マルコの福音書第1章40~45節

マルコの福音書第1章40~45節

「キリストのあわれみ・怒り」

 

 キリストが伝道をお始めになると、病気に苦しんでいる人たちが癒しを求めてキリストのもとに集まってくるようになりました。そうした中、ツァラアトを患っている人がキリストに癒しを求めてきました。ツァラアトというこの言葉は、新改訳聖書が翻訳をしないで原文の読み方をそのままカタカナで表記したものです。

(同じ言葉を口語訳は「らい病」と翻訳していたが、病理学的に間違いであるために新共同訳は「重い皮膚病」と訳出していた) 

 ツァラトには鞭とか懲らしめという意味があり、この病気にかかった人は、神からの懲らしめを受けているのだと考えられていました。病気の症状としては皮膚病の一種で、その症状ゆえに患者は汚れた者と呼ばれながら忌み嫌われ、差別を受けるようにもなりました。そのような病気を負っている人がキリストのもとに来て、ひざまずいて助けを乞いました。それに対してキリストがなさったことを福音書はこう記しています。

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、

「私の心だ。きよくなれ」と言われた。

 ここで先ず注目したいのはあわれみという言葉です。この言葉は、はらわたが痛むという意味がもとになっています。気の毒な人を見て――かわいそうに……と思うことは私たちにもあります。しかし、キリストの場合それでは済みませんでした。ツァラアトと呼ばれるようになった病にかかってしまったために人々からは――この人は神から懲らしめを受けているのだ……と噂されるようになり、汚れた者として忌み嫌われ、人間としてまともな扱いをしてもらえなくなってしまっている人が足元にひざまずいている。その人をごらんになったとき、内臓がえぐられるような激しい思いがキリストを襲いました。そうしたキリストの心の動きを聖書は深くあわれみと書き表しているのです。

 この、あわれみと記している箇所については、たいへん興味深いことに、ここを怒ってと記している古い聖書があります。この場合の古い聖書とは「写本」のことです。

(印刷技術のない時代、聖書は書き写すことで数を増やした。その書き写された聖書を写本という。今日、用いられている聖書は何千という写本をもとに原本復元を試みた校訂本を翻訳したものである。)

 マルコの福音書の写本にはあわれみと書かれているものと怒ってと書かれているものの二通りがあるのです。マルコ本人は、実際にはどちらの言葉を書いたのかはわかりません。そうなるとあわれみ怒ってのどちらが正しいのか、これは大問題になってしまうかもしれません。あわれみ怒ってとでは意味が正反対なのですから。

 しかし、よくよく考えてみますと、そのどちらか一方だけを正しいと決めてしまう必要もないのかもしれません。というのも両方とも、ツァラアトによって苦しんでいる人をごらんになったキリストの心を表しているといえるからです。先ほど、申し上げたとおり深く憐れんでとは、はらわたが痛むほどに心が激しく動くことです。その激しさの中で、キリストは怒ってもおられたともいえるのです。では何に対して怒っておられたのか?

 ツァラアトという病気は、当時としては治療が難しく、感染力があると考えられていました。そのため患者は、他の人々の近くを通るときには――私は汚れた病気にかかっています、と叫びながら歩かなければならないという掟があり、健康な人々に近づくことも固く禁じられていました。そういうことですから、町や村に住むことは許されず、家族と一緒に生活することもできませんでした。こうして社会生活から隔離され、差別をこうむってもいたのです。 

 そのような苦しみを負わされていた人をごらんになったキリストの心に怒りが生じてきた。その怒りは、病人の苦しみを二重にも三重にも大きくしているものに対する怒りであったと言えます。

 私たちが抱くキリストのイメージは、優しいイエスさまということであるかもしれません。しかし、キリストはお優しいだけではない。お怒りにもなる。何に対して。人を人として尊ぶことを損なわせてしまう誤った考え、そして差別に対してキリストはお怒りになるのです。神の懲らしめによる病ということを意味するようになったツァラアトという病気の呼び名についてもキリストはお怒りになっていたのではないかと思います。このように、人を苦しめるものに対して怒ってくださるキリストの怒りは、私たちにとっての福音と深く結びついているといってよいでしょう。

 さて、キリストはツァラアトに苦しむ人をお癒しになった後、癒していあげた人に対して厳しく戒めてこうお命じになりました。

「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証のために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい」

 キリストはすぐに祭司のところに行き、体を見せなさいと命じられました。なぜ祭司に体を見せるのかというと、ツァラアトのような病が癒されているかどうかを判断することは祭司の務めであったからです。この祭司から病は治っているというお墨付きを受けるようにとキリストが厳しくお命じになったのは、癒された人の社会復帰を確かなものとするための配慮であったと言えます。そして、もう一つそれ以上の理由がありました。それは、ツァラアトと呼ばれている病についての誤った考え、また、ツァラアトの患者を差別する人たちを悔い改めに導くということでした。そのためにもキリストは――誰に癒してもらったというような話は一切するな。ただ祭司のところに行って癒されたというお墨付きをもらってきなさい、そして聖書の掟にしたがって神への感謝をささげなさい、ということを厳しく言われたのです。

 このキリストの命令どおりに癒された人が祭司のお墨付きをもらうことで、どういうふうに事が進むことになるか。癒された人が祭司のもとに行った後に人々にこう言ったとします。               ――私は癒されました。いま祭司さまのところに行って治ったことについてのお墨付きをもらってきたところです。するとそれを聞いた人々はこう思うことになるでしょう。                ――そうか、ツァラアトにかかっていたお前が癒されたということは、神さまはツァラアトにかかっている人を見捨ておられるわけではないのだな……。このように人々の神に対する認識が改められること。これこそがキリストの願っていることでありました。キリストが重い病の癒しをなさる理由がここにもあるのです。

 しかし残念なことに、癒された人はキリストの命令に従いませんでした。祭司のところには行かずに――イエスという人に病を癒してもらった……ということを人々に言い広め始めたのです。この時の癒された人の気持ちはわかります。人々に語らずにはおれない喜びがあったことでしょう。この癒された人は、私たちが伝道集会などで語ることのある「証し」をして歩いたようにも見えます。しかし、この癒された人のとった行動のためにイエスはもはや表立って町に入ることができずと聖書が記しているとおり、癒された人のとった行動はキリストの伝道のさまたげになってしまっているのです。

 この出来事から覚えておきたいことの一つは、神から受けた恵みであっても、何から何まで語って良いということではないということです。「証し」なら何でも語って良いということにはならない。キリストは、私たちにも「何も話さないように気をつけなさい」と言われることがあるのです。

 大原教会(岡山県)に在任中、また服部喜望教会(大阪府)に在任中にもこんなことがありました。ある教会員が私に、自分の信仰体験を語りながら――神さまが私のために、特別に恵みを与えて下さったのだと思います……という意味の事を話された。その話しを聞きながら私自身も嬉しく思ったのですが、私はその方に言いました。                 ――その話はあなたと神さまとの秘密にしておいて、他の人には話さないほうがいいですね。なぜ、そう申上げたのか。

 私たちが語る「証し」というものは、それを聴く人々の心が憐み深い神に向けられること、キリストに向けられることを目的としています。受けた恵みが人を驚かせるような大きなものであったとしても、その話を聞いた人が神に心を向けることよりも、特別な恵みの出来事そのものに注目し――ああキリスト教にはこういうご利益があるのだな、というふうに思わせてしまう話しをしてしまうと、それでは「証し」とはいえなくなってしまうのです。逆に申せば、――私たちを愛してくださっている神さまはほんとうにおられるのです、というふうに天の父である神を指し示す、キリストを指し示すものであれば、どんなに小さなことでも、ささいな出来事であったとしても、それは立派な「証し」として語りうるのです。

 キリストからツァラアトを癒された人は、証しにおいてはキリストの期待に沿うことができませんでした。しかし、この人はキリストを喜ばせた一面を持っていました。そのことも注目をしておきましょう。

 この人はキリストのところに来た時、ひざまずいて癒しを願いました。これまでにも大勢の人々が癒しを求めてキリストのもとに集まってきていましたが、この福音書を読む限り、ひざまずいて願ったのはこの人が初めてです。

 ひざまずくとは祈りの姿勢であり、また礼拝を表わす言葉でもあります。このツァラアトの人は礼拝の姿勢をとりながらキリストに願ったのです。そして更に「お心ひとつで(新共同訳『御心ならば』)、私をきよくすることがおできになります」という願い方をしました。キリストが伝道しながら、父なる神に終始祈り続けておられたことは「御心が行われますように」ということでした。そのキリストの祈りと同じようにツァラアトの人はキリストに願ったといえます。神からの懲らしめを受けているから病気になったのだと人々から差別されていたその人が神のお心を信頼して「御心ならば」と願った。このことはキリストにとって大きな喜びであったに違いありません。

 クリスチャンの祈りに特徴があるとすれば、その一つは神の御心を重んじるということといえるでしょう。

 ある老牧師が、神学校を卒業したばかりの若い牧師を連れて、重い病を抱えた人を訪問したときの話しを読んだことがあります。老牧師は、訪問のさいごのほうで病人を前にして ――御心ならば癒してください、とはっきりとした口調で祈りました。訪問を終えてから、若い牧師は老牧師にこう言わずにおれなくなりました。                                  ――先生は患者の前で、御心ならば癒してくださいと、よくはっきりと祈れますね。   「御心ならば」と祈ることは、御心でないならば癒されない、ということを暗に言っていることになるではないか。それは病者に対して厳しい態度ではないか。病人に気の毒ではないか、と若い牧師は思ったのです。それに対して老牧師はきっぱりとこう答えたのでした。 ――これでいいのです!

 なぜ、老牧師は、これで良いと言ったのか? 私たちが祈る時、それは神に祈っているのです!   その神は生きておられ、心をもっておいでになる。その神が祈りを確かに聞いていてくださる。そのことを老牧師は真剣に信じて、神の御心に信頼していた。だからこそ「これでいいのです」ということができたのでしょう。

 神による懲らしめ故の病と考えられていたツァラトの人をキリストはお癒しになりました。そのキリストの癒しのみわざに、神は決して病人をお見捨てにならない、という御心がはっきりと顕されました。だからこそ私たちは「御心が行われますように」と安心して祈ることができるのです。

                       (2021年8月8日 三位一体後主日礼拝)

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