ルカによる福音書第2章1~20

ルカの福音書第2章1~20節

「救い主の誕生」

 

「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」

この天使の告げた言葉を聴いた羊飼いたちは、互いに語り合って言いました。

「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私したちに知らせくださったこの出来事を見届けてこよう」

そうして羊飼いたちはベツレヘムの町へ出掛けてゆきました。羊はどうしたのでしょう。何十匹ものの羊を引き連れて町の中に入ってゆくことはできません。おそらく、野原に残したままにしておいたのです。何人かの見張り役が羊たちと一緒に残されていたのかどうか、聖書は何も記していません。とにかく羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムに行こう。そしてその出来事を見てこよう」と言って野原を出発したのです。羊を残してよそに出かけてしまうなんて、この時の羊飼いの行動は普通ではあまり考えられないことです。

 

いったい何が羊飼いたちをそれほどまでに掻きたてたのでしょうか。この羊飼いたちは決して野次馬根性の強い人たちの集まりではありませんでした。ものめずらしい話に興味を持ったというのではありません。天使の告げた「救い主」という言葉が、羊飼いたちの心を完全に捕らえきっていました。羊飼いたちは、心のそこから救い主を求めていたからです。

 

21世紀のこの国に生きている私たちの心は、「救い主」という言葉を聞いて、どれだけ心躍るでしょうか。小さな子どもがお母さんに連れられてスーパーに買い物に出掛けたときのことを想像してみて下さい。お店の中を歩いていると、突然、ソフトクリームの看板が目の前に見えます。すると、小さな子どもの心は躍りだします。もう心の中はソフトクリームのことでいっぱいになってしまいます。そしてお母さんがソフトクリームを買ってくれるまでは、その心が解放されることはないほどです。羊飼いたちが天使から「救い主」という言葉を聴いたとき、羊飼いたちの心は救い主のことでいっぱいになってしまったのです。

 

ところで、今、救い主という言葉を聞いている私たちの心はどうでしょうか。「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」というこの言葉に私たちの心がどう反応しているでしょうか。この天使の言葉よりも、色とりどりに輝くイリュミネーションを見たときの方が私たちの心は反応するのでしょうか。

 

 今はめっきり少なくなりましたが、昔はラジオを聴くときには、つまみを回して、電波が一番良く入ってくるところに周波数のダイヤルを合わせたものです。今の朝、私たちがこの礼拝の中でしたいことは、「救い主」というこの言葉に私たちの心のダイヤルを合わせることです。

 

救い主とは、別な言い方をすると「助け主」ということです。私たちは例外なく、誰もが助けを必要としています。それはどういう助けか。そのことを考えるために、外国の教会に伝わっている古い讃美歌の中の歌詞を紹介しましょう。

 

  私は裸で、地上に生まれてきた。私は、地べたに横たわった。

  私は、そこで私の最初の呼吸をする。

  また私は裸で、この地上を去ってゆく。

  私はいつ、影法師が消えてなくなるように地上を去るのか。

 

もし私たちが、自分の人生を生きてゆくうえで、自分自身を助けることができると考えているとすれば、それは何と本末転倒な考えをしていることでしょうか。私たちは生まれてくるとき、自分で自分を助けることはできませんでした。

 

当たり前のことですが、自分を守るためのものを何も身に着けることなく、ただ裸で生まれてきたのです。そして、死ぬときにも、私たちは裸で死んでゆく。いや、服を着ているから裸ではないといえるかもしれません。しかし、この場合の裸とは、自分を助けるためのものを何も身に着けていないという意味での裸ということです。

 

そこから私たちは、救い主・助け主が与えてくれる助けとは、何であるかが分かり始めます。それは私たちのいのち、魂に関わる助けです。いのちに関わることが一たび大きな危険に晒されると私たちの心は、大地震のように揺れ動くことになります。もし、お医者さんから――あなたのいのちは、あと一ヶ月です……という余命宣告を受けてしまったなら、どうなるでしょう。その時、自分は平安でいられるだろうか……そんなことを考えてみるならば、自分がどんなに助けを必要としているか、そのことが分かり始めるのではないでしょうか。

 

 キリストは、馬小屋の中で、私どもと全く同じように、裸でお生まれになりました。そして、約30年間の地上の生活を生きた後、十字架に磔にされ、何の助けもなしに、裸で死んでゆかれました。一人の人間として裸で生まれ裸で死んでゆかれたのです。しかし、キリストは墓から甦られました。キリストは影法師が消えてなくなるように去って行かれたのではありません。神の栄光、永遠の命という衣を身にまとうようにして甦られたのです。

 

そのキリストが私たちを助けてくださる。その助けとは徹底的なものです。何かで気を紛らわすようなもの、ひと時のかりそめの助けではありませんし、ましてや誤魔化しでもありません。

 

裸である私どもを、裸のままに、そのままにしておかれることなく、キリストご自身が身にまとっておられる神の栄光、永遠の命という衣を私たちにも着せてくださるのです。ですから、私どもは裸のままで、寒い思いをしながら死ぬことはない。影法師が消えてなくなるようなことにはならないのです。救い主が、私どもを助けてくださるのです。

 

このことは、何も我々が最後を迎えるときだけの問題ではありません。若くして生きていても、自分の存在が影法師のように、不確かな、つかみどころがないもののように思えてしまうことがあります。自分は何のために生きているのか、これからどうやって生きてくのか。そのことに関して、自分に何も頼りになるものが見出せない。裸の自分に気がつくことがある。しかしそれは、決してみじめなことではありません。不幸なことでもありません。私どもの裸を覆ってくださる助け、それこそが救い主の助けだからです。

 

そういうことですから「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」 天から与えられているこの言葉と共に、今、もう一つの聖書の言葉をあわせて私どもは聴き取りたいと思います。それはヘブル人への手紙(第3章7~8節)に記されています「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」という言葉です。

 

今、私たちを取り巻く世界、世の中は心を頑なにさせることが何と多いことでしょう。そして、心を頑なにさせられてしまった人がなんと多いことでしょう。特に上から目線で語られた言葉に対して、今日の私たちは敏感に反応して心を頑なにさせやすいのではないでしょうか。

 

しかし、クリスマスの出来事に対して、私どもが心を頑なにする理由は全くないはずです。天からの言葉は、私たちに何かを命令しているでしょうか。ただ出来事を告げているだけです。「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」 この天使の言葉は、「用意良し!」という準備が完了したことを報せる伝令のようなものです。

 

――あなたがたのためにも!あなたのためにも! 救いの準備、助けを与えるための準備が完了したという喜びの報せ、クリスマスの福音を、この朝、感謝と喜びをもって受けとめようではありませんか。

「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」

 

  (2021年12月19日待降節礼拝)

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