マルコの福音書第3章13~19節

マルコの福音書第3章13~19節

「キリストによる任命」

 

キリストは伝道をなさるなかで、度々重い病に苦しむ人を癒されました。その病気の癒しは人々を驚かせるものでした。奇跡的な力によって病気がたちどころに癒される度に人々は喜びの声をあげ、歓声が沸き起こったことでしょう。そうした伝道には華やかさがあったともいえるかもしれません。しかし、キリストは癒しを求めて押し寄せてくる人々のすべてをお癒しになったわけではありません。

先週、読みました9節には、キリストが弟子たちに小舟を用意させたことが記されていました。小舟を用意させておいて、その準備が整う間、キリストは押し寄せてきていた人々の求めに応じて癒しをなさっていたのかもしれません。しかし小舟が用意されると、キリストはそれに乗って群集から逃れて行かれたのです。癒しを求めて待っていたのに、残されてしまった人々はどんな気持ちであったことでしょう。そのようなことを考えてみれば、キリストの伝道は決して華やかなことばかりではなかったと言えます。

こうして押し寄せる大勢の人々から逃れたキリストが、これからの伝道のためになされたことについて聖書はこう記しています。

「さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみ許に来た。イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた」

キリストが山に登ったということは、群集を避けるために人里離れた山に登られたとも考えられますが、同時に、山に登ることは神に近づくことを意味しています。このときキリストは父なる神の御前で12人を任命されたのです。

ところでなぜ、キリストは12人を選ばれたのか。日本人と違ってイスラエルの人々すなわちユダヤ人にとりましては12という数は特別な意味を持っていましたから、その数字を耳にしただけでピンと来るものであったにちがいありません。といいますのも、12という数はユダヤ人の先祖である12部族を思い出させるものであったからです。ユダヤ人は、自分たちは神によって選ばれた民族であることを誇りにしていました。その誇りを込めて、自分たちの民族をイスラエルと呼び、そのイスラエル民族は12の部族から構成されていたのです。

その12の部族の数に合わせるようにしてキリストは12人の使徒を任命されました。このことについて、古くからキリスト教会は特別な意味を見出してきました。その意味とは、ここでキリストは新しいイスラエルをおつくりになったというものです。興味深いことに14、16節に出てきている「任命」と訳されている言葉はもともと「つくる」という意味の言葉です。このことからも、キリストは12人の使徒を任命されることによって、新しいイスラエルをおつくりになったといえます。

このときにキリストがおつくりになった新しいイスラエルを今日に引き継いでいるのがキリスト教会です。ですから新しいイスラエルとは、他でもありません、私たちのことなのです。

 

さて、新しいイスラエルをつくるためにキリストは「ご自分が望む者たちを呼び寄せられた」と聖書には記されています。たくさんの人の中から、キリストが「この人だ」と思う人が呼び寄せられ、選ばれたのです。その時、キリストが「ご自分が望む者たちを呼び寄せられる」に当たっては、何か規準があったのでしょうか?

教会が新しいイスラエルであるということは、教会のかたちづくるクリスチャンである私たちもまた、キリストによって呼び寄せられ、選ばれた一人ひとりであるということができます。ならば、キリストが私たちを選ばれたときの規準はどういうものであったのか? 実は、そのような規準は見出すことはできないのです。

キリストが12人の使徒を選ばれた時、12人の一人一人には選ばれるに値する見所があったのかといえば

どうもそうではない。クリスチャンとして私たちを選んでくださったということも、私たちの側に選ばれるに相応しい理由があったということではありません。ですからキリストが「望んだ」ということの意味も、キリストが「あの人にしよう」と心にお留めになった、それだけの理由でしかないのです。

 

ユダヤ人は、自分たちは神によって選ばれた特別な民族・イスラエル民族という誇りを持っていましたが、そのイスラエルの選びということも、イスラエル民族が特別に優れた民族集団であったから選ばれたというのではないのです。申命記(7:6)には、神がイスラエルを選びになったことについて記されている。それによると、主なる神がイスラエルを選ばれたのは他の国民よりも優勢であったからではない。神はイスラエルのことを「あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった」とおっしゃっている。つまりイスラエルは勢力の劣っていた民族であった。その劣っているイスラエルを神は心に留め、世界中の民族を祝福するための祝福の担い手として選ばれたのです。

 

 キリストによって選ばれた12人も、選ばれるに足る特別な理由があったわけではありませんでした。そのことは、その12人の顔触れを見ても明らかといえるでしょう。ここで12人全員のプロフィールを紹介する時間はありませんが、特徴的なことだけ見てみましょう。

先ず12人のうち4人が漁師であったということがあげられます。後に弟子のリーダー格となるペテロはその4人の漁師のひとりでした。人を教えたり導いたりといった働きとは全く縁がないといってもよい漁師が12人のなかに4人もいたということは、それだけでも特徴的なことです。

また、面白いことにキリストは任命なさった12人の何人かにあだ名をつけておられます。良く知られている「ペテロ」という名前もこれは、本名ではなくあだ名です。ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネには「ボアネルゲ」すなわち「雷の子(たち)」というあだ名がつけられました。なぜ、雷の子なのか。はっきりした理由はわかりません。ヤコブとヨハネというこの二人は、カッーとなりやすい熱血漢であった。その二人の性格をごらんになって「雷の子」というあだ名がつけられたのではないかと昔から言われてきました。ありそうなことです。

熱血漢ということであれば、「熱心党のシモン」も熱血漢の最たる人であったといえます。この熱心党というのは、政治活動の熱心さの故にローマ政府に対して暴力に訴えることも辞さない、今日でいえば過激派のようなものです。12使徒の最後に出てくる「イスカリオテのユダ」も、ローマ政府に対して正義の怒りを感じていた熱血漢であったようです。「イスカリオテ」とは、刃物を持っている男という意味ですから、ユダはローマに抵抗するためならば懐から刃物をちらつかせる、これまた物騒な人物でありました。

そういう「イスカリオテのユダ」や「熱心党員シモン」のような人物がいる一方で「マタイ」のような人がいます。マタイは取税人であり、金儲けのためにローマ政府の手下になることもいとわなかった人です。

ローマ政府の手下になっていたマタイと、ローマ帝国に対していざとなれば暴力を持って抵抗することに闘志を燃やしていたイスカリオテのユダや熱心党員シモンとは、本来一緒にいることなど考えられない犬猿の仲、宿敵のようなものです。

そして忘れることのできないのは「イスカリオテのユダ」は後にキリストを敵の手に売り渡す裏切りをする人物であったということです。

 

こうして見ると、キリストが「ご自分が望む者たちを」お選びになった12人というのは――どうしてこんな人が選ばれたのか……と首を傾げたくなるような、まとまりのない、それどころが仲間割れを始めてもおかしくない人々の集まりであったことが分かります。

このことは、新しいイスラエルとしての教会についてもいえることです。教会もまた、いろいろな立場、身分、過去をもった者たちの集まりです。そのような者たちをキリストが呼び寄せ、お選びになっているからです。そのことを私たちは、きちんとわきまえたいと思う。であるから――私のような者は、教会に相応しくない、とか、――あのような人は、教会に来るような人ではない、などということは断じてないのです。政治的立場が全く逆の者がいます。事業を営む者がいれば労働者として雇われている者がいます。健康な者がいれば病弱な者もいます。そうした皆が、キリストによって選ばれてここに集められている。それが教会なのです。

  今、申し上げてきたようにキリストによって選ばれた12人の顔ぶれ、また教会に集う私たちの顔ぶれは、ばらばらといってよいほどに多彩ですが、キリストが12人を、そして私たちをお選びになった目的については、ばらばらということはありません。その目的がこう記されている。

 「彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教させ、彼らに悪霊を追い出す権威をもたせるためであった。」

 

ここには三つの目的が語られていますが、その中心になる最も重要な目的は、選ばれた12名の者たちを「ご自分のそばに置くため」です。キリストがクリスチャンである私たちを選ばれたのも、私たちを「ご自分のそばに置くため」なのです。ではどうして、キリストは12人を、そして私たちをご自分の側に置かれたのか。それは任命した者たちを用いるためです。何のためにか、それをキリストは「派遣して宣教させるため」とおっしゃいました。

伝道というと、私たちは人々を集めることを考えやすいのですが、キリストは伝道のためにと人集めはなさりません。人を集めるのではなくて、人々の中に私たちを派遣するのです。礼拝を終えると私たちは派遣されるのです。地域へ、家庭へ、職場へ、学び舎へと。礼拝を終えて、その週に入院される人がいたとすれば、その人は、病院へ派遣されるのです。

そして派遣されたところで神の愛を受けとめている者として生きる。キリストによる救いを身をもってあらわして行くのです。こうした伝道には華やかさはない、地道なものです。しかし、それが宣教の第一歩、しかもとても重要な第一歩となるのです。

 

さて、三つめの目的であります「悪霊を追い出す権能を持たせるため」とは、今日の私たちにとってはどういうことになるのでしょうか。

ある日本の牧師が難しい心の病をもっている教会員を助けようと思って「悪霊よ、出て行け」と叫んだら、病気がもっとひどくなったという話を読んだことがあります。また別の牧師が、やはり心の病んでいる人を癒そうと思って「悪霊、出て行け」と言い放ったところ、悪霊が出て行かないで、病をもったその人が教会から出ていったという話を聞いたこともあります。その一方で、私たちの教団のある牧師が、尋常でない様子で苦しんでいる人を前に「悪霊よ、出て行け」と命じたところ、その苦しんでいた人が救われたという話しも聞いたことがあります。

こうした、悪霊をめぐっての体験談というのは慎重に聴きとる必要があるし、体験談を語ることは更に慎重であるべきでしょう。というのは、悪霊の問題をオカルト的な、異常現象に限ったものとして考えることは、それこそ悪霊の思うつぼになりかねないからです。

 

では、この「悪霊を追い出す権能を持たせるため」ということをどう受けとめたらよいのか。そこで、あるスイスの牧師が述べていることが参考になると思われますので、それを紹介します。

その牧師は、悪霊を追い出せる力が自分にあるかどうか試してみようとは思わないと言っています。しかし、一方でこう言うのである。

――私はクリスチャンになり、また牧師になってからというもの、昔のように怒らなくなった。ここに悪霊が私に対して力をもたなくなったということを認めざるを得ない。

 

よく性格は変わらない、ということを耳にします。自分に改めるべき性格があったとします。例えば、

――すぐに腹を立てて、怒りをまき散らす。

――相手の小さな間違いを執拗に批判して攻撃する。

そういう性格をそのままにしていたのでは、どんなに神の愛を証ししようとしても、その証しは力を持たないものになってしまうでしょう。だから、自分のなかに改めるべき性格があるのなら、自分を変えて行く努力、自己改革を心がける。しかし、自分自身を改革することについては「性格は変わらないから」といって不熱心なことが多い。その不熱心を応援しているのは悪霊といえます。

神を信じる素晴らしさをどんなに語ったとしても、その人の怒りといった性格が伝道の言葉を台無しにしてしまうことはいくらでもある。悪霊は伝道を妨げるために私たちの性格を最大限に利用してくるのです。しかし、その悪魔の力が私たちに働かなくなるときがくるのです。

 

それは、どのようにして実現するのか。先ず、キリストが私たちをご自分のそばに置いていてくださる、ということを本気で信じることから始まります。そして、そのキリストにこうお願いするのです。

――主イエスよ、どうぞあなたが私を支配してください。悪霊ではなく、あなたこそが私を支配するお方です。そのように、私たちの心がキリストに集中し、そのキリストの支配が私たちに及ぶことによって、悪霊は力を振るうことができなくなってしまう。そうした意味では、自分自身のうちにある悪霊の支配力を追放するのです。そのための準備はもう既にできています!

 

私たちは、キリストを救い主として告白し、洗礼をうけました。

そうして神の子・主の弟子とされました。

こうして新しいイスラエルである教会に加えられたのです。

それ故に、皆さん一人ひとりを、キリストはご自身のそばに置いて下さっています。

あとは、私たちをみ側近くにおいてくださっているキリストと共に

悩んでいる人や悲しんでいる人に慰めを届け

悪霊の支配ではなくてキリストの支配を祈ってあげるのです。

このことのために、キリストは皆さんを選び、任命してくださったのです。

 

 

 

                         (2021年10月10日三位一体後主日礼拝)

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