マルコによる福音書第6章14~44節

マルコの福音書第6章14~44節

「休息のなかでの訓練」

 

今、ご一緒にお聴きしました聖書の後半にありましたキリストが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々に食事をお与えになった出来事。これを皆さんはどんな気持ちでお聴きになったでしょうか。

「不思議だなぁ、凄いなぁ……」と思った人があるでしょうか。あるいは、「こういう奇跡と呼ばれる出来事が本当にあったのかどうか、今もってどう受けとめてよいのかよく分からない……」と思われた方もあったかもしれません。いずれにしても、このパンと魚の奇跡は、私たちの興味を引きつけるものであることに違いはないと思います。

この奇跡的出来事に興味を抱いたのは、新約聖書が書き記された時代のクリスチャンたちにしても同じでした。パンと魚の奇跡は初代教会のクリスチャンの間でも最も興味を持たれ、また最も愛された出来事として語り継がれてきました。だからこそ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書はいずれも、このパンと魚の奇跡を記しているのです。

ただし、この奇跡の出来事を伝えている四つの福音書の記し方は少しずつ違っています。例えばヨハネは、キリストのところに五つのパンと二匹の魚を持ってきたのは子どもであったことを記しています。その子どものことをマルコの福音書はひとことも触れていません。逆に、ヨハネの福音書には記されていない、マタイやルカにも記されていないことをマルコの福音書は次のように記しています。

 

さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。

するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところに行って、しばらく休みなさい。」

出入りする人が多くて、食事をする時間さえなかったからである。そこで彼らは、自分たちで舟に乗り、

寂しいところに行った。

 

このようにマルコの福音書は、パンと魚の奇跡の出来事に先立つこととして、伝道に遣わされていた弟子たちが伝道から帰ってきたときに、その弟子たちに休みをとるようにキリストが配慮なさったことを記しています。このことを書いているのはマルコの福音書だけなのです。

 

さて、伝道から帰ってきた弟子たちは、遣わされた時のように二人ずつ組になってキリストに自分たちのした伝道の報告をしました。この時、どんな報告がなされたのか……そのことは何も書かれていないのでわかりませんが、予想以上に伝道がうまくいったことを得意になって報告をする組もあったかもしれません。しかし、弟子たちの多くは伝道の厳しさを体験してきたのではないかと思われます。その根拠が、今朝の聖書の前半部分にあります。

ここには、ヨハネという一人の伝道者が殺されたことが記されていました。このヨハネは、キリストに洗礼を授けたことから洗礼者ヨハネと呼ばれ、キリストに先立って神の国が近づいたことと悔い改めとを人々に伝道していた人です。そのヨハネがたいへん惨い殺され方をした。キリストに先立って伝道の働きを担った第一人者が無残に殺されてしまうという社会の現実、この世の現実。そこに遣わされて弟子たちは伝道したのです。集会のために大きな施設を借りて、そこに〈集まってくる人たちに伝道した〉というのではない。政治的な対立をしている人たち、世の中の不公平や人間関係のことで不満を募らせている人たち、そういう人たちのいる〈社会の中に入って行って〉弟子たちは伝道したのです。ですから、おそらく弟子たちは、それぞれに、大なり小なりに疲れて帰ってきたことでしょう。この疲れて帰ってきた弟子たちにキリストは「しばらく休みなさい」と言われた。しかし出入りする人が多くて疲れた弟子たちを休ませてあげることができません。そこでキリストは人気のない場所として寂しいところに弟子たちを連れて行かれたのです。

 

ところが、キリストと弟子たちが出かけて行くのを見ていた人々が、行が目指していた場所に先回りするようにして駆けつけてきました。そしてキリストと弟子たちが目的地に着いたときには、大勢の人々が集まって来ていました。

その群集をごらんになったキリストの心は動きました。キリストは大勢の群集をご覧になって、深くあわれまれたのです。「憐れむ」というこの言葉は、もともと内臓が痛むという意味と関係のある言葉です。相手を思うあまり内臓が痛くなる、それほどに相手を心配して同情する。キリストはそのように群集をあわれんだ。それはなぜかといえば、群衆の有様が「羊飼いのいない羊の群れ」のようであったからだというのです。

は羊飼いがいないと生きられない動物だということを聞いたことがあります。狼のように外敵が襲ってくると羊はひとたまりもありません。ですから羊飼いがいない羊というのは、これはもう悲惨な状態であるといってよいでしょう。また、羊はひどい近眼で、群れからはぐれると迷子になってしまうと言われています。群れからはぐれてしまった羊は、羊飼いがいないと群れに戻ってくることもできません。

羊にとって、羊飼いがいないということは、生きてゆくための保証が何もないということに等しい。そのような羊にも似た群集をキリストはごらんになって深く憐れまれ、みことばを語り聞かせられたのでした。

 そうしているうちに時間もだいぶ経ったとき弟子たちはキリストに進言しました。「そろそろ食事の時間です。ここは寂しい所でお店も何もありませんから、そろそろ解散したらどうでしょう。そうすれば、この人たちは自分たちで食べるものを買いに村や里に行くでしょう」。弟子たちは弟子たちなりに群集のために気を使ってそう言ったのでしょう。ところがキリストの返事は弟子たちの意表を突くものでした。

「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」

 

こう言われて弟子たちのなかには多少カチンときた者もいたのではないかと思います。伝道から疲れて帰ってきて、イエスさまが休んだら良いと言ってくれた。せっかく静かな場所に来たと思ったら、こんなところにまで群集が詰め寄せて休憩どころでなくなった。それでも、群集のためにと思って食事の心配をしてあげたら「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」とは、いったいイエスさまはどういうおつもりなのか。結局、俺たちの休憩のことなどは、二の次三の次と言うことなのか……そういぶかる気持ちから弟子たちはキリストに聞き返して言いました。

「私たちが出かけていって、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか」

200デナリとは約200万円相当。五千人分の食事を調達するにはこれぐらいかかると計算をした弟子がいたのでしょう。しかし、弟子たちには到底そんなもちあわせはありません。そのような弟子たちのそろばん勘定のことなど意に介さないかのようにキリストは「パンはいくつありますか。行って見て来なさい」と言われました。この時、手元にあった食べ物といえばパンは五つ、そして魚二匹だけでした。それを確認するとキリストは、弟子たちに次々とお命じになりました。

 

先ず、人々を組みに分けて、青草の上に座らせるようにと言いました。

次に、キリストはパンと魚を手に取って祝福し、それを弟子たちに配らせました。弟子たちは五千人の人々にパンと魚を配りました。五千人ぶんですからこれはなかなかの労働です。しかし、それで終わりではありません。パンと魚にあまりが出たので、その残りを集めるのも弟子たちの仕事でした。残ったパンと魚は「12のかごにいっぱい」に集められたと聖書は記しています。かごの数が12というのは丁度、弟子たちの人数と一緒ですから、このとき弟子たちは一人ずつかごを持って、余ったパンと魚を回収したに違いありません。このように次々と、キリストに命じられたとおりに働いた弟子たちの気持ちはどんなものであったでしょう。

「私たちが出かけていって、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか」と一度はいぶかった弟子たちでしたが、キリストから次々と手渡されるパンと魚を人々に配りながら、弟子たちは喜びに満たされていたのではないか。そして食事の後、かごの中に溢れんばかりのパンと魚を集めながら、弟子たちはみな愉快な気持ちになって笑顔であったことでしょう。そうして喜びに満ち足りた思いのなかで、弟子たちの疲れはいつの間にか吹っ飛んでしまっていた。キリストは、決して弟子たちの休憩を取り消しにされたわけではなかったのです。

さて、この出来事を通して、汲みとることのでへきる神さまからのメッセージは、あまりにも豊かで一度の説教では到底間に合いませんが、今朝は二つのことを心に刻むことができればと思います。

先ず一つのことは、このとき弟子たちは確かに疲れていたのであり休憩をとる十分な理由がありました。そのことをキリストもお認めになっていた。しかし、その疲れのなかにあった弟子たちをキリストは訓練するかのように用いになったということです。

私たちは普通にはこう考えるのではないでしょうか。「今、私は疲れている。自分のことで精一杯で他の人のために何かをするなどという余裕はない。奉仕をする余裕はない……」と。しかし奉仕というのは、疲れていないから、余裕があるから、他にやることがないからするというものではありません。クリスチャンがする奉仕というのは、羊飼いのいない羊のような有り様の人々を助けてあげたいとあわれまれるキリストの心に応えるためのものです。そのための力をもキリストは与えてくださる。そして、奉仕をしながらでも疲れを忘れさせてくださる。疲れを癒してくださるのです。

 

もう一つのこと。キリストは弟子たちに「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」と言われましたが、実際に群衆の食べる分のパンと魚を用意されたのはキリストでした。ただし、それを配ったのは弟子たちでした。弟子たちの手によって食物が人々に行き渡ったのです。このことからこう申しあげたい。 

確かに教会のわざは神さまのわざです。伝道の働きによって、元気を失っていた人が元気を取り戻す、生きる勇気を取り戻す、生きる希望を取り戻す、そうした中から洗礼を受ける人が起こされる、こうしたことは神さまのわざです。教会堂を新しく建てるといった経済的に費用のかかる事業も神さまのわざとして進められなければ成り立たないことです。すべては神のわざと言いうる。ならば、そこには人間の手のわざが入り込む余地は全くないのかといえば決してそうではありません。むしろ人間の手のわざを用いられることによって神のわざが進んでゆくのです。ですから、私たちが何もしないで、「神さま、あなたが全てやってください」という態度では神のわざを願うことにはなりません。キリストは私たちに対しても言われるのです。

「あなたがそれをしてあげなさい」と。「あなた」ではありません。「あなたがた」つまり教会共同体のことです。

4月から新しい事業年度が始まります。「宇都宮共同教会をかたちづくっているあなたがたがそのことをしてあげなさい」とキリストが私たちに語りかけてくださっていることは何か、そのことを聴き取らせていただきたいと思います。そして、五つのパンと二匹の魚のような、今できることを、たとえ小さなことであれキリストにささげることからはじめればよいのです。そこから、主のわざが始まります。そして、弟子たちがかごいっぱいに入ったパンの重みを喜んだように、実りの喜びを与えてくださることを信じたいと思います。

 

 (2022年2月27日公現主日礼拝)

 

 

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