マルコの福音書第2章18~22節

マルコの福音書第2章18~22節

「キリストを喜ぶという新しさ」

 

 今、聴きました聖書の後半には、キリストによって二つの喩が語られていました。『新しい布切れと古い衣』そして『新しいぶどう酒と古い革袋』と呼ばれる喩です。このたいへん良く似ている二つの喩を語りながらキリストは何を示そうとされたのか。それを紐解いて受けとめてまいりたいと思います。そこでまず『新しい布切れと古い衣』の喩えについて見てまいります。

 

真新しい布切れがもっている特徴、それは何と言っても丈夫なこと。そして、洗濯をすると縮む力をもっています。一方古い衣は、何度も洗濯をしていますからもう縮むことはありませんが、布地が伸びきっていて破れやすくなっています。そういう古い衣の破れた部分に真新しい布切れを継ぎ当てすると、洗濯をしたときに真新しい布切れが縮んで、古い衣の古い布地を引っ張って引き裂いてしまう。そういうことをこの譬えは語っています。

次に『新しいぶどう酒と古い革袋』の喩えについて。新しいぶどう酒というのは、まだぶどう酒になりきっていない発酵中のぶどう酒のことを指しています。そのような新しいぶどう酒古い革袋に入れると発酵によって発生するガスが革袋を膨張させます。そのガスの圧力が高まってきたときに、古い革は弾力性がありませんから、圧力を持ちこたえられずしまいには破れてしまう。そうなると革袋は使えなくなり、新しいぶどう酒も破れた革袋から流れ出てしまい両方ともだめになってしまうという話しです。

 

こうして二つの喩を比べてみると、とてもよく似ていることがわかります。そして、この二つの譬えからは、格言としての教えを聞きとることができるのではないかと思います。こんなふうにです。

――古い衣、古い革袋というものが弱いように、古いものは弱さを持っている。その古いものを駄目にしてしまわないで活かせるように。そういうことをこの譬えは教えているのではないか……。そして古いものを駄目にしてしまわないために――新しいものと古いものとを無理に一緒すると、よい結果にはならないから、新しいものと古いものとは別々に分けた方がよい……。私たちの日常生活にも役に立ちそうな教えです。

 先週、教区信徒部の会議がありました。この信徒部というのは今年からできたもので、もともとあったシニア会(壮年・婦人会)とジュニア会(青年会)をひとつにまとめたものです。一つにまとめはしたのですが、

今でもシニア層とジュニア層とは別々に活動をすることが前提になっています。シニア層とジュニア層とでは一緒に活動することには無理があると考えるからです。無理にシニアとジュニアとを一緒にすると、両方とも、うまく活動ができなくなってしまうおそれがある。そういうことを考えますと『新しいぶどう酒と古い革袋』の喩えが言っている通りだと思う。        

しかしです! キリストが示そうとしておられることは、そういうことなのでしょうか? キリストは、

高齢者と若者とでは、考え方や生活の様子が違いすぎるから一緒に活動することには無理があるというようなことを、この譬えから示そうとしているのかといえば、それは違うといわなければなりません。 

この喩えの意味を汲み取るためには、キリストがどういう場面でこの譬えをお語りになったのか。その背景・経緯を見て行く必要があります。その経緯について聖書はこう記しています。

さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで人々はイエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」

ここに出てくるヨハネの弟子たち、パリサイ人たちは断食を大切に守っていました。食事を抜いて祈りに専念する断食は、信仰者の生活として大切なものとされていたからです。もともと掟では、断食は年に1回行えばよいということになっていましたが、パリサイ人たちは週2回の断食を行っていました。神に受け入れられるためには、安易な生活を貪っていてはいけないと考えたからです。――私は空腹を我慢して、苦しみに耐えながらお祈りをした。これだけお祈りをしたのだから、神さまは私を受け入れてくださるだろう……そんなふうに断食を行っていたのです。ところが、キリストの弟子たちは断食をしない。それどころか罪人と一緒に食事をする。その様子を見ていた人々はキリストに質問をせずにはおれなかったのです。

「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」

それに対してキリストの答えが19~20節に記されています。ここには三つのことが語られています。

   花婿が一緒にいるのに、断食できるだろうか。

  花婿が一緒にいる限り、断食はできない。

  花婿が取り去られる時は、断食することになる。

ユダヤ人の社会では、結婚の祝いはとても大切にされました。花婿花嫁のためにお祝いをすることは何にも増して優先された。その時は、聖書の学びも休むことも認められていました。特に花婿の友人は、結婚した二人のために率先して喜ぶ。喜びの導き手となる。そういうことをよく知っている人たちにキリストは花婿を引き合いに出して答えをお語りになっているのです。その答えとは、こういうことです。

花婿が一緒にいるときとは、喜びのときを表しています。 花婿とは、神の国をもたらす救い主のこと、つまりキリストご自身のことを指しています。そのキリストが今まさに一緒にいる。花婿としてのキリストが一緒にいる時、それは喜びの時です。それなのに、苦しみの中に留まる断食ができるだろうか。喜びの時に断食していてよいのだろうか。花婿が目の前にいるのに、そこで断食をして苦しみを表すことはおかしなことではないか。そんなことは花婿に失礼なこととして出来ないのではないか。断食は一切する必要がないというわけではない。断食をすることがふさわしい時がある。それは花婿としての救い主がいなくなってしまう時。救い主を見出すことができなくなってしまう時。そうなったら喜んではいられない。そのときこそは断食をしてもおかしくない。これがキリストの答えなのです。

 このようなキリストの答えからは、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちの信仰生活とキリストの弟子たちの信仰生活の違いが浮かびあがってきます。ヨハネの弟子たち、パリサイ人たちは、信仰生活というのは苦しみが伴うことに価値があると考えていました。楽をしていたのでは駄目なのです。――私はこれだけ苦しい思いをして断食をしている。信仰者としての生活を守るために苦しみに耐えている…… そう思いながら断食をしているときにヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは、信仰に生きているという実感を覚えていたのでしょう。

一方、キリストの弟子たちは、信仰生活のどこに価値を見出していたかといえば、それはキリストと一緒にいることのできる喜びでした。――今、こうして私はイエスさまと一緒にいることがゆるされている。ああ、なんと幸いなことだろう……というその喜びを信仰生活の中心に置いていたといえます。

マルティン・ルターのこんな逸話があります。ルターがある事で落ち込んで、気分が滅入ってしまっていたときのことです。その様子を見ていた奥さんのカタリーナが、これみよがしに喪服を着てルターの周りを行ったり来たりして歩いた。それに気がついたルターは「おや、誰かが亡くなったのかね」と尋ねると、カタリーナはこう答えた。「ええ、あなたの一番大切な方がなくなったのではないですか。あなたが、そんなに落ち込んでいるは、キリストがお亡くなりになったからではありませんか。」 それをきいてルターは、はっと気がついた。

――そうだ、キリストは生きておられる。そして今も、私と一緒にいてくださっているではないか!そうしてルターは立ち直った。花婿が一緒にいるときに何をすべきかを再確認したのです。問題が解決されたから立ち直ったのではない。キリストが一緒にいて下さるから立ち直ったのです。このキリストが一緒にいて下さることを信じて、それを喜びとする。これこそは、キリストの弟子たちに与えられていた信仰における新しさなのです。弟子たちはこの新しさに生きていた。一方、ヨハネの弟子たち、パリサイ人たちはこの新しさを見出してはいなかったのです。

 キリストが一緒にいてくださることを喜ぶことが、私たちに与えられている信仰の新しさであるということを受けとめるとき、二つの喩えを通してキリストが何を伝えようとしておられるのかも見えてくるようになります。

それは古いものも大切にということではない。古いものと新しいものを一緒してしならないということでもありません。新しいものをしっかりと受け入れられるように、ということです。キリストはこうおっしゃっているといってもよいでしょう。

――あなたがたは、新しい布切れを継ぎ当てしてもよい新しい服として生きなさい。

新しいぶどう酒を入れることのできる、新しい革袋となりなさい。

 

キリストこそは新しい布切れであり、新しいぶどう酒なのです。そのキリストが一緒にいて下さることを何にも増して尊い喜びとして受けとめることができるようになるためには、私たち自身が新しい服、新しい革袋である必要があります。そのために、幾つかのことを覚えたいと思います。

その一つは、断食にこだわったヨハネの弟子たちやパリサイ人のようにならないということ。それは言い換えると「神を信じる人は○○しなければならない」という思い込み、「クリスチャンならば○○するはずだ」という決めつけをしないということです。

 

「神を信じる人は○○しなければならない」「クリスチャンならば○○するはずだ」という考え方というのは、これも一つの古い革袋といえます。そういう古い革袋では、キリストが一緒にいて下さるという喜びは受けとめられないのです。私がもし皆さんに――皆さんは洗礼を受けてクリスチャンになっているのですから、しっかりと祈りの生活をしてください。祈らなかったら祝福はありませんよ……という勧めをしたとしたら、これは全く間違ったことを言っているわけではないのですが、古い革袋になることについての勧めを語っていることになってしまいかねません。ならば、どういうふうに勧めを語れば、新しい革袋になることへの勧めとなるのか。例えばこんなふうにです。

 ――キリストは、私たちが眠っている時にも目覚めている時にも一緒にいて下さいます。私たちが熱心に祈っている時にも、祈れなくなっている時にも、また祈りを後回しにしているときでさえ一緒にいて下さいます。一緒にいて、私たちの救い主であり続けて下さいます。ありがたいことです。そのありがたさを喜ぼうではありませんか。その喜びを汲み取ることを私たちの信仰生活としようではありませんか!

 

こう申しあげながらも、わきまえておかなければならないことがあります。キリストが一緒にいてくださるという喜びは、押し売りはできないということです。

――イエスさまが共にいてくださっているのだから、その喜びによって私たちは奉仕しましょう……と言ってみても、それは喜びの押し売りにしかなりません。 

――私たちは○○しなければならない、という律法によって生きるのではありません。恵みによって生きるのです。恵みによって生きるクリスチャンになりましょう……ということばかりを繰り返していたら、それも恵みの押し売りのようになってしまうこともあるのです。  

新しい革袋・新しいぶどう酒であるキリストを喜ぶということ、キリストが一緒にいて下さるという恵みを喜ぶということは、人にそうせよと言われて喜べるものではありません。では、キリストを喜べないときはどうしたらよいのか。喜べるようになる時を静かに待つしかありません。ただ、そこで何もしないということではありません。

共にいてくださっているキリストを喜ぶ、その喜びが立ち直るように、回復することを願って礼拝をします。そこでキリストのみことばを聴くのです。日々の生活の中でもキリストのみ声を思い出します。礼拝で聴いたみ言葉を何度も思い起こす。牛が食べた草を反芻するように、み言葉を反芻する。そうしながら新しい革袋としての姿勢をとり戻す。そこに、キリストが一緒にいて下さるという新しいぶどう酒としての喜びが、何度でも新しく注がれるのです。

 

            (2021年9月12日 三位一体後主日礼拝)

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