マルコによる福音書第5章1~21節

マルコの福音書第5章1~21節

「捕らわれ人を解き放つ主」

 

マルコの福音書には、キリストが悪霊によって苦しめられている人を救うためになさった悪霊追放の出来事が幾つも記されています。先ほどご一緒に聴きました箇所は、そうした悪霊追放の記事としては、最も長い文章で書かれているものです。その第1行目はこう記されていました。

「こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。」

このときキリストと弟子たちとがやって来たゲラサ人の地というのは、ユダヤ人が足を踏み入れることの少ない地方でした。というのは、ゲラサ人は神を信じていない人々であったからです。こうした神を信じていない人々をユダヤ人は、蔑(さげす)みの思いを込めて異邦人と呼びました。そうした異邦人であるゲラサ人の住んでいる地域にキリストは出向いて行かれたのです。

 

※「異邦人」……広辞苑 ①外国人。異国人 ②ユダヤ人が神の選民であるという誇りから他民族・他国民を区別して呼んだ言葉。国語辞典に説明されるくらい、ユダヤ人は、神に選ばれ、神を信じているという誇りの故に、神を信じていない人々と自分たちとを区別(差別)した。そこから生まれてきているのが「異邦人」という言葉。

※「未信者」……「未だ信者になっていない者」という意味であるから実に信者を中心とした言葉。この「未信者」という言葉には、「異邦人」と似た響きがあり、教会員でない人たちの前では、ほとんど使ってはならない言葉と言っても良いであろう。

 

神を信じていない人たちを蔑む呼び方である異邦人という言葉ではありますが、この言葉が積極的な用い方をされることもあります。マルティン・ルターが作詞しました讃美歌のひとつに『いざ来ませ、異邦人の救い主よ』という讃美歌があります。クリスマスによく歌われますこの讃美歌はこう歌い始めます。

 

さあ、おいでください、異邦人の救い主よ、処女の子と知られるお方よ、

人々よ、こぞって驚くがよい、神がこのような誕生を命じ給うたことを。

 

この讃美歌では異邦人という言葉をそのまま使っています。なぜかというと、キリストは神の民イスラエルのためだけでなく、ユダヤ人から見れば軽蔑の対象である異邦人のための救い主としてお生まれ下さったということを強調しているからです。

 今朝の聖書がキリストとその弟子たちが「ゲラサ人の地に着いた」と記しているのも、そこにはキリストは、異邦人のためにも救い主であってくださっているということが強調されているのです。

 

さて、キリストと弟子たちの一行が出て行かれるところには、いつもでしたら、大勢の人々が押し寄せてくるのですが、ゲラサの地に着いたときはそうではありませんでした。「イエスさまがお出でになったぞ……」とキリストを出迎える群衆はいなかったのです。ならば、誰一人キリストを出迎える人はいなかったのかといえば、そうではなく一人だけ、墓場のほうから大きな叫び声を上げ、キリストをめがけて一目散に走ってくる男がいました。この男は尋常な男はありませんでした。 悪霊にとりつかれていたのです。

この男は暴れたり、物を壊したりといろいろと問題を引き起こしていたのでしょう。それを止めさせるために土地の人々は男の手や足を鎖で縛りましたが、男は鎖を引きちぎってしまうほどの力を発揮しました。そして墓場を住処とし、夜も昼も墓場や山で叫び続け、自分の体を石で打ちたたいて傷つけるといった異常な行動をとっていました。そのような男が、ひとり、キリストのところにやってきたのです。そして叫んで言いました。

「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめなさいでください。」

 

マルコの福音書のテーマ、それは神の子イエスということです。そのことを表すかのように、この福音書の第1章1節には「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と記されています。さて、それならばこのマルコの福音書のなかで、イエスを神の子と言い表した人は何人いるのかというと3名だけです。神の聖者と言い表している場合も含めると4名になりますが、 その4名のうち3名というのは、実は悪霊なのです。悪霊ではない一人というのは、十字架上で息を引き取られたキリストを見上げていた百人隊長でした。ユダヤ人から見れば、神を信じていない異邦人であるローマの百人隊長は、キリストについて「ほんとうに、この人は神の子であった」と言ったのです。

弟子たちはどうだったのかというと、第4章に記されていたように、嵐をしずめたキリストを見ても「いったい、この方はどなたなのだろうか」という有様です。それに対して、悪霊に憑かれた男は、はっきりと「いと高き神の子イエスよ」と言った。それならば、この男にとりついていた悪霊は弟子たちよりもキリストを敬うことをわきまえていたのかといえば、決してそうではありません。

 

敵に戦いを挑むときに、大切なことの一つは相手の正体を見破ることだと言われます。男にとりついている悪霊が「いと高き神の子イエスよ」と言っているのは、キリストを敬ってではなく「イエスよ、お前の正体はわかっているぞ……」と抵抗をして、強がっている。そして抵抗しながらも「私を苦しめないでください」とも言っているのです。

こうした悪霊の様子から、キリストと悪霊の対決は、最初から勝者の決定している戦いであることがわかります。このことは、私たちが悪霊というものを意識するときに忘れてはならないことです。悪霊ということを話題にするとクリスチャンの中にも「今の時代にそんな馬鹿な話を……」と軽く見る傾向と、その反対に、悪霊の力を神の力以上にリアルなものとして信じきって必要以上に恐れを抱いてしまう人がいます。この両極端に陥らないように注意しましょう。そのために私たちが覚えておきたいことは、キリストはもう既に悪霊に勝っていてくださっているということです。悪霊に対する勝利者としてのキリスト。このことを今朝、はっきりと覚えたいと思います。

 ところで、ここに出てきている悪霊につかれた男の姿は実に異様です。そのため、うっかりすると、この男をものめずらしいものを見るような、いわば野次馬のように見てしまいかねません。しかし、この悪霊につかれた男というのは現代人の姿だということを言っている人がいます。そこで改めて、この男について詳しく記されている事柄を読み直してみると、なるほどと思う。

たとえば聖書は、男が「石で自分のからだを傷つけていた」(5節)と記しています。自分で自分の体を傷つけてしまう人というのは、今日でも珍しくありません。例えば、麻薬によって自分の心と体を傷つけてしいまっている人々がどれだけいるか。高校生のような若い人たちのなかに、自分の手首を刃物で切るリストカットというような自傷行為をしてしまう人がたくさんいます。自分の体を石で傷つけているゲラサの男の姿は、自分自身の心と体を傷付けることをやめることのできない現代人の姿を現しているともいえるでしょう。

ゲラサの男を鎖や足かせで縛りつけても鎖は引きちぎられ、足かせは砕かれてしまうということも、男の異常な行動を止めさせようとする人々の努力が悪霊の力に全く歯が立たない。それと同じように、今でも、悲惨な犯罪が繰り返されないようにという取り組みがなされても、ほとんど歯が立たない。そして同じような悲惨な事件が繰り返し起こってしまう。ゲラサの男の姿は単なる過去の出来事ではないのです。

だからこそ、私たちは悪霊の力以上のものに注目をしたいのです。人間の手には負えなかったゲラサの男をお救いになったキリストに注目したいのです。その経緯はこうでした。

男にとりつていた悪霊は、キリストに命乞いのようなことを願いました。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください」と願ったのです。このようなことを願った悪霊には名前がありました。「レギオン」という名です。レギオンというのは軍隊の一つの単位を表す言葉でもあり、日本語で言えば「師団」という言葉に当たります。だいたい1万人以上の兵隊が集まる集団のことです。そのような集団をなす悪霊が、一気に豚に乗り移って海の中に突進して行った。悪霊の総退却です。一人残らず、一匹残らずというべきか。とにかくこの男の体から悪霊は跡形もなく退散しました。そして男は解放されたのです。悪霊が豚に乗り移って総退却する……どこかユーモラスな感じすらします。一度聞いたら忘れないような話です。悪霊に打ち勝っていてくださるキリストのことを印象深く覚えさせてくれる物語といえるのでしょう。そして私たちがもし悪霊に恐れを覚えるときは、この豚の話しを思い出せばよいのです。

悪霊に捕らわれの身となっていた男は、今や完全に解き放たれました。こうして男はキリストの一方的な働きかけによって救われたのです。このゲラサの男について、実は密かにこの男は信仰をもっていたというようなことはただの一言も聖書には書かれていません。男は悪霊にとりつかれる前にはひっそりとユダヤの会堂に礼拝に行っていたというようなことも書かれていません。聖書に書かれていることといえば人間性を失ったともいえるような異様な酷い生活をしていたということです。しかし、そういう人でもキリストは救ってくださる。今朝の聖書はそのことを福音として証言しているのです。

 

今朝、Tさんのために入会の祈りをしました。この祈りは、はっきりいえば、病床洗礼を行うことができないために、その代わりになることを願って行ったものです。本来ならば、Tさんの病床を訪ねて授けるはずであった病床洗礼について、私はご家族にこういう説明をしました。「病床洗礼を受けるということは、ベッドに寝たきりの生活をしている、そういう人でも神さまは救うことがお出来になる、そして救ってくださるという事実を示すための見本になることです」

この度は、その病床洗礼をコロナ禍のために執り行うことができません。Tさんの病室に家族ですらも入ることができないからです。しかし、そういう状況の中にあるTさんをも神は救うことができるし、救ってくださる。その事実に変わりはありません!

男はキリストのお供をしたいと願い出ましたが、キリストはそれを許可なさいませんでした。しかしキリストは、今までお語りにならなかった言葉をこの男に語り掛けられました。

「あなたの家、あなた家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」

これまでのキリストは、癒しを与えた人々に対して「このことを黙っていなさい」と語られてきました。しかし、この男にはそうおっしゃらなかった。なぜなのか。この男が神を知らない異邦人であったことと関係があるように思われます。いずれにせよ、このキリストの言葉に従って、男はその場を立ち去り、キリストが自分にしてくれたことをデカポリス地方に言い広めたのでした。この「言い広める」という言葉は、が宣教師と言ったりするときに用います「宣教」という言葉です。こうして、ユダヤ人が神を信じない異邦人の地として足を踏み入れることを嫌ったゲラサの地から、キリストを宣教する宣教者が生まれました。予想もしない土地から、予想もしない男が宣教者になったという今朝の物語は、神学校への入学者が少ないと嘆かれている今日、私たちに一つの希望を示してくれているともいえるでしょう。

                            (2022年1月30日公現節主日礼拝)

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