ルカによる福音書第1章26~38節

ルカの福音書第1章26~38節

「クリスマスの予告―受胎告知―」

ガブリエルという名前の天使がマリアに現れて言いました。

「おめでどう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」

私たちは天使と聞くと、羽の生えている光り輝く人の姿を思い浮かべますが、この時のマリアは、自分に語りかけてきた相手が天使であることを分っていたのでしょうか。おそらくマリアは自分に語りかけている相手が天使であるとは知らなかったのではないかと思います。ですから聖書には、マリアが天使の姿を見て驚いたというようなことは何一つ記されていません。聖書が記していることは、「マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」ということです。

女性の皆さんには失礼な話ですが、この当時、女性に挨拶をするという事自体が珍しいことであり、特に未婚の女性に挨拶をするというようなことはなかったようです。女性は挨拶を受けるに値しないという、誤った考え方が普通だったからです。ですからマリアは、天使が自分に挨拶をしてきたとき、なんだろうと思ったでしょうし、その挨拶の内容がまた異様でした。

これは、単なる挨拶ではありません。一つの通知です。例えば、資格試験や入学試験に合格をすると『おめでとうございます。あなたは○○試験に合格しました』という合格通知が届きます。天使がマリアに語っていることも、これと同じです。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」

天使は更に「恐れることはありません、マリヤ」と呼びかけながら、4つのことを告げました。

第一に、マリアは神から恵みを受けているということ。

第二に、マリアは身ごもって、男の子を産むことになるということ。

第三に、その子にイエスという名前をつけるべきこと。

第四に、生まれてくる子はいと高き方の子、すなわち神の子と呼ばれ、世界を支配する王となり、その支配に終わりはないということ。

 これを聞いてマリアはすっかり驚いて、あるいは呆れて言いました。

「どうしてそのようなことが起るのでしょう」

そう言いながらマリアが天使の言ったことを否定しているのには、自分がまだ結婚をしていないのに子どもが生まれるはずがないではないか、ということも勿論含まれています。ですから「私は男の人を知りませんのに――私にはまだ夫がありませんのに――」と言ったのです。しかし、それだけではありません。自分のお腹から生まれてくる子が神の子と呼ばれ、世界を支配する王になる、そんなことがどうしてありえようか、それこそがマリヤの抱いた疑問でした。「どうしてそのようなことが起るのでしょう!」 このマリアの言葉は、クリスマスについて多くの人々が抱く疑問を言いあらわすものともなっています。それは、こういうことです。例えば私たちが誰かにクリスマスについてこう語ってあげたとします。

――もうしばらくすると12月25日、クリスマスを迎えますね。ところで、クリスマスとは、キリストの誕生を神に感謝するお祝いです。クリスマスにお生まれになったキリストは、私たちの救い主として、あなたのための救い主として生まれ下さったからです……と語ってあげたときに、それを聴いた人が皆――それならばそのキリストを信じよう、ということにはならないでしょう。むしろ「どうしてそのようなことが起るのでしょう!」と思う人が多い。それが実情です。

 待降節というのは、私たちの生きている世界の闇、人間の闇の現実をしっかりと見据える期間でもあります。その闇の世界にキリストは光りとして来てくださいました。だから先ず、闇の現実をしっかりと直視しようというのです。このような待降節の過ごし方の伝統が生きている教会では、この時期、きらびやかな飾りは一切しません。アドベント・クランツと呼ばれる蝋燭だけを飾ります。

 また、待降節に行う子どもの行事にアドべント・クッキー作りというのがあります。このアドベント・クッキーは、砂糖を入れないで固く焼く、しかもわざと焦がして、食べると苦い味がするように焼きます。なぜ、そんな固く苦いクッキーを作るのか。苦いクッキーの味わいから、世界の闇の現実を思うためです。

 この一年を振り返ってみただけでも、厳しい出来事、また悲しい出来事がこの国に、この世界に起り続けました。自分の身近なところだけを振り返ってみても、甘い香りの良いクッキーを味わうようなことよりも、苦い固いクッキーを噛むような辛い、厳しい出来事が幾つも思い起される。そのような闇の世界に、キリストが世界を支配する王としてご降誕くださったはずです。そのことを知っていても、自分の目の前にある辛い厳しい現実の故に、王であるキリストが私たちを闇の支配から救ってくださるということに対しても、心のどこかで「どうしてそのようなことが起るのでしょう」という不信仰をいだいてしまいかねない弱さが私たちにもあるのではないでしょうか。その意味で待降節は、不信仰という闇を痛切に覚えるときでもある。浮ついた気持ちでいられるようなときではないのです。

 そのような不信仰を悔い改めるためにも、天使がマリアに語った次の言葉を、私たちは自分の心に改めて刻みたいと思うのです。天使はマリアはこう言ったのです。「神にとって不可能なことは何もありません」

この言葉について、多くの書物が指摘しているのは、原文のギリシャ語はもう少しちがった言葉で、直訳風に訳すと「神においては、その語られた言葉が、不可能ということにはならない」となる。つまり神が約束なさったことは、必ず神が成し遂げるということです。その意味で神には何でもできないことはありません、と言える。神さまは全能だから、何でもできるということを単純に言っているのではありません。神の言葉の約束は、必ず実現するということです。ここでマリアが聴いた神の言葉による約束とは、聖霊によってマリア自身が神の子を産むということでありました。

 

これに対してマリアは応えて言いました。

「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」

天使が現れたという事。処女であるマリヤが子どもを産むという事。こうしたことは普通に考えるならば、信じがたいこと。常識からすれば考えられない不思議なことです。しかし、それ以上に不思議なことは、この天使の言葉をマリアが「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と受け入れたことです。それは奇跡と言っても過言ではありません。

この時マリアは、ヨセフと婚約をしていました。もうじき愛する人と一緒になれる。婚約の期間というのは、結婚したらこうしたい、ああしようと、心を浮き浮きさせながら結婚してからの生活のことを計画するものです。マリアも、ヨセフと一緒に暮らす生活の計画を立てていたことでしょう。そこに、いわば神が入り込んできた。そして、いきなり神の計画を告げられた。もし、私たちがマリアの立場に立たされたら、おそらく100人中99人までもがこう天使に反論したに違いありません。――いくら神さまでも、急に、そんなことをおっしゃられては困ります。私にはもう予定があるのです。だれか、他の人に当ってください……

しかし、マリアは言ったのでした。「あなたのおことばどおり、この身になりますように」

このようにマリアが「あなたのおことばどおりに」と神に従うことができたのはマリア自身の謙遜によるものだと考えてしまうならば、マリアを誤解したことになります。それではどうしてマリアは「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言うことができたのか。それを知るために、天使の挨拶の言葉をもう一度、思い起してみましょう。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます…。恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」

天使がはっきりと言っていますようにマリアは神からの恵みを受けていました。その恵みによってマリアは自分のことを「私は主のはしため」と呼ぶことができましたし「おことばどおり、この身になりますように」と言うことができたのです。こう申し上げたからといって、マリアが操り人形のようになっていたというのではありません。もちろんマリア自身、信じて従おうという決断があったでしょう。その決断が実際にできるためには神の恵みが必要なのです。

もう一度申しあげます。マリアは「神から恵みをいただく」ことで「おことばどおり、この身になりますように」と神に従う決心をすることができました。そういうことでありますから、私たちもまた神からいただく恵みによって、マリアと同じ決心をすることができるのです。さまざまな闇の現実の中で、苦いクッキー噛むような辛さのなかで「おことばどおり、この身になりますように」と祈ることが待降節にふさわしい祈りとなります。この祈りを、神から恵みを受けていることを信じて、祈り続けてまいりたく思います。

(2021年11月28日 待降節主日)

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