マルコによる福音書第6章1~13節

マルコの福音書第6章1~13節

「つまずかずに前進しよう」

 

今ご一緒にお聴きしました聖書には、はっきりと二つの出来事が記されていました。前半の(1節~6節前半)には、イエスが故郷であるナザレで受け入れられなかったということが、そして後半(6節後半~13節)には、キリストが12人の弟子たちを派遣なさったとことが記されていました。この二つの出来事を今朝は合わせて一緒に聴きとることにし、説教の題を『つまずかずに前進しよう』としました。

 本日は礼拝後に教会総会を行います。感染対策のため短い時間で行いますが、教会の新しい一年の計画を決める大切な時です。この教会総会について大切なことの一つは、教会の新しい一年の歩みのために教会員である私たちが祈りにおいて一つになることです。教会の頭であるキリストと父なる神さまに一致した祈りをささげられるかどうか、そのことが良い教会総会になるかどうかの分かれ目になります。4月からの新しい教会の一年が『つまずかずに前進する』一年であることができるよう、今朝のみことばを教会総会の備えとして耳を傾けてまいりたいと思います。

 そこで先ず前半、キリストが故郷のナザレで受け入れられなかったということを見てまいります。ナザレの人々がキリストを受け入れることができなかったその理由について聖書は人々が「イエスにつまずいた」(3節)と記しています。また、そのつまずいた人々をキリストはごらんになって人々の「不信仰に驚かれた」(6節)と記してもいます。このことから、今朝の聖書に語られているつまずきとは、不信仰に陥ることと密接に結びついていることがわかります。では、ナザレの人の不信仰と結びついていたつまずきとはどういうことであったのか。聖書はこう記しています。

 

安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。

「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

 

ここで注目したいのは、人々はイエスの教えを聞いて驚いていたということです。イエスの語る教えが素晴らしいものであることを驚きながら認めています。イエスの行われる奇跡的なわざについても、それが人間わざではないことを驚きながら認めているのです。しかし、つまずいた。そしてイエスを信じることができなかったのです。ですから、つまずくということは最初から「私は断じて信じない……」と不信仰を決め込んでしまうことではないのです。つまずく人というのは、キリストを信じて受け入れるために良いところまで行くのだけれども、肝心なところで駄目になってしまうという面があるのです。

「つまずく」と訳されています原文には興味深いことに「落とし穴にはまる」という意味があります。もうちょっとでキリストを信じて受け入れることができる、というところで落とし穴にはまってしまう。その結果として不信仰に陥る。それがつまずくということです。では、ナザレの人々はなぜ落とし穴にはまったのか?  

ナザレの人々は、鼻を垂らしながら母マリアのそばで遊んでいるイエスの様子を見てきていたことでしょう。弟や妹の世話をよくする面倒見の良い兄としてのイエスの様子をナザレの人々は見てきていたことでしょう。そしてイエスは、父ヨセフから仕事を習って大工になったということをナザレの人々はよく知っていました。しかしそのことがかえってナザレの人々がイエスをキリストとして信じ受け入れることを難しくさせてしまっていました。イエスの幼いころからのことを見て、よく知っていたことで、イエスに人間としてのあり方だけを見て、イエスの語る言葉と行われるわざに神の働きを見ることができなかったからです。このようなナザレの人々の問題点は要約するとこう言うことができます。ナザレの人々は人間を見る眼は開かれていましたが、神の働きを見る信仰のまなざしが開かれていなかったということです。このことは私たちがよくよく気をつけなければならないことです。

 

 今年は宇都宮共同教会の伝道開始60周年を記念し、感謝する行事を計画しています。私たちがこの教会の60年の歴史を振り返るときに大切なことは、教会としての60年の歩みの中に神のお働きがあったことを丁寧に受けとめることです。そのために注意しなければいけないことは、私たちが60年の教会の歴史を振り返るときに、ナザレの人々のようになってはいけないということです。時に、この教会に長くいる人ほど注意する必要があるかもしれません。教会のことについて昔からのことをよく知っている人、あるいは牧師のことをよく知っていると自負する人が語る言葉というのは、残念なことですが信仰のつまずきになることがしばしばあるからです。どうしてそうなってしまうのか。ナザレの人々と同じです。人間を見ているばかりで神の働きを認めることができていないからです。

 使徒パウロは「神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私は知っています」(ローマ第8章28節)と言っています。このパウロは、人間の現実というものを人一倍よく見ていた人、知っていた人でありました。ですから人間のやることなす事、また教会のやることなす事には失敗や醜いことが多いことも知っていました。しかし、そうしたことがあっても神が働いてくださることで益となると言いうるほどに、パウロは神のみ働きを見るまなざしをしっかりと開き続けた人でありました。そういうまなざしをもっていてこそ、私たちは60周年を感謝することができるのです。

さて、後半に移りましょう。キリストはご自分の故郷であるナザレの人々の不信仰のゆえに「何人かの病人に手を置いて癒されたほかは、そこでは何も力あるわざを行うことができなかった」と聖書ははっきり記しています。言ってみればキリストの伝道は成功しなかったということです。しかし、だからといってキリストは「こういう不信仰な人たちにいくら伝道してもしかたがない……」と伝道することをやめてしまわれたのではなく、近くの村々を巡り歩いて伝道をお続けになりました。そして弟子たちを伝道に派遣なさったのです。その際、弟子たちをどのように派遣なさったのか、そのことが7節以下に記されています。私はここを読んだとき、素朴にこう思いました。「随分、早い派遣だなぁ……この弟子たちはもう伝道者として派遣される、少し早すぎはしないか……」と。そしてそれ以上に注目せずにおれないのは、持ち物についての指示でした。

持って行くことが許されて物といえば、たった杖一本。履物を履いてもよいというのは、蛇のような動物から身を守るためには最低限必要であったからです。下着は二枚着てはならない。パンやお金を持っていくことも禁じられた。このような厳しい持ち物の制限の意味について、ある聖書学者はこう説明している。

 

「食糧をたずさえず、金も余分な衣服も持たずに旅する伝道者たちの貧しさは、鳥や百合のように生きることを指し示すしるしとなっている。」そう述べながら、鳥や野の花を指し示しながら語られたキリストの言葉を引用しています。

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか……」

 弟子たちを派遣するにあたってキリストがお語りになったことは「伝道者たる者は貧しさを受け入れなければならない……」というようなことではありません。弟子たちを遣わすに当たって、キリストが最も強くお求めになったことは、空の鳥を養い、野の花を装わせる天の父に信頼することでした。これこそが急所です。もし、伝道者がキリストの語られた通りに、杖一本と履物、下着二枚だけを自分の持ち物とすることを受け入れたとします。しかしそれでは生活できないからと言って、お金貸してください、食べ物をください、と信者の家を渡り歩き、人を当てにしてばかりいて天の父に信頼することを忘れていたら、キリストの言葉の意味は全く受けとめられていないことになります。

これから弟子たちは、天の父なる神さまがどんなに慈しみ深いお方であるかを伝道する。そういう伝道をするために最も幸いなことは、伝道者本人が天の父なる神の慈しみ深い助けを直に体験していることです。

そのことを大切にするための計らいが「杖一本と履物、下着二枚」という極度に少ない持ち物についての指示に込められているといえます。

 教会は、キリストの弟子とされた者たちの集まりです。ですから、こう言っても間違いにはならないでしょう。キリストは今日の教会に対しても、そこに集まっているキリストの弟子とされている私たちにも、教会が伝道のために前進してゆくために必要な持ち物については「杖一本と履物、下着二枚」というレベルと大きく変わらないことをおっしゃることでしょう。

 

 宇都宮共同教会がこれからも存続していくためには、会堂の維持のための費用としていくら、というようなそろばん勘定をキリストはなさるでしょうか。これからの時代、教会が伝道を続けるためには、これだけのものと費用が必要です、といってキリストは見積書を私たちに示すでしょうか。キリストは今日でも教会が前進し続けるために必要なものは「杖一本と履物、下着二枚」と同じようなことをおっしゃるのではないでしょうか。そうすることで、教会が、空の鳥を養い、野の花を装わせる天の父に信頼することを求めているのではないでしょうか。

 ですから、教会が教会として前進していくために大切なことは、教会の預金通帳をみながら暗くなったり明るくなることではなく、真剣に天の父を信頼すること、天の父を当てにしながら、あとは私たちができることを一日一日、精一杯することです。

 

 今朝は教会総会の備えということで、教会の営みに結び付けながらキリストの言葉を受けとめましたが、

このことは私たち一人一人の生活にも当てはまることです。皆さんひとりひとり、それぞれの日常生活においても『つまずかずに前進する』ことができるようにと願います。そのために、私たちの家庭の中にも天の父の計らいを見る信仰の目が開かれますように。鳥を養い、野の花を装わせる天の父に心を向けることができますように。そして私たちと共にいてくだるキリストに信仰のまなざしを注ぎながら、前進して行く一年でありたいと思います。                

 

 

 (2022年2月20日公現節主日礼拝)

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