マルコによる福音書第4章35~41

マルコの福音書第4章35~41節

「私の助けは来る、みことばの主から」

 

マルコの福音書第4章には、キリストによって語られた五つのたとえが記されていました。そのたとえをキリストはどこでお語りになったのかというと、それは舟の中でありました。大勢の群集がキリストのもとに押し寄せるようにして集まってきていたので、キリストは弟子たちに用意させた舟に乗り、その舟を岸辺から少し離して、岸辺にいる群集との間に距離をとって五つのたとえを語り続けて来られたのでした。そうしているうちに夕方になると、キリストは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と、群衆のいる岸辺とは反対側の岸辺に向かって舟を漕ぎ出させました。そのとき「ほかの舟も一緒にいった」ということが書かれています。群集の一部が舟に乗って追いかけて来たのかもしれないが詳しいことは何も解りません。

いずれにしても、今朝の聖書に記されている出来事は、舟のなかでたとえを語られたキリストと、そのたとえを聴いていた弟子たちとが、そのまま乗り込んでいた舟のなかで起こった出来事なのです。この舟は、突風に見舞われ、沈みかけるのですが、そのことが起こる直前に、弟子たちは舟のなかで五つのたとえを聴いていたのです。ここが急所です。この点をしっかりと抑えておくことが今朝の聖書を理解するうえで重要な鍵となります。

さて、舟を沖に漕ぎ出したときに湖は静かでした。ところが途中から突然、激しい突風と波が舟を襲いはじめました。このように湖が急に荒れることは珍しいことではありませんでした。

舟に乗りこんでいた弟子たちのなかには、湖で魚を捕る仕事をしていた者たちが何人もいましたから、舟をこき出し始めたときには、ペトロやアンデレなどは「舟のことならお任せ下さい! この湖は私たちにとっては自分の庭のようなものです!」と張り切っていたかもしれません。しかし、このときの嵐は湖で漁師としての経験を持っていたペトロたちにしても恐れを抱かざるを得ないほどに激しいものでした。

このときの弟子たちというのは、自分の経験や知識、特技が何の役にも立たなくなってしまうような困難のなかに置かれていたといえます。そして、同じような困難のなかに私たちも置かれることがあります。

 

舟と湖のことなら人並み以上に自信を持っていたであろう弟子たちが困難を覚えて慌てふためいていた時、キリストはどうしておられたかというと舟の後方で眠っておられました。キリストが眠っていることに気がついた弟子たちは、キリストを起して言いました。

「先生、わたしたちが死んでも、かまわないのですか。」

このとき弟子たちは「先生、私たちはおぼれ死にそうです。どうぞ、助けて下さい」とキリストに助けを求めたのではありませんでした。弟子たちは眠っておられるキリストを見ながら「俺たちがこんなにも必死になっているのに先生は眠っている。先生はいったいどういうおつもりなのだ」とキリストに対して、いささか腹を立てていたのかもしれません。いずれにしても弟子たちは、眠っているキリストを見たときに、なんで?という反感、あるいは失望の思いを募らせたのです。

 

そのような弟子たちの心の内をキリストは見抜いておられました。ですからキリストは、嵐をしずめると弟子たちに向き直られてこう言われたのです。

「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」

これは明らかに誉め言葉ではありません。弟子たちの不信仰を咎(とが)めている言葉です。キリストが、これほどまでにはっきりと弟子たちを叱責している言葉はそう多くはありません。珍しいといってもよいほどです。それだけに、なぜ、キリストはここまではっきりと弟子たちの不信仰をお咎めになったのか?そのことをよく私たちはよく考えてみることが大切です。

 そこで思い出したいことは、最初のところで申しあげたとおり、この舟の出来事は、キリストが五つのたとえによってみことばを語られた直後のことであったということです。キリストは『種を蒔く人』のたとえによって、みことばを聞いて受けいれる人たちは、30倍、60倍、100倍の実を結ぶということをお語りになりました。また、畑に蒔かれた種は人々が夜昼、寝起きしているうちにひとりでに成長して実を結ぶ。それと同じように、天の父なる神は私たちが寝起きしている間もみわざを進めていてくださる。神の国とはそういうものだ、ということをお語りにもなりました。

こうした、たとえを用いてのみことばをキリストは、何のために語られたのか? 弟子たちや群集に、少しばかり知識を与えるとか、教養を身につけさせるために語られたというのではないのです。人は生きていくためには、様々な困難、試練を受けとめていかなければなりません。「人生とは重い荷物を背負って続ける旅のようなものだ」という意味のことを言った人があるが、まさにそういう人生を生きていくために、困難や試練を乗り越えて行くために、キリストはたとえによるみことばをお語りになったのです。それを弟子たちは、ついさっきまで聞いていたはずなのです。

  舟が突然の嵐に見舞われたとき、弟子たちのなかで一人でも、キリストの語られたみことばを思い出すことのできる者はいなかったのであろうか……神の国について語られた『成長する種』のたとえを、あるいは『からし種』のたとえを思い出すことのできる者はいなかったのであろうか……。そこが問題なのです。

 

キリストは「まだ信仰がないのですか」と言いながら、弟子たちにこう言っているのです。

「君たちは私の語るたとえをさっき聞いただろう。人間が寝起きしている間にも天の父はみわざをなさっていてくださる、それが神の国だという話しを君たちは聞いたばかりではないか。その神の国をまだ信じないのか。みことばをまだ信じないのか……。」

もし、眠っているキリストを見た弟子たちのなかの一人が「こんな大変なときにイエスさまが眠っておられる。しかし、まてよ……そういえばイエスさまは、さっき、土に蒔かれた種は、夜昼、寝起きしているうちに成長する、という話をしておられたな。イエスさまが寝ておられるのには何か意味があるのかもしれない……」と『成長する種』のたとえを一瞬でも思い出すことができたならば、事態は変わっていたかもしれなのです。しかし、弟子たちのなかで、五つのたとえによるみことばを思い出す者はいなかったです。こうした弟子たちをキリストは、はっきりとお咎めになられたのです。

このことから、私たちがしっかりと身につけて行きたいことは、困難のなかにある時こそ、みことばを思い出せるようになるということです。

 そのためにも今朝、今ここで私たちが自分の心に刻みつけるようにして覚えたいのは、嵐に遭っている舟のなかで眠っておられたキリストの姿です。その眠っているキリストの姿をと共に、心に刻みたい詩篇があります。第121篇には次のような言葉が歌われています。

 

主は あなたの足をゆろけさせず あなたを守る方は、まどろむこともない。

見よ、イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。

 

「まどろむこともなく 眠ることもない」という言葉からある人は、この詩篇に『神による夜警』という題をつけました。神さまは夜通し番をするように私たちを見守ってくださっているという意味です。この〈神が眠ることなく守ってくださる〉ということと〈舟のなかで眠っておられたキリスト〉とは矛盾するものなのでしょうか。もちろん、矛盾するものではありません。イエスは、この神がまどろむことなく、眠ることもないということをうたっているこの詩篇を神の言葉として信じていた。そして、天の父は、まどろむことなく、眠ることなく、見守っていてくださる。という信仰をイエスはもっておられた。だからこそ、嵐のなかの舟で眠ることができたのです。嵐に揉まれる舟のなかで眠っているキリストの姿は、詩篇121編がうたっているまどろむこともねむることもなく見守っていてくださる神を証しするものになっているのです。

そしてキリストは、まどろむことなく、眠ることのない天の父なる神の存在を証明するために、また弟子たちの信仰を呼び覚ますために、風を叱り、湖に「静まれ、黙れ」と言われ、嵐をお静めになりました。こうしてキリストは嵐を静めることで、天の父の見守りが現実のものであることを示されたのです。

「まだ信仰がないのですか」とキリストから叱責を受けた弟子たちが、あの舟の状況の中で、先ず、実践すべきであったことは、みことばを思い起こすことでした。そして、みことばが指し示している神のもとから助けが与えられることを思い起こすことでありました。そのことができていたら、後は弟子たちのすべきことは一つであったと言ってよいでしょう。それは、舟の中に流れ込んでくる水を汲みだすことです。荒波に揉まれる舟から、海に振り落とされないように、しっかりと舟に腰をすえて踏ん張ることです。こうした自分たちにできることを精一杯することであったとい言えます。

 

私たちの生活のなかにも、それこそ舟のなかに水が滝のように流れ込んできているような、そのようにたとえられるような状況があるかもしれません。そこで私たちは、水を汲み出すような努力を力の及ぶ限りする。力尽きた時は、あとは祈ることしか他にできることはないかもしれません。しかし、そうした水を汲みだすような努力と祈りをみことばを思い起こしなから、口ずさみながらすることができたらと思います。みことばを語ってくださっているキリストを、みことばが指し示している天の父を仰ぎながら、

試練の嵐を乗り越えることができるように、お互いのために祈りたいと思います。

                                                     

 

                                (2022年1月23日公現節主日礼拝)

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