マルコの福音書第3章1~6節

マルコの福音書第3章1~6節

「硬化しない、しなやかな信仰」

 

 マルコの福音書を礼拝で聞き続け第3章に入ります。今朝から新しい章に入るわけですが、実はマルコの福音書全体を見渡すとき、第1章から始まってこの第3章6節までが、この福音書の第一部となっています。ですから今朝、私たちはマルコの福音書の第一部の最後の箇所を聴き取ろうとしているわけです。その第一部の結びといってもよい6節はこう記しています。

「パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた」

 

キリストは、これまで人々に福音を語り聞かせ、その福音が真実であることを証しするために大勢の病人を癒してこられました。そのようなキリストがなさった伝道の第一ステージ・第一段階の結論は何であったか。――イエスの語る福音が人々の間に広まり、人々は喜んでイエスを信じて受け入れていった……と言うのでありません。そういうことではなくて「どうやってイエスを殺そうか」という相談が始まった、というのです。

神が遣わしてくださった御子キリストが、人々の救いのために伝道をお始めになったということは、本来、喜ばしいことのはずです。しかし、その伝道の結果について聖書が伝えているのは、キリストを喜び、キリストに感謝する声ではなく、キリストを如何に殺そうかと相談する声でありました。

さて、そのキリストを殺そうと相談し始めた人々について、聖書は二つのグループが一緒になったということを記しています。その二つのグループとはパリサイ人ヘロデ党の人々です。この二つのグループは、神を信じる民であるイスラエルに属するユダヤ人でありましたが、その信仰については際立った違いがありました。

パリサイ人は、神を信じるユダヤ人としての誇りを持ち、その信仰生活は真面目で熱心なものでした。聖書をよく学び、祈りの生活を大切にし、きよい生活を送るために律法を守る生活を重視してきた人たちでした。そのようなパリサイ人たちは、神を信じない人たちの国、すなわちローマ帝国の支配を受けることを良しとはせず、これを屈辱と感じていました。また、ユダヤ人としての誇りを主張するあまり、経済的には不利に立場に立つこともあり、どちらかといえば貧しい生活に甘んじていました。

一方ヘロデ党の人々は、ユダヤ人としての信仰生活を守ることよりも政治的な立場に心を配りました。そうして、自分たちの生活が豊かになるのであれば、神を信じていないローマ人たちに調子を合わせ、ローマ帝国の権力におもねることも良しとしていました。――信仰者としての誇りなど持っていても生活は豊かにならない。それよりも、ローマの権力に寄り添っていたほうが現実的だ……というようなヘロデ党の人々の考え方というのはパリサイ人と全く正反対でしたから、この二つのグループはもともと犬猿の仲であったのです。それにもかかわらず、パリサイ人は、何とかイエスを殺さなければならないという思いに駆られ、犬猿の仲であるヘロデ党の人たちに相談を持ちかけたのですから、パリサイ人たちのキリストに対する反感は並大抵のものではなかったことがわかります。パリサイ人をこれほどまでに駆り立てていたものは何であったのでしょう。

 

パリサイ人たちは、キリストの語る教えを聞きながら、特に安息日に関わるキリストの言葉を聞きながら、ある思いが募っていたと考えられます。パリサイ人たちはこう思っていたのである。

――このイエスの言っていることは、我々がこれまで聞いてきた教えとは違っている。我々はそんなふうには教えられてこなかった……このイエスの語る教えをこのまま放置していたのでは、ユダヤ人としての正統的な信仰は歪められてしまう。何とかしなければ…… こうしたパリサイ人の思いを殺意にまでエスカレートさせることになった決定的な事件が、安息日の会堂で起こりました。

 

その日、キリストが会堂に入られると、そこに「片手の萎えた」人が礼拝に来ていました。聖書に書かれていることではありませんが、古くからの言い伝えによると、この片手の萎えた人というのは建物を立てるときにレンガや石を積み上げる職人であったと考えられています。であれば、もともとは両手が自由に使えた人であったはずです。その人の片手が萎えてしまった。「萎える」ということは、生まれつきのものではなかったということ。ある時から、何らかの事情で、病気か怪我のために片手がきかなくなってしまった。

職人にとって、片手が使えないということは仕事ができなくなってしまったということ。そのために、この人はたいへん辛い厳しい生活を送っていたと思われます。

そのような人が礼拝をするために会堂に来ていたのです。そこへキリストが入ってこられた。会堂に集まっていた人々は、片手の萎えた人とキリストに注目しながら、こう思ったのでした。

――今日は安息日だ。もし、イエスがこの男の手を癒したら安息日の掟を破ることになる……。そのときはイエスを訴える口実ができる…… そのような企みの視線を人々はイエスに集中させていたのです。

 

  安息日に病気を癒すことがなぜ訴える口実になるのか。それにはこういう理由がありました。安息日の掟とは、本来至って単純なもので、仕事をしてはならないというものです。但し、その掟を厳格に守るために、もともとはなかった細かい規定がたくさんつくられていました。その細かい規定の一つ一つも安息日の掟として守るべきものとされていました。

今回問題になっている、病人の癒しに関しては、命に関わる病気や怪我については安息日であっても治療をして良いという例外規定がありました。しかし、それはあくまでも例外であって、命に別状がない病気や怪我は安息日には治療をしてはならない。そして治療は安息日の終った翌日にしなければなりませんでした。

こういうことは、医者にもきちんと休みをとれるようにしてあげなければならないという理由があるわけです。その点は私たちにも納得できることでしょう。しかし、こういう規定もあるのです。

もし壁が崩れてきて壁の下敷きになってしまった人がいた場合、その人が生きているかどうかを確認するための範囲内で壁を取り除き、もしその人が生きていれば助け出すことは安息日であってもしてよい。しかし、助け出された人が骨折などの怪我をしていたとしても、命に関わる怪我ではないなら手当てをしてはならない。本人がどんなに痛みを訴えていても命に関わらない怪我である以上、治療はしてはならないのです。

あるいは、不幸にも壁の下敷きになって死んでしまった人が見つかった場合、遺体はそのままにしておいて、遺体の収容は安息日が終った翌日にしなければならない。

こうした掟の厳格さは人間性を無視したものと言わざるを得ません。しかし、当時のユダヤ人の信仰においては、このことを守っているかどうかが正統的な信仰に生きているかどうかの基準になっていたのです。

パリサイ人は、この安息日の基準によってイエスを裁く口実を得ようと、獲物を狙う狼のようにキリストをうかがっていました。この企みに満ちた視線を感じとっておられたキリストは、逆に人々の視線をご自分に釘付けにするかのように、片手の萎えた人に言いました。「真ん中に立ちなさい」

片手のなえた人は、会堂の隅のほうにいたのでしょう。大きな病気や怪我は、神の祝福から取り残されていることの表れというふうに当時の人々は考えていましたから、手のなえた人も、そのことに引け目を感じて会堂の隅の方に座っていたのかもしれません。その人を会堂の真ん中に立たせ、キリストは、人々の注目を受けとめながらこう問いかけられました。

「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか。それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか。それとも殺すことですか」

この質問は、頭を抱え込んでしまうような難しいものではありません。人間としての心があれば、はっきりと答えることのできるものです。しかし、このキリストの問いかけに対して人々は黙っていた。安息日に善を行い、命を救うことが律法にかなっている、と答えるなら、安息日に片手の萎えた人を癒すことは律法にかなうことになる。そのことを人々は認めたくなかった。だから答えない。黙っていたのです。

そのような人々をキリストは怒りと悲しみのまなざしで見回し、手のなえた人に「手を伸ばしなさい」と言われました。そして癒しを断行なさいました。

 

この時、人々が沈黙していたことがキリストを怒らせたことを聖書ははっきりと記しています。なぜ、人々が黙っていることがキリストを怒らせたのか。黙っている人々の心が頑なであったからです。この「頑な」という言葉は、化石のようになってしまった状態を意味しています。

キリストの問いかけに対して黙って答えようとしなかった人々の心は、やわらかさを完全に失ってしまって化石のように固まってしまっていた。そのことをキリストは嘆き悲しまれ、その悲しみには怒りをも含んでいたのです。

ただここで勘違いをしないように気をつけたいのは、このキリストの怒りは、問いかけているのに返事をしようとしない人々の態度に腹を立てているという怒りではありません。そうではなくて、人々の心をこれほどまでに頑なにさせてしまう、杓子定規に凝り固まってしまった信仰、掟を守ることだけを重んじる信仰に対する怒りといっても良いものです。

本来、神を信じる信仰は、私たちの心をやわらかくするものです。

    神を信じる信仰は、隣人を憐れむことができる心、相手を赦し、受け入れる、しなやかなもの。

神を信じる信仰は、我々の心を新しい革袋としてくれるものです。

 

あるクリニックの待合室に置かれていた健康のことを扱った雑誌を読んでいたときのことです。その雑誌に心筋梗塞についてのこんな漫画が載っていました。

ひとりの女優が、素肌美人をアピールして、健康食品会社のイメージ・キャラクターに応募した。この女優はダイエットをしたり、素肌を若返らせるためのクリームを塗ったりして、実際の年齢を疑わせるほどに若々しく見えた。しかし、健康食品会社のイメージ・キャラクターには選ばれなかった。選ばれたのは、その女優よりも、はるかに年上の、おばあさんだった。なぜ、おばあさんが選ばれたのか。おばあさんの血管は、実年齢よりもずっと若々しいしなやかな血管であったのに対して、女優の血管は、弾力のない固く、脆い状態であった。この現実に驚いたこの女優は、あらためて、若々しく自分を保つとはどういうことかということを考え直すという内容。

血管を健康的に保つ方法については、ここで私が語る事柄ではありません。しかし、この話をしたのは、私たちの信仰が化石のように固まってしまわないで、やわらかであるようにすることが、私たちの日常生活にとって、心の健康にとってどんなに必要なことであるかということを受けとめたかったからである。

ならば、信仰の心が固く化石のようにならないで、やわらかなしなやかさを持つためどうしたらよいのか。そこでひとつの旧約聖書の言葉を、預言者エゼキエルが神の言葉として語った聖句を覚えたい。

わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。

わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。(エゼ11:19)

 

預言者エゼキエルは私たちに――あなたがたは、〇〇をしなさい……ということは言っていません。そういうことではなくて、神ご自身がなさろうとしていることを語っている。それによると、

神は、私たちに一つの心、聖霊を与えると言われます。そして、その聖霊のお働きによって、私たちの体に宿る石の心を取り除いて、肉の心を与えてくださるというのです。

ここでの肉の心とは、肉の思いとか肉欲とは関係ありません。新約聖書では「肉」という言葉はどちらかというと悪い意味を持つ言葉として用いられることが多いですが、ここで預言者が語っている肉の心とは、石の心に対する心、つまりやわらかな心のことです。そのような心を与えるために、神は私たちに新しい霊として聖霊を授けて下さる。この預言者の言葉は、自分の頑なな心をどうすることもできない私たちにとって大きな福音といえましょう。

 

キリストの十字架を仰ぐやわらかな心

御言葉を聞き、それを受けとめ、聞き従うやわらかな心

神によって与えられている救いを喜ぶやわらかな心

そして、他者の言葉や振る舞いに対しても、

忍耐と深くそれを受けとめてあげることのできるやわらかな心。

 

そうした心のやわらかさを保ち、また失われた柔らかさを回復させてくださるのも神の恵み、聖霊の恵みです。さてそれならば、私たちは自分の心がやわらかになるためには、聖霊に任せておけばよいのであって、自分では何も努力をしないでただそのまま生活していれば良いのでしょうか。

結論だけを申しあげましょう。聖霊の助けを求めることと、私たちが自分でも努力をするということは矛盾することではありません。私たちは自分の信仰が頑なになってしまわないように、しなやかさを保つために、取り戻すために、自分でも日々努力しながら、聖霊の助けを待つのです。

 

その努力について、手短に申しあげて終わりましょう。

私たちは心が柔らかな時に口から出てくる言葉と、頑なになっているときに口から出てくる言葉とでは違うことをある程度自覚しているでしょう。

心と言葉は深く結びついています。世間では、失言をしてしまうと「心にもないことを言ってしまいました」と言い訳をしますが、キリストはそうは言いません。「心にあるものが口から出てくる」と言います。それほどに、心と言葉は結びついている。

頑なな心と結びついている言葉というものがあります。

やわらかな心の時に語ることのできる言葉というものがあります。

そういう言葉を一度、よく考えてみてください。

そして、自分の心が頑なになってしまっているときに口から出てきやすい言葉を、少しでもやわらかい言葉に語りなおすことができればと思います。そういう私たちの努力を顧みて下さる主が、なお豊かに聖霊の助けを与えて下さることを信じたいと思います。

 

 

 

            (2021年9月27日 三位一体後主日礼拝)

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