マルコによる福音書第4章26~34

マルコの福音書第4章26~34節

「成長する神の国」

 

今、聴きました聖書の終わりの方にはこう記されてありました。

「イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。」

キリストは、これまでにも『種を蒔く人』『ともし火』『秤』といったイメージを用いてのたとえをお語りになり、更には先ほど聴きました『成長する種』『からし種』のたとえをお語りになりました。それは人々の聞く力に応じて、すなわち私たちの聞く力に応じてそうなさってきたのだと聖書は言っています。

この「聞く力に応じて」とは、私たちの聞く力が弱いから、頼りないから、それに応じて分かりやすくするためにたとえを語られたということではないと思います。

キリストは、私たちのみことばを聞く力のことは良く知っておられたことしょう。私たちはみことばを聞いたときにはそれなりに理解し、なるほどとわかったような気もする。しかし、問題はそれを忘れてしまうことです。ここぞ、というときにみことばを思い出せないのです。そういう私たちのみことばを聞く力のことをキリストは誰よりも分かっておられたのだろうと思います。

 

最近は、名前を聞くことがめっきり少なくなってしまいましたが、私の好きな作家にノーベル賞を受賞した大江健三郎さんがいます。この大江さんのこんなエピソードをある本で読んだことがあります。

大江さんは四国、愛媛県の山奥の村でお生まれになり、東京大学に入学するまで四国で生活されました。その大江さんが子どもの頃、自分の生まれ育った村にある図書室にある本を全部読んでしまわれたそうです。そのことをある日、母親に「もうあの図書室の本は全部読んでしまった」と言った。すると母親は息子をその図書室に連れて行った。そして書棚から一冊の本を取り出して、その本を息子に示しながら「この本にはどういうことが書いてあったのか?」と質問した。 健三郎さんは「それは大分前に読んだので覚えていない」と答えた。すると母親は「あなたは忘れるために本を読むのか。本を読んでも読んだことを忘れてしまって覚えていないのならば、それは読まなかったことと同じではないか」と言ったそうです。そして、そのことが大江さんの本の読み方を変えたというのです。

 

キリストは私たちに「みことばを聞いても忘れてしまったのなら、それは聞かなかったことと同じではないか」とは言われませんでした。その代わりに、聞いても忘れてしまう、そういう聞き方をしてしまいやすい私たちの聞く力に応じて、多くのたとえをもってみことばを話されたのです。

キリストのお語りになったたとえというのはだいたいにおいて、子どもでも聞きとれる話です。『種を蒔く人』のたとえを聞いたことのある人ならば、ああ、あの話かと思い出すことができる。たとえは記憶に残りやすいからです。そして思い出しやすいのです。私たちの記憶に残りやすいように、私たちが思い出せるように、キリストはたとえを用いてお語りになったのです。

キリストは論理的な語り方はほとんどなさりません。A=B、B=C よってA=Cというような語り方ではなくて、キリストは紙芝居を見せてくれるように、イメージ豊かなたとえを用いてみことばを語ってくださっているのです。そのおかげで私たちは、キリストの語られたみことばを一つのイメージとして心に蓄えることができる。こうした私たちの聞く力に対するキリストのご配慮はたいへんありがたいものなのです。

さて、今朝の聖書でキリストは、神の国とはどのようなものなのか、そのことを二つのたとえによってお語りになっています。先ず一つは『成長する種』のたとえです。

ある人が畑に種を蒔く。蒔かれた種は芽を出して育って苗が伸びる、次に穂をつける。そしてその穂に実が結ばれる。そうなれば刈り入れです、鎌で実を刈りとる。このように、このようにこのたとえは蒔かれた種が収穫を迎えるまでのことが語られているのですが、はっきりとした特徴があります。それは、種を蒔いた人、つまり農夫の働きの事は、種を蒔いたということ以外は何も語られていないということです。実際には種を蒔いた後、蒔きっぱなしということはないのであって、水をやったり、肥やしをやったりしたでしょう。しかし、そういうことは何一つ語られていない。その代わりに、こう語るのである。

 

夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は目を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。

 

ここで注目したいのは「夜昼(よるひる)」という言葉です。普通、こういうところを日本語では「昼夜(ちゅうや)」と言うものです。これはユダヤ人と日本人の時間の流れの感覚の違いによるものといえそうです。今でもユダヤ人は、一日というのは日没とともに始ると考える。一日というのは夜から昼へという時間の流れとして考えられている。だから昼夜ではなくて夜昼。これは、日本人の感覚とは随分異なるものです。私たちは、夜中まで起きていて午前零時になって暦の上では新しい日が始まっていても、実際に新しい一日の始まりとして感じるのは、やはり夜が明けたとき。外が明るくなって「おはよう」と言いながら、新しい一日が始まったと感じる。ところがユダヤ人にとりましては、「おやすみなさい」といって寝床に入ったときに、新しい一日が始まったと感じる。種を蒔いた人は昼の間に種を蒔いて、日が暮れると、種のことは神さまにお任せして床に入る。そのことから一日が始まる。一日の始まりは神さまにお任せして寝ることから始まるのです。

 

この神さまにお任せするということが、今朝のキリストの譬えのテーマであると言っても良いでしょう。そのことを更にはっきりとさせるために注目したいのは「地はひとりでに実をならせ」という言葉です。この「ひとりでに」と約されているギリシャ語はアウトマテーという単語で、英語のオートマッティックの語源となった言葉です。私たちが運転する乗用車も今はほとんどがオートマティック車です。ギアをドライブという位置に入れておけば、後はなにも操作しなくてもひとりでにギアが切り替わって行く。「地はひとりでに実をならせる」ということも、土に蒔かれた種は、蒔かれたあとはオートマティックで、ひとりでに実を結ばせる、それぐらいのことをこのたとえはいっている。だからといってこのたとえは農夫の働きを無視しているわけではない。オートマティックを強調しているのです。そしてそのオートマティックの仕組みを司っているお方、神さまがおられることを暗示しているのです。

 

こういう話しを聞いたことがあります。ある有能な外科医が記者から「あなたは手術を行なうときに何を頼りにしますか?」と質問を受けたそうです。その外科医は「医療の「恵み」です」と答えた。人間の体にもともと備えられている回復力、治る力のこと。神さまは人間の体にひとりでに治るための力を神さまが「恵み」として与えてくださっている。それこそが何よりも頼りになるものだとこの外科医は言いたかったのです。

農家の人の働きはまことに労が大きい尊いものです。医師の働きは素人には真似のできない専門的なものです。しかし、そうした農家や医師の働きとは別の次元でひとりでにとしか言いようのない力、神の力が働いています。私たちの知らないところで神の力が働いています。今朝のたとえはそのことを指し示しているのです。

 

ところでこのたとえをキリストは、そもそも神の国のことを教えるためにお語りになりました。そこに焦点を合わせると、こう申し上げることができます。神の国というのは、私たちが、あれやこれやと働いて実現させるものではないということです。そうではなくて、私たちが寝て起きてという生活を繰り返している間に神の国は成長して実現して行く。神の国はおのずと立つものであるということです。

 

 

もう一つの「からし種」のたとえについては手短にみてまいります。からし種というのは1ミリあるかないかというまことに小さな種です。そんな小さな種であっても、それが土に蒔かれてあるならば、それは成長して誰の目にも明らかになるほどの大きな木に育つ。神の国もそのようなものだということです。このたとえの強調点は、蒔かれたところには木が生えるが、蒔かれていないところには何も生えない、ということです。

今朝の二つのたとえは、いずれも「種」という言葉を用いていますが、を用いた喩をキリストは、既に『種を蒔く人』のたとえでもお語りになっていました。そこで語られていたというのは、神のことばみことばを意味していました。ですから、今朝の二つのたとえに出てくるについても、これをみことばと結びつけて聞きとる必要があります。そしても、そうすることで、今朝の二つのたとえから、二つの希望を見ることができます。

私たちは、みことばを聴くと「その教えはもっともだが、なかなか実践できない」と考えやすいのではないでしょうか。

 

誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。

 

この二つのみことばを日常生活で実践できたら、それだけで私たちの人生は大きく違ったものになるでしょう。そして、このみことばを実践しているクリスチャンを見た人は、「神さまを信じている人はやはりちがうなあ……。神さまは本当におられるのかもしれない……」と思うようになるかもしれません。

しかし、私たちはクリスチャンであっても「みことばを実践することは難しい……」と思ってしまう。そこでこそ思い出したいのは、今朝のたとえにあった「ひとりでに」という言葉なのです。実を結ぶために農夫がどれだけ頑張ったかということは何も語らずに「ひとりでに」という神によるオートマデックによって種は成長して実を結ばせた今朝のたとえを思い出したいのです。

みことばは、こうしなさい、という単なる教えではありません。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさいというみことばを聞いてそれを受けとめる者には、みことばを語られたキリストが私たちにみことばを実行する力をも与えてくださるのです。その力が与えられる時、あたかも「ひとりでに」みことばを実行することができるようになる。ですから、私たちがすべきことは、みことばを聞き続け、蓄え続けることです。そして、あとは寝て待つということ。

からし種のことを知らない人は、小さな種を見せられると、これが本当に大きな木になるのかと疑わしく思えてしまうことでしょう。しかし、それが本当にからし種であり、その種が本当に蒔かれているのならば、蒔かれた種は大きな木になる。種の蒔かれたところに木は育つのです。みことばも、それが本当にみことばであるのならば空しく終ることはありません。他でもありません、神がご自分の言葉を実現して下さるからです。その神にお任せして私たちは寝て待つのです。

 

                         (2022年1月16日公現節主日礼拝)

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