ルカによる福音書第1章39~56節

ルカの福音書第1章39~56節

「マリアの讃歌Ⅰ」

                                                        

今お聴きしました聖書には、実に生き生きとした喜びに満たされた二人が登場して来ています。エリサベツとマリアです。愉快なことに、このときエリサベツの胎内にある子どもまでもがマリアの挨拶の声を聞いて踊ったと聖書は記しています。この二人の女性たちはなぜ、これほどに喜びに満たされていたのでしょう。

女性として、子どもを産む喜びがやはり大きかったのでしょうか。そんな単純なことではなかっただろうと思います。この二人にとって、自分たちの妊娠は不可解以外の何ものでもありませんでした。エリサベツは高齢者として身ごもり、マリアは処女として身ごもったのですから。しかし、その身ごもりが神による約束であることを信じた。そのことが二人を不可解な妊娠の悩みから解き放ったのでした。手短に申しあげるならば、二人は信仰によって喜びに満たされたのです。

 

エリサベツが身ごもっている子、マリアが身ごもっている子、この二人の胎児について神が抱いていた計画、これは世界を変えるほどの大きな計画です。そして、事実、この二人の子ども、つまり洗礼者ヨハネとイエスが誕生した時から、世界は新しい歴史を刻み始めました。それほどに大きな神の計画を秘めた子どもを宿している二人の女性が、体を摺り寄せるようにして喜び合っているのです。

しかしです。こうも言いうるのです。二人が喜び合っている時、確かに世界が変わろうとしている。しかし、実際には、目に見えるところの世界は何も変わっていません。相変わらずの貧しさがあります。憎しみ合い、争いがあります。エリサベツとマリアの喜びなど消し飛んでしまうほどに世界を覆っている貧しさ、憎しみ合いは、深く大きいのです。

しかし、それにも関わらず、私たちはエリサベツとマリアの喜びに注目したいのです。なぜなら、二人の喜びは、徹頭徹尾、これは人間がつくり出したものはなく神がお与えになっている喜びだからです。 

 

そして、この点が私たちにとって重要なのですが、このエリサベツとマリアの喜びの姿、これは教会の姿を表わすものになっているということです。

私たちは今朝も、クリスマスの祝いに備えて待降節の礼拝をしています。讃美と祈りとをもって、神を喜ぶ十数名の集いが今ここにあります。しかし、そのことが、この地域に何の影響力を持っているのか。目に見えるところで言うならば、何の力も持っていない。そう言わざるを得ません。

宇都宮市には、絵を描いたり、詩を詠んだりといったいろいろな文芸のサークル団体があることでしょう。もしかすると、そういう団体よりも教会の集まりは小さく、街の人からも知られていないことでしょう。

しかしです。この礼拝で与えられる喜びは、さまざまな趣味やサークルの集まりで得られる、楽しさや面白さ、充実感とは決定的なところで違うのです。それは、教会の集りをつくっている礼拝による喜びは、人間がつくり出す喜びとか充実感とは違う、それは神によって与えられる喜びであり、充実感であるということです。エリサベツとマリアに喜びをお与えになったお方は、また私たちの礼拝においても、喜びを与えて下さっているのです。

 

ならば、その喜びとはどのようなものであったのか。まさにそのことを、マリアは一つの讃美歌をうたうことで表わしています。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」

「神をたたえる」と聖書が翻訳している「たたえる」という言葉の原文は「喜ぶ」という言葉です。ですから神をたたえるということは神を喜ぶということでもある。その神を喜ぶということこそがマリアたちの喜びの中心にあったものでありました。この神を喜ぶということは、もしかすると今、私たちが最も必要としていることかもしれません。

これからますます寒さの厳しい季節を迎えます。この厳しい寒さは、肉体に大きな負担となります。そのような寒さが身に堪えると苦労されている人は少なくないと思います。今も、病床の中で厳しい闘いをしておられる方々がいます。コロナ禍のためお見舞いに行くことも自由にできません。入院をしているご本人にとってもご家族にとっても辛いことです。そうした厳しい現実を前にしながら、クリスチャンは慰めの担い手となって、気落ちしている人、不安を抱いている人の傍らに立ちます。そのために最も大切なことは何かといえば、神を喜ぶことに尽きるといってもよいと思うのです。そのことをネヘミヤ記はこう記しています。

「主を喜ぶことは、あなたがたの力(の源)だからです」(第8章10節)

 

寒さの中で生きて行くために、試練の中で生きて行くために、私たちは神からの力を必要としています。

その力を得て行く一つの方法は神を喜ぶこと。この旧約聖書の言葉を信じたいと思います。そして、この朝、私たちはこのマリアの讃美歌に導かれるようにして、神をたたえ喜ぶ心を、今ここで整えさせていただきたく思うのです。

※加藤師の話し…寒い台所に立ちながら、風呂の準備をしながら讃美歌をうたっていた母の姿。近頃は、日常生活の中で讃美歌がうたわれることが少なくなった。

 

さて、神をたたえ喜ぶ根拠をマリアははっきりと次のように歌っています。

「この卑しいはしために、目を留めてくださったからです」

「卑しい女」という言葉をルターは「とるに足らない者」あるいは「無に等しい者」と翻訳しました。そして神は見栄えのしないものを心にとめられる。顧みられるということをルターは強調しています。

見栄えのしない、無に等しい者に目を留めるということは、私たちの間ではどれだけそうなっているでしょうか。おそらくほとんどそうなってはいないのではないかと思います。私たちが目を留めるのは、偉い人、力のある人、能力のある人。見栄えのする人ということになりやすいからです。ですから何か手柄を立て人がいたりすると自分と比較して自分も負けていられないと考える。無に等しい人間にさせられては困る。卑しい女、卑しい男にはなりたくないのです。

 

しかしマリアは自分自身のことを卑しい、無に等しい者と言う。ですから、マリアという人は本当に謙遜な人だと言われることがある。そしてこのマリアの謙遜に学ぶべきだというのです。しかしそうでしょうか。だいたい自分の努力で謙遜になろうとしても、なかなかそうはいかないものです。「わたしのような卑しい者に」と言っているその人に、「そうです。あなたのような卑しい者は」などと言ったりしたらたいへんなことになります。もうその人は教会へ来なくなってしまうでしょう。

 

「この卑しいはしために、目を留めてくださったからです」これはマリアの謙遜を表している言葉ではありません。最初に申しあげたとおり、これは神をたたえ喜ぶ根拠を述べている言葉なのです。

――卑しい、無に等しい私にさえ神は目を留めてくださった。

――神が私に目を留めてくださった。神が私を心にかけてくださった。神が私を顧みてくださった。

これこそがマリアが声を大にして歌っていることです。そして、こう言ってもよいでしょう。クリスマスの喜びとは結局なにか。それは、神が私に目を留めていてくださっているという事実を知る喜びであると。その喜びが、私たちに神をほめたたえさせるのです。そうなったとき、自分が他の人からどう評価されているかといったことは大した問題ではなくなるはずです。

 

 今、申しあげたことを、印象に残る言葉で表現してくれている人がいます。その人とはドイツの首相でありますメルケルさんです。このメルケルさんの言葉を金曜日の朝日新聞が紹介している記事がありました。

 

 謙虚とは無気力の謂いではなく、無限を知ったことから生まれるポジティブで、

希望に溢れて生を形成することです。

 

 「謙虚」とは、控えめでつつましいこと。へりくだっていることといった意味です。控えめでつつましいということは、自分から何かをするということを控えて、相手のすることを静かに受け入れるという面があるでしょう。ですから、謙虚になるということは、自分が前に出ないこと、出しゃばらないことと私たちは考えることがあるかもしれません。しかし、そういうことが謙虚になることの本当の意味ではないとメルケルさんは言っています。そして本当の意味での謙虚とは「無限を知ることから生まれるポジティブ」だと言うのです。

この無限ということを神と言い換えても良いでしょうし、おそらくメルケルさんもそういう意味で語っていると思います。神を知ることでポジティブな心が生まれてくる。神を知ることで積極的に、前向きに生きる希望が溢れてくるというのです。

マリアが喜びほめたたえながらうたっている神、取るに足りない、いやしいものにも目をとめてくださる神、この神を知ることで私たちは、厳しさの中でも、試練の中でも、ポジティブに生きる希望を受けとめなおすことができるのです。

 

(2021年12月5日 待降節主日)

 

 

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