マルコの福音書第1章29~39節

マルコの福音書第21章29~39節

「キリストの伝道」

 キリストと弟子たちの一行がカペナウムという町についたとき、真っ先に向かったところは礼拝のために人々が集まる会堂でした。その会堂でキリストは、神の国の教えを語られ、汚れた霊につかれている人をお癒しになりました。その様子を見聞きしていた人々のことについてマルコの福音書は「驚いた」(22節)「みな驚いた」(27節)と記しています。その時の人々の驚きは余程のことだったのでしょう。「こうしてイエスの評判は、すぐにガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった」(28節)とも書かれています。そのような人々が驚いた出来事が会堂で起こったその日の夜、キリストのもとには大勢の人々が集まってきました。それは、弟子あるシモンとアンデレの家でのことでした。

 キリストがシモンとアンデレの家にお出でになった時、シモンの姑は熱を出して寝込んでいましたが、キリストに癒してもらうと元気になったシモンの姑は食事の用意をはじめ、キリストと弟子たちをもてなし始めました。こうしてシモンの姑の食事の世話を受けながら、キリストと弟子たちは休息のひと時を過ごしていたのではないかと思います。

 ところが夕方になり日が沈むと状況が一変してしまいます。次から次へと来客が現われたのです。来客は皆、病気で苦しんでいる患者を連れていました。こうしてシモンの家はたちまち〈救急病院〉のようになってしまったのです。連れて来られていた病人のなかには悪霊につかれた人々もいました。悪霊のために大きな叫び声をあげている者や激しく暴れる者もいたのではないかと思います。そして異様な雰囲気がシモンの家を騒然とさせていたことでしょう。しかし、集まって来ていた人々には大きな期待がありました。             ――あのイエスというお方は、会堂で汚れた霊にとりつかれていた男をお癒しになったというではないか。そういうお方ならきっと癒してくださるに違いない、という期待です。

 このような期待を抱いた人々は、わざわざ日が沈むときを見計らってキリストのところに集まってきました。というのは、ある事情があったからです。ユダヤ人の間では、安息日である土曜日は会堂に集まって神を礼拝する以外のことをしてはいけないという安息日についての厳しい掟がありました。安息日には働いてはならないという掟があるために、医者が病人の治療をするということも禁じられていたのです。

 そうした安息日は、日が沈むと共に終わります。ユダヤ人の間では日没と共に新しい一日が始まるとされていたからです。安息日の会堂での出来事を見聞きした人々、またその評判を聞きつけた人々は、太陽が地平線に見えなくなるのを見届けると――さあ、これで日が沈んだ。安息日は過ぎた。あのイエスのところに病人を連れて行こう、とキリストのもとに集まってきたのです。そのようにして大勢の人々が次々と押し寄せてくる中でキリストがなさったことを福音書はこう記しています。

イエスは、様々な病気にかかっている多くの人々を癒された。

また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。

彼らがイエスのことを知っていたからである。

ここで、おやっと、これはどういうことだろうと思わせられるのはキリストが悪霊がものを言うことをお許しにならなかったということです。イエスの正体を知っている悪霊たちは、追い出される間際に、イエスに対して――お前は神から遣わされた聖なる者だ、というようなことを言った。それをキリストはお許しにならなかったというのです。なぜ、キリストは悪霊がご自分の正体を語ることを許されなかったのか?

 キリストによって追い出される悪霊が声を上げる、それを聞いた人々はキリストに対して〈悪霊を追い出す奇跡を行うことのできる人〉という思いを強めたことでしょう。しかし、キリスト御自身は、奇跡を行う人として見られたくはなかった。悪霊が――お前は神の聖者だと声を上げるたびに、それを聞いた人々は、キリストを奇跡の力をもつ人と思うようになる、そのことをキリストは避けたかったのではないかと思います。

 しかし、それでもキリストは、人々の目から見れば奇跡と言い得る力をもって病人を癒し、悪霊に苦しめられている人から悪霊を追い出されました。そのようにキリストがなさったのには、はっきりとした理由があります。キリストの伝道メッセージ、それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔改めて福音を信じなさい」というものでした。この神の国すなわち神の恵みのご支配が現実のものであることを証明するために、キリストは奇跡を行なわれたのです。

 当時の人々は、重い病にかかってしまっていた人について、病が重ければ重いほど、それは神から見捨てられているからそういう病にかかってしまっているのだと考えていました。悪霊に取りつかれてしまった人についても、そうした人は神の祝福を受けることはできないと考えていたのです。しかし、重い病にかかってしまっている病人や悪霊に苦しめられている人を神は決して見捨ててはおられない。そうした人々もまた神の恵みの支配になかに生かされているという事実を、すなわち神の国が近づいたという事実を証明するためにもキリストは癒しをなさったのです。

 さて、慌ただしい一夜が過ぎて朝になると、家の中にはキリストの姿はありませんでした。キリストは朝早く、まだ暗いうちに……寂しいところに出かけい行き祈っておられたからです。マルコの福音書が祈っておられるキリストのことを記している箇所は、実は二つしかありません。その一つがここであり、もう一つは第14章に記されているいわゆる『ゲツセマネの祈り』です。キリストは十字架にかけられる時が近づいてきたとき、ゲツセマネと呼ばれる場所で苦しみもだえながら祈られました。その時のキリストの祈りをマルコの福音書はこう記しています。

「父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなくて、あなたがお望みになることが行われますように」

 天の父の御心が行われますようにという祈りをキリストは、ゲツセマネで初めて祈った、あるいはこの時だけ祈ったというのではないと思います。キリストの祈りには常にわたしの望むことではなくて、あなたがお望みになることが行われますように」との祈りがあったに違いありません。シモンの家での一夜が明けた早朝、そこでもキリストは、前の晩のことを思い出しながら、天の父の御心が行われますようにと祈らざるを得なかったのです。

 シモンの家でキリストに癒していただいた人々は、皆イエスに感謝して言ったことでしょう。――ありがとうございます。あなたがいてくれて良かった…… あなたがこの町いてくれれば私たちは安心だ…… そのように人々は喜んでいたことでしょう。しかし、このような人々の様子を見ながらキリストにはこう思い始めていたのです。            ――このままで本当に良いのだろうか。自分の伝道はこれで良いのだろうか。

 人々からの人気が高まれば高まるほど、これで良いのかという問いがキリストにはありました。その問いの中でキリストは天の父に「あなたの御心が行われますように」と祈らざるを得なかったのだろうと思います。そこに弟子たちがやってきて「皆があなたを捜しています」と言いました。一夜開けて、シモンの家にはまた人々がキリストの癒しを求めて集まってきていたのでした。その人々がイエスを捜しているというのです。それに対してキリストは、きっぱりとこう言われました。

「さあ、近くにある別の町や村に行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。

そのために、わたしは出てきたのだから。

  キリストは今いる町を出て「別の町や村に行こう」と言われました。これは、シモンの家に癒しを求めて集まっている人々を置いて行くということを意味します。折角集まって来ている人たちを残したまま行ってしまう、考えようによっては、それでは集まってきている人たちが気の毒ではないか、と批判を受けかねないキリストの言葉です。

 しかしこれが寂しい所で独り、神の御前で祈られたキリストに与えられていた答えでした。もはや、自分の伝道についての迷いはありませんでした。――大切なことは、これだ!という確信がありました。その確信を込めてキリストは「そのためにわたしは出て来たのである」と言われたのです。

「そのために」とは「天の父の御心のため」にと読むこともできます。天の父が求めていること。それは神の国の福音を語り伝えることです。福音を聞くことで人々が心を神に向ける。そのことが起こらなければ救いになりません。奇跡的な癒しも、それは人々が心を神に向けるための、いわば補助的な働きにすぎないのです。

 以上が、今朝の聖書の物語の内容です。ここから私たちは何を聴きとり、学ぶべきか。そのことを最後に考えてみたいと思います。

 キリストは悪霊にものを言うことをお許しになりませんでした。悪霊が声をあげればあげるほど、悪霊を追い出す奇跡を行うことのできる力ある人という評判が大きくなる。そのことをキリストは望まれませんでした。また、奇跡的な癒しを求めて大勢の人々が集まってくる、そのような伝道に疑問を持ち、天の父の御心に従うための祈りをされたキリストの姿を今朝の聖書は映し出していました。このことから浮かび上がってくることがあります。

 それは、重い病をたちどころに癒したり、悪霊を追い出したりといった人々が目を丸くして驚くような奇跡の故にイエスを受け入れるということは、キリストが願っておられる信仰ではないということです。奇跡そのものに期待を寄せている間は、悔い改めることもないでしょう。キリストが私たちに願っておられることは「神の国が近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と語られている福音を信じる信仰です。この福音の中心ありますのは罪の赦しです。この福音こそが私たちの魂を健やかにする平安をもたらすのです。

 カール・バルトという神学者は、罪の赦しによる福音の恵みと奇跡的な癒しや助けが与えられる恵みについて、こんな意味のことを言いました。

 神は、現代に生きる私たちにも奇跡的な癒しや助けを与えることがおできになるし、必要ならばそうした奇跡的な恵みを与えて下さる。それは、譬えるならばデザートのようなものである。食事の後にデザートが出てくると嬉しい。デザートは食べることの喜びを感じさせてくれるし、時には疲れた心を和ませ、潤いを与えることすらある。しかし、デザートがそうした良いものをもたらすことができるのは、デザートの前にある本来の食事があるからである。本来の食事をとることなくデザートばかりを食べていたら、二週間もたたないうちに私たちの体の健康はダメになってしまう。私たちの体の健康のために必要なのは本来の食事。その本来の食事に当たるのが罪の赦しによる福音の恵みといえる。

 もう一つ心にとめたいこと。それは、キリストが天の父に祈った後で、人々が奇跡を信じる奇跡信者にはなってしまうような伝道をしないという判断をなさったことです。人がたくさん集まるならばどんな方法でもよい、伝道が目的であれば何をしても良いということにはならないのです。キリストの伝道は、先ほどのバルトの譬えを用いて言うなら、デザートを売り物にして人集めをするようなものではありませんでした。私たちの健康のために本当に必要なものとしての本来の食事にあたる神の国の福音を伝えること。神の国の福音を証しすること。そのような伝道のためには「別の町に行こう」というような判断もなさる。そのようなキリストの姿についても、教会の伝道について考える時に思い出せるようにしてまいりたい。そう願わされます。       

 (2021年8月1日 三位一体後主日礼拝)

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