マルコの福音書第2章1~12節

マルコの福音書第2章1~12節

「罪赦の権威者キリストⅠ―身代わりの信仰―」

 今、ご一緒に聴いた聖書は、古くから教会において愛されてきました。この聖書の物語から、代々のクリスチャンは特別な慰めを汲み取ってきたといえます。

 前に、マルコの福音書というのは、どこを読んでも福音が聞こえてくる、それは丁度金太郎飴のようなものだ、ということを申しあげました。ですから今朝の聖書からも、もちろん福音が聞こえてきます。しかも、その福音は二重にも三重にも重ねられているといって良いほどに豊かな福音です。その福音の豊かさをじっくりと聴きとるために、この聖書箇所を2回にわけて語りますことをご了承ください。

さて今朝の福音書はこう語り始められていました。

「数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った」

 キリストはカペナウムという町を伝道活動の拠点とし、周りの地域に出かけて行っては伝道をなさいました。そのカペナウムに帰ってくるたびに一息つくために立ち寄られたがありました。そのとは、キリストご自身の持ち家というのではなく、弟子の一人であるシモン・ペテロの家であったと思われます。キリストが伝道をお始めになって最初にカペナウムに来た時ときのことです。キリストは弟子たちと共に会堂に向かわれ、そこでの礼拝を終えられるとシモンの家に行きました。その時、シモンの姑は熱を出して寝込んでいました。その姑をキリストはお癒しになった。病が癒され元気になった姑は、さっそく食事の用意をしてキリストをもてなしました。それ以来、この姑はキリストがこの家に立ち寄られるたびにキリストをもてなすことを喜びとしていたことでしょう。

 今朝の聖書の物語でもキリストがカペナウムに帰って来ると、シモンの姑はキリストを家に迎え入れて喜んでもてなしていたのだろうと思います。そうしてキリストが家におられることが知れ渡って町中にイエスのことがうわさになったのです。              ――あのイエスという先生が、シモンの家に戻って来ているそうだよ……と、人々は続々とシモンの家に集まって来たのです。その時の様子について聖書はこう記しています。

それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。

  大勢の人々が集まるなかでキリストがなさっていたことはみことばを語ることでした。そのみことばに人々が耳を傾けて聴き入っていると、突然、屋根の上から物音が聞こえたかと思うと、天井の壁がぼろぼろと落ちてきました。何事かとざわめいているうちに、キリストのおられる丁度真上にあたる天井に、ぽっかりと穴が空けられた。そして、その穴から、寝床に横たわっている男が寝床ごと吊り降ろされてきたのでした。いったい何が起こったのか。福音書にはその経緯が簡潔に、しかし明確に記されています。

 先ず事の発端は寝床に横たわっていた男が中風の人であったということです。中風とは、体が麻痺してしまって動けなくなる病気のこと。この病気の患者である男を、四人の男たちが寝床に寝せたまま、キリストのおられるシモンの家まで運んで来たのです。ところが、シモンの家に着くともう既に戸口まで人がいっぱいで中に入ることすらできません。

 

――やれやれ、せっかくここまで来たのに……と、寝床を持ち運んできた者のなかには残念がる者もいたかもしれません。しかし、四人いると一人ぐらいは別のことを考えるものです。またよいアイデアを思いつく者がいたりするものです。そして四人のうちの誰かが、こう言ったに違いないのです。                                ――あきらめるのはまだ早い。屋根に上ろう!                    ――そうだ、屋根から吊り降ろしてやろう! 男たちは中風の人を担いだまま屋根にあがりました。この地方の家の屋根は平らで、外階段もあったので、屋根にあがることはそれほど難しいことではありませんでした。そして、病人をキリストの足元に降ろすために屋根に穴を開けたのです。

 こうした四人の男たちのとった行動は、普通では考えられないようなことであったといえます。人様の家の屋根に穴を開けてしまうなどということは誉められる話ではありません。そのような大胆なことを四人の男たちが敢えて行った理由は、まことに単純明快であったといえます。――中風の友だちを何とか助けてあげたい。あのイエスさまのところに連れて行くことさえできれば、イエスさまがきっと助けてくださる。そのような男たちの真剣な思いが屋根に穴を開け、そこから病人をキリストのもとにつり降ろすという大胆な行動をとらせていたといえます。この男たちの行動に対してキリストはどうなさったか。聖書は、はっきりとこう記しています。

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

このキリストの言葉には、二つの驚くべき、また不思議な事柄が語られています。

 一つは、キリストは病人に対してあなたの病は癒されたとは言わずに「あなたの罪は赦された」と言われたことです。病人に対して、なぜ罪の赦しが語られたのか、このことは次回に取り上げることにして、今朝はもう一つの不思議な事柄に注目したい。それはイエスは彼らの信仰を見てということです。私たちは、普通にこう考えるのではないでしょうか。 ――神さまからの助け、救いを受けるためには信仰が必要だ。罪の赦しという尊い恵みを受けるためにも先ず何よりも重要なことは、本人が信仰をもっているかどうかということ……そんなふうに考えるのではないでしょうか。ところが、キリストによって罪が赦された中風の男の信仰について、聖書はただの一言も記していません。聖書が記しているのは、キリストが彼らの信仰を見てということ。彼らすなわち四人の男たちの信仰をキリストはごらんになったということなのです。中風の男はといえば、ただ連れてこられただけです。その中風の男がキリストを信じていたかどうかは分からりません。そのあたりのことについて聖書は完全に沈黙しているからです。その代わりに今朝の聖書が私たちに注目を促していることは、中風の人が信じていたかどうかではなく、四人の男たちがキリストを信じて、中風の人を救ってもらおうと大胆な行動をとったということなのです。

 キリストは、四人の男たちの信仰をごらんになって、そして中風の人にむかって「あなたの罪は赦された」と罪の赦しを告げたのです。ここでキリストがごらんになった四人の男たちの信仰とは、いうなれば身代わりの信仰とでも呼ぶことができるようなものです。身代わりの信仰と言いましても誤解をしないで欲しいと思うのですが、本人が全く信じるつもりがなくても、誰かが代りに信じてあげれば、それで救われるというようなことを言おうとしているのではありません。そうではなくて、信仰というのは、ただ自分の救いのためにだけ信じるというのではなくて、他の誰かの救いのためにキリストを信じる、そういう信じ方があるということです。そして、そうした他の人の救いのために真剣に信じる人のことをキリストは無視なさらないで、それを信仰として見てくださるのです。

 中風の病とは、体が麻痺して動けなくなることだと先程申上げました。このことは何も、中風という特定の病気だけの問題ではないと思います。私たちの生活のなかでも、身動きがとれなくなってしまうという事態が、いろいろなところで起こってくるのではないでしょうか。あるいは、肉体の身動きはまだ何とかなっても、心の身動きがとれなくなってしまうということがあります。そうなると、もう何もやる気が起きなくなってしまう。こちらの方が事態は深刻です。

 そういう時にこそ、しっかりと信じなくては、祈らなければいけないと思う。しかし、そのような思いを空しくさせてしまうほどに心の身動きが取れなくなってしまう。身代わりの信仰とは、そのような身動きが取れなくなってしまっているその人の代わりに神の祝福と助けを信じてあげることなのです。そのような身代わりの信仰について、人はこういうかもしれない。                                      ――そうは言うけれども、あなたが一所懸命に信じてあげても、やっぱり本人がしっかり信じていなければ駄目でしょう……。しかし、キリストはそういうことはおっしゃらない。聖書ははっきりとこう伝えてくれているのです。

イエスはその人たちの信仰を見て、

中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

 身代わりの信仰は、相手を思いやる温かみのある信仰です。ふだん教会にほとんど来ることのない方たちのためにといって伝道礼拝とか特別伝道集会を行うことがあります。家族がなんとか集会に来てもらえたらと思う。そして案内もする。しかし、そういう思いや願いとは裏腹になかなか集会に来てくれない。そういう家族を批判したり、諦めの思いを抱いてしまう。そういう家族のことを私たちはどんなふうに見ているでしょうか。今朝の聖書からは、こういう見方を教えられます。                           ――私の家族は今、神による救いを求めるということについて身動きが取れないでいる……。そう考えてあげるところにとりなしの心が生まれます。そして今は、自分にできることとして、その家族の代りに信じてあげるのです。

 私たちが毎週ここに来て礼拝をするのも、ただ自分の信仰のためにだけというのではないのです。家族のためにも祝福を願って家族の分もここで祈る。讃美歌を歌うときも、まだ讃美歌をうたう喜びを知らない、礼拝に来ていない家族の代りとしても歌う。

「天にまします我らの父よ」と主の祈りを祈るときの我らとは、クリスチャンとなっている信仰者としての仲間だけを意味しません。我らの中には、クリスチャンではない自分の家族や親戚や友人たち、この教会の近所の人々も含まれている。そういう方たちの代理をつとめながら「天にまします我らの父よ」と私どもは祈るのです。

 最後に、身代わりの信仰に必要なことを四人の男たちの行動から確認して祈りたいと思います。四人の男たちは大人ひとりを寝床ごとキリストのいる家まで運んできました。いったいどれほどの距離であったのかは分かりませんが、一人の大人を運ぶことは決して楽ではないことは確かです。それが1キロ、2キロという距離であったとしたら、相当な忍耐が必要となります。このように、身代わりの信仰に必要な第一のことは忍耐、それもただ我慢するというのではない愛の忍耐です。

 また愛の忍耐はあきらめないという形をとります。やっとの思いでキリストのおられる家に着いてみるともう家に入れない。そこで男たちはあきらめませんでした。そして、知恵を出し合って、やれるだけのことをした。身代わりの信仰に必要な第二のことはあきらめないということ。そして、自分にできることを精一杯やってみるということです。

 中風の男とそれを運んだ四人の男たち、この五人の姿は教会の姿をあらわしているとも言われています。この五人の姿を教会のビジョンといえるようになりたいと思います。そのビジョンが示していること。それは教会は担う人もいれば、担われる人もいる。それが教会だということです。今日は、自分はとりなす側に立っている。しかし明日はとりなしてもらう側にいるかもしれない。それでも良いのです。私はとりなす側でないと気が済まないという考えは、また教会の本当の姿が見えていない人の考え方と言えましょう。そして重要なことは身動きのとれなくなってしまっている人を独りぼっちにしないこと。そのためにも私たちなりに四人の男の役割を担うのです。

 ひとりではではなくて、四人、複数の人数で、ということも大切な意味を含んでいるといってよいでしょう。――〇〇は私だけで独りでやります……というのではなくて仲間たちと重荷を担う。他の仲間たちと心を一つにして、信頼しあって重荷を担う、そのような者たちの信仰をキリストは喜んでごらんになってくださるのです。

                       (2021年8月8日 三位一体後主日礼拝)

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