。分別なく愚痴を言い続けるようなことも人を汚す愚かさにつながる。心したいことです。

 さいごに、今朝のキリストの厳しい言葉を一つのエピソードと共に心に刻みたいと思います。〈神の教え〉と〈人の教え〉ということを厳格に区別し、神の教えに従って生きるために、神のみ言葉を聴くことを殊更に大切にした神学者のひとりにカール・バルトという人がいます。第二次大戦が勃発する前、ドイツの人々の心をつかんでいたのは礼拝で語られる牧師の説教ではなく、褐色の制服をきた人の演説でした。ヒトラーの演説は、教会の説教卓から語られる言葉よりも力を持つものとなっていたのです。ヒトラーは自分の語る演説の最後を「アーメン」と結ぶことがよくありました。そのように語られていた独裁者の言葉でしたが、それは神の教えを無にするものでありました。しかし、この人間の教えを当時の人々は喝采して受け入れたのです。そのことを何よりも問題にしてナチスと戦った神学者のひとりがカール・バルトでした。

 

 このバルトが、戦後、アメリカのシカゴ大学に招かれて講演をしたときの有名なエピソードがあります。

バルトの講演の後の質疑応答の時のことです。一人の若者がこう質問をしました。

「先生は教会教義学という大きな書物(1万ページを超える!)をお書きになりましたが、結局のところ、あの本で言いたかったこと何なのか、それを一言でいってください」 このアメリカ人らしい質問に対して、バルトはアメリカで生まれたひとつの歌をうたって答えました。

「聖書はこう言っている♪ イエスさまは愛してくださいます。このわたしを♪」と日曜学校でうたわれる子どもの歌をうたったのです。この歌は日本の教会でも「主、我を愛す」とうたわれています。

 

  • 聖歌は、残念ながら原曲の歌詞を十分に表していない。讃美歌21が原曲の歌詞をつぎのように

訳出している。

 

愛の主イエスは 小さい者を いつも愛して 守る方です。

聖書は言う、イエスさまは 愛されます、このわたしを

 

 この歌がうたいあらわしているように、聖書から聴こえてくる神の言葉は、何よりもキリストが私たちを愛してくださっているという真実を伝えてくれています。そして、キリストが私たちを愛してくださっているということを伝えてくれている聖書から聴きとることのできる神の言葉こそが信仰と生活の基準になる。そのことをバルトは本に書きだして1万ページにもなってしまったのでした。その本を私は皆さんに「どうぞ、読んでください。私も読みますから」とはなかなか言えません。しかし、今朝はバルト先生にならって私たちも歌おうではありませんか。あの子どもの歌を。そこに歌いあらわされています、キリストが私たちを愛してくださっている、そのキリストの言葉、キリストの教えを私たちの信仰と生活の土台とし、基準として行きたいと思います。

(受難節 主日礼拝説教)                         

 

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