マルコによる福音書第4章21~25

マルコの福音書第4章21~25節

「十字架の恵みを量る秤」

 

  「聞く耳があるなら、聞きなさい」。そのようにキリストは今朝のこの礼拝で語りかけておられます。この語りかけをキリストは誰にでも語ったわけではありません。

はじめからキリストを疑っていた人々にキリストは「聞く耳があるなら、聞きなさい」とはおっしゃいませんでした。キリストの言葉に本気で耳を傾けようとしなかった人たちに「聞く耳があるなら、聞きなさい」と語ることはなかったのです。キリストは、弟子たちに対して、またキリストの言葉を聞こうとして集まってきていた人たちに対して「聞く耳があるなら、聞きなさい」と語りかけられました。

この礼拝に集まっている皆さんは、漫才のような笑いながら聞くことができるような面白い話しを期待してここに来ているわけではないでしょう。新年を迎えてからオミクロン株の感染者が日本でも急激に増えてきています。沖縄には再び蔓延防止措置が出されました。こうした政府や行政の取り組みは適切なものになっているのか、あるいはワクチンや特効薬の効果はどうなのか、そういう話しを聞こうとして来たわけでもないでしょう。そうではなくてキリストの言葉を、神の言葉を聞こうとして皆さんはここに集まっておられる。そういう皆さんに対して、キリストはお語りになっています。「聞く耳があるなら、聞きなさい」

そうお語りになりながらキリストがお語りになっています今回の喩に出てきているのは「明かり」です。ここで語られています明かりとは、小さな皿のようなものに油が注いであり、そこに火をつけるための芯がつけてあって、そこに火を灯して部屋の中を照らすために用いる一種の照明器具です。蝋燭の明かりのようなものと考えてもよいでしょう。ですから、それほど強い明かりではありません。

しかし今日のような電力のない時代にあっては、蝋燭程度とはいえ夜の闇のなかでどんなに明るく感じられたことかと思います。

 

この明かりは何を喩えて表しているのか。そのことを知る一つの手がかりになりますことは「明かりを持ってくる」という言葉です。この「持ってくる」という言葉の原文は「来る」と訳すことができる言葉です。ですから、ここでの明かりというのは誰かが持ってくるというだけでなく、明かりそのものがやって来るという意味を含んでいるのです。

そこで、皆さんに考えてみていただきたいのです。明かりが来る」というふうに聞いたら、誰が来ると思われるでしょうか? こう言い換えても良いかもしれません。「光が来る」と言ったら、それは誰が来ることを言いあらわしているのでしょう?

聖書に親しんでいる人であれば、「光が来る」と聞けば、特に断わりがない限り、それはキリストのことだと思うでしょう。キリストご自身が「私は世の光である」とおっしゃったことを思い出すからです。事実、キリストは、私たちの暗くなりがちな心を照らすことのできるとして、この世に来てくださいました。

そのことを昨年の待降節から先週の礼拝まで、私たちはクリスマスの喜びとして受けとめてきました。

昨年の秋から新型コロナの感染者数がどんどん減っていき、東京でも新規感染者数が一日に一桁になってきた頃、この調子なら、コロナの収束は近いのでは……と期待する人は多かったのではないかと思います。ところが今、この現状です。新型コロナはいつ収束するのか……そのことを考えると、出口の見えない暗いトンネルの中を歩いているような気持になります。そういう気持ちになってしまう私たちの心を照らしてくださるキリストこそが、今朝の聖書で語られているあかりなのです。

そのようなあかりであるキリストが来てくれたのは、その明かりを「升の下や寝台の下に置くためでしょうか……」と喩は問いかけています。

「升」というのは、明かりを消すときにつかう道具のことです。煙を残さないで火を消すためにすっぽりと火を覆ってしまう器のようなものです。「寝台の下に置く」とは、明かりをベッドの下に置くということ。そんなことは普通ではしないことです。

さて、ここで考えなければいけないのは、明かりであるキリストを、升の下に入れて消してしまう、寝台の下に置いて、その明かりが周りを照らせなくしてしまうとは、実際にはどういうことでしょうか? これについてはいろいろな意味があると思いますがが、今朝は一つのことに心を留めたいと思います。そこで、詩篇第119篇の言葉を思い出したい。  

 

あなたのみことばは、私の足のともしび 私の道の光です。(105節)

 

「あなたのみことば」とは、言うまでもなく「神の言葉」のことです。それはまたキリストの言葉とも言いうるし、キリストそのものが神の言葉だとすらいえます。その神の言葉が、私たちの歩みを照らす光りとなってくださいます。

私たち一人一人にとっても教会にとっても希望に満ちた明るい将来が描きにくい現状があります。そういう私たちをキリストがみことばを語りかけて導いてくださる。そのキリストに従って行くことで、私たちは先行きの見えにくい、明るい将来を描きにくい今のこの歩みにおいても希望をもって歩むことができる。生きることができるのです。

それなのに、人間には不可解なことをしてしまう弱さがある。明かりを升で消してしまうのです。つまりも御言葉を聞くことをやめてしまう。明かりを寝台の下においてしまうのです。つまり聞いた御言葉を思い出すことができないようにしてしまう。

聞いた御言葉を思い出すことができないようにしてしまう、ということは記憶力の問題ではありません。

なるほど私たちは覚えていたみ言葉を忘れることが多々あります。ならば、みんなで思い出せばよいのです。

 これから1月、2月は教会や教区、教団の総会が続きます。それに備える会議が多く行われます。そうした総会や会議で大切なことは私の歩みを照らす光、教会の歩みを照らす光としての御言葉を思い出しながら話し合いをすることです。そういう会議のなかで、私の考えは違う……と自分の考えを強く主張する人が現れることがあります。そういう人の言葉がキリストの言葉を押しのけてしまうことがある。そうして、教会を導くあかりが寝台の下に押し込まれてしまうということも起こりうる。気をつけたいことです。

 さて、キリストは「聞いていることに注意しなさい」と前置きした上で、もう一つの喩をこうお語りになりました。

 

あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。

持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。

 

この喩を理解する鍵となるのは「秤」という言葉です。最近は見かけなくなりましたが、今でも大きな農家にはあるかもしれません米や大豆などを量るときに使う四角い器がある。今いう計量カップのことです。そうした秤が大きければ大きいほど、たくさんの量を入れることができる。ここでキリストが「あなたがたは、自分が量る秤で自分にも量り与えられ」というときの「秤」とは、キリストから与えられる恵みを受けるための秤ということができます。あまり理屈っぽい話をすると分かり難くなるので、一つ具体的な例を挙げましょう。そこで、宗教改革とルターの話を紹介したいと思います。

マルティン・ルターによる宗教改革の発端となったのは、当時のローマ・カトリック教会が人々に与えていた免罪符に対する批判でありました。免罪符というと御札のようなものをイメージするかもしれませんが、実際には贖宥状という書類です。その免罪符を買うことによって罪の罰が免れるということが伝道されたのです。その伝道は多くの人々の心を引きつけ、大勢の人が免罪符を買いました。そのようして、神の言葉の教えと人間の言葉による教えとの区別がつかなくなって行ったのです。

その問題をルターは公に議論するために「95ヶ条の提題」と呼ばれる文書を教会の扉に貼りつけました。その日が10月31日であったと伝えられ、この日を宗教改革記念日とするようになりました。その「95ヶ条の提題」の第1条、これはプロテスタント教会に属する私たちが、ぜひとも心に留めるべき重要な言葉であると私は思っています。

「私どもの主にして教師であるイエス・キリストが『悔改めよ』と言われたとき、

主はキリスト者の全生涯が悔改めであることを欲しておられる」。

 

「悔改める」ということは、いわゆる求道者の問題ではありません。クリスチャンである私たちが、それこそ全生涯に渡って悔改め続ける。そのことをキリストは願っておられる。なぜか、それは今朝の聖書と結びつけて言えば、私たちがキリストによる恵みを受ける秤を無くさないようにするためだといえます。

免罪符の決定的な害悪は、悔改めを必要としないということでした。そのように悔改めを必要としないと考えたり、実際に悔い改めをしなくなるということは、キリストによる恵みを受ける「秤」を失うことなのです。また、こうも言いえるでしょう。免罪符という秤では、キリストによる恵みを量ることも汲みとることも全くできないのです。「持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまう……」とは、キリストによる恵みを神さまに取り上げられてしまうということではなく、免罪符のような秤に頼っていたのでは、せっかく受けたキリストによる恵みを見失ってしまうということです。

免罪符ではなく、一人一人の悔い改めがキリストによる恵みを汲み取ることのできる秤となるのです。そしてこの悔い改めもまた御言葉の聞くことで行えるようになるのです。御言葉の光りは、私たちに自分の罪を気づかせてくれるからです。そして罪を赦し、私たちを立ち直らせてくださる十字架にかかられたキリストを見上げように御言葉の光りは私たちを導きます。

 

 このあと聖歌「キリストには代えられません」を歌います。この歌は「世の楽しみよ、去れ」と繰り返し歌うところがあり、それを嫌う人もいます。しかし、この歌が言わんとしていることは、キリストによる恵みと世の楽しみは、二つ並べて比べられるようなものではないということでしょう。キリストの恵みを量る秤で、世の楽しみを量ることはできないし、世の楽しみを量る秤ではキリストによる恵みを量ることはできないのです。

 「キリストには代えられません」とうたうことは、キリストの恵みを量る秤をなくさないようにすること、ましてや捨てたりしないで持ち続けるということ。そしてその秤を大きくして行くことです。

今、悲しんでいるあの人のためにも、キリストの恵みを分けてあげられるように。

今、病床に横たわっているあの人のために、キリストの恵みを今は私が代わりに受け取っておけるように。そしてそれを持ち運んであげられるように。

そのために、私たちに与えられている秤は大きくすることができるのです。

 

                                  (2022年1月2日公現主日礼拝)

カテゴリー: Uncategorized パーマリンク