ルカによる福音書第1章46~53

ルカの福音書第1章46~56節

「マリアの讃歌Ⅱ」

                                                        

今、お聴きしました聖書は、古くから『マリアの讃歌』と呼ばれてきました。このマリアの讃歌をこよなく愛した人に改革者ルターがいます。そのルターが書き残しているマリアの讃歌の解説書のなかでルターは、このマリアの讃歌にうたわれている内容というのは、実際に経験をしてみないと本当のところは理解できないだろうという意味のことを書いています。マリアの讃歌の特徴というのは一言でいうと〈苦しみや逆境の中で神を喜ぶ〉ものになっているといえます。この〈苦しみや逆境の中で神を喜ぶ〉ということは、いくら詳しい説明を聞いてもそれだけではわからない。どんなに理屈をこねても、それでは〈苦しみや逆境の中で神を喜ぶ〉ということは理解できない。実際に経験をしてみなければ理解できないという言い方は、聴き様によっては突き放すような言葉でもあります。しかし、ルターは、経験の浅い者を突き放し置いてきぼりをくわせるようなことを言っているわけではありません。私たちには、誰もがマリアとおなじ経験をすることができる。そしてそのための根拠が既に与えられているのです。

私たちがマリアと同じように〈苦しみや逆境の中で神を喜ぶ〉体験をすることができる、その根拠を今朝はご一緒に聴きとってまいりたく思います。

マリアは讃歌のなかで、「この卑しいはしために、目を留めてくださったからです」と、神が自分のことを心にかけて下さっていることを喜び歌っています。そして更に「今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう」とまで言えるほどに、マリアは自分の身に起こったことを喜んでいます。このようなマリアの大きな喜びは、自分のことだけを喜んでいるのではありません。ですからマリアはこのようにも歌っているのです。

「主は、あわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。

私の父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに」

 

 ここでマリアが喜んでいること、それは神がイスラエルに対するあわれみを忘れていないということです。

マリアの生きていた時代、イスラエルは国としての独立を失っており、ローマ帝国の支配下にありました。神を信じて生活しているユダヤ人の国であるイスラエルが、神を信じていないローマ人の国によって支配されている。そのことに屈辱を感じているユダヤ人も少なくありませんでした。

マリアの時代から約1000年前、イスラエルはダビデ王によって治められていました。その頃のイスラエルは、経済的にも軍事力の点でも大きな力をもった豊かな国でした。しかし、マリアの生きていた時代、イスラエルにかつての豊かさはなく、人々の生活も貧しいものでした。そのことを嘆く人々も少なくありませんでした。まだ十代(ヤコブの福音書によると12~13歳)であったマリアは、自分の周りにいる大人たちが、こんなふうに嘆きつぶやくのを耳にしてきたのではないかと思います。

――神を信じているのに、どうして私たちはこんなに貧しいのか……

――神を信じているのに、どうしてこんなに辛い思いをしなければならないのか……

 

 そのようなつぶやきを心を痛めながら聞いてきたかもしれませんマリアは、天使からの受胎告知のなかで大いなる福音を聞いたのです。

「その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」(32~33節)

この天使の携えてきた神の言葉をマリアは信じました。そして神がイスラエルを決して見捨ててはいないことを「主は、あわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました」と喜び歌ったのです。

神がイスラエルに対する「あわれみをお忘れずに……助けてくださる」ということは、私たちにとりましても紛れのない福音です。そのことはイスラエルの歴史をたどってゆくことによって明らかになります。そしてこの福音こそは、〈苦しみや逆境の中で神を喜ぶ〉体験をすることができる根拠となります。

旧約聖書に記されていますイスラエルの歴史というのは、美しい話ばかりではありません。むしろ、つまずきになるようなことが多いといえます。神によって選び召された民族イスラエルの歴史は、信仰的にみても私たちの模範になるような話よりも、真似をしてはいけない悪い事例となる話の方が多い。それほどにイスラエルの歴史は、神に対する不信仰と不従順の出来事が至るところにあります。そのようなイスラエルに対して、神が見切りをつけたとしてもおかしくない。私たちの感覚からすれば、――これではだめだ……もう面倒はみきれない……と、イスラエルを用いることを諦めてしまうところを、しかし神はイスラエルを見捨てなかった。ただ見捨てなかったというだけでなく、あくまでもイスラエルを世界に祝福を満たすために用いようと神はなさる。イスラエルを祝福の担い手として用いることを神は諦めてはおられないのです。ここに神のあわれみがどういうものであるかがよく表されているといえます。そのあらわれみをもって神は私たちをもあわれんでくださるいます。

 来年は、宇都宮共同教会の伝道開始60周年を少し遅れましたが感謝する行事を計画することを役員会で話し合いました。宇都宮共同教会に限られず、多くの教会の歴史を振り返るとき、そこに感謝と喜びの出来事を数えながら、また思い出すことが辛い出来事も数えなければならないことが多いものです。教会から何人もの人が去って言ったとか、牧師との関係がうまくいかなかったとか、ひどい場合には教会が分裂してしまうということから起こる。私という一人の信仰者の歴史をたどって見ても同じことです。神に助けていただいた、守っていただいたたという感謝と喜びの出来事を思い出すと共に、――あの頃の私はなんと愚かなことをしてしまっていたのだろう……と恥ずかしくなるような出来事がある。

 教会の歴史にしても、私たち一人ひとりの過去にしても、イスラエルの歴史と同じではないでしょうか。神がイスラエルに対して「あわれみを忘れずに……助けてくださる」ということは、神は宇都宮共同教会に対しても「あわれみを忘れにずに……助けてくださる」ということです。神は、いろいろな恥ずかしい過去を持っている私たち一人一人に対しても「あわれみを忘れずに……助けてくださる」のです。

さきほどから「あわれみ」という言葉を繰り返し申し上げていますが、日本語のあわれみという言葉は、残念ながらマリアが歌っている神のあわれみという事の意味を、正しく表すものになっていません。そこで、重要になってくるのは55節に記されている「語られたとおり」という言葉です。神は、イスラエルの先祖に語られた通りに、慈しみを忘れることなくイスラエルを助けて下さったのです。つまり神は、語られた通りに「約束」を果たして下さったということです。神の「あわれみ」「約束」と深く結び付いているのです。一時だけ気まぐれであわれみ深いというのではありません。機嫌がよいときだけあわれんでくださるということではないのです。神のあわれみは約束を忘れないということ。つまり神は契約を忘れていないということです。55節の「私たちの父祖に語られた」こととは、創世記第12章3節に記されている「地のすべての部族はあなたによって祝福される」と神がアブラハム(当時はアブラム)との間に結ばれた契約のことです。この契約は、イスラエルの不信仰にもかかわらず何度も更新されてきました。そして、イエス・キリストがお生まれになってからは、キリストご自身がこの契約のしるしになってくださったのです。

マリアの讃歌を口ずさみながら、神が私たちに対するあわれみを忘れてはおられないということを、私たち自身が忘れることのないようにしたいと思います。そして神があわれみを決してお忘れにならないということを根拠に、お互いに励ましあいたいと思います。         (2021年12月19日待降節礼拝)

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