マルコの福音書第1章21~28節

マルコの福音書第21章~28節

「キリストの権威」

 

 今、お聴きしました聖書には、キリストによって始められた伝道がどのようなものであったのか、その具体的な様子が語られていました。その最初にはこうありました。

それから、一行はカペナウムに入った。

イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。

 「一行は」と記されていますように、この時、キリストは独りではありません。キリストによって弟子として迎え入れられていたシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネがもう既にこの時一緒でした。そのキリストと弟子たちの一行がカペナウムという町に着いたとき、真っ先に向ったところは会堂でした。聖書が会堂と翻訳しているのは、シナゴークと呼ばれるユダヤ人が神を礼拝するために集まる建物のことです。

キリストが伝道をなさった時代、人々はエルサレムにある神殿で礼拝をささげることを大切にする一方で、毎回エルサレム神殿に出掛けるわけには行きませんから、各地方に建てられていた会堂に集まって礼拝をしていました。会堂は、エルサレム神殿に比べると建物としては大変小さいのですが、それでもなかなか堂々とした大きさの建物で、日本の大方のキリスト教会の教会堂よりも大きな建物であったようです。そして、その建物は礼拝に使われるだけでなくて、子どもたちが学ぶ学校として、また裁判を行うときの法廷として、更には今日でいうと地域の公民館や宿泊所としても用いられていました。このように、いろいろと多目的に使われる会堂ではありましたが、中心的な役割は礼拝をするための建物であったといえます。

 この会堂に、安息日になると人々が礼拝のために集まってきます。私たちが日曜日に礼拝を守るようにユダヤ人は土曜日に礼拝を守っていました。その安息日、会堂で行われていた礼拝はどんなものであったのか。それは、集まった者たちが信仰の告白といってよい言葉を唱え、祈りがなされ、聖書が朗読され、そして説教が語られるというものでした。ですから、今、私たちがここでしている礼拝と良く似ているものであったといえるかもしれません。

 そのような礼拝が行われる会堂に、キリストと弟子たちは真っ先に向かってゆかれそこで伝道をお始めになったのでした。しかも、会堂で伝道をなさったのはこのとき一回だけというのではありません。会堂での伝道はその後も続けられていきました。キリストにとって礼拝が行われる会堂は、伝道のための大切な場所であったからです。そのことは、私たちの礼拝についても同じことが言えます。今、私たちがしているこの礼拝の集まりは、伝道のための集まりでもあるのです。「伝道礼拝」と殊更に呼ぶことをしていなくても、毎週の礼拝が伝道礼拝なのです。

 さて、キリストが会堂で教え始められたとき、福音書が最初に記していることは、そこに集まっていた人々が「驚いた」ということです。

人々はその教えに驚いた。

イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

 この言葉には、よくよく考えてみますと不思議なところがあります。律法学者というのは、聖書を専門とする学者、今日で言えば大学教授のような身分を兼ね備えていた人です。そういう学者というのは本来、学問的な権威を持っているものです。

 例えば、本屋で書物を買う時、著者の経歴を見る。そこに○○大学教授と書かれてあると――こういう有名な大学の先生が書いた本だから……という気持ちになったりする。医師の診察を受ける場合でも、ある病気についての専門医であり、権威があると聞くと――この先生なら私の病気のことわかってもらえるかもしれない……と期待をするかもしれません。ですから学者やお医者さんが権威を持っているということは重要なことですし、およそ学者という者はなんらかの権威をもっているものです。

 ところが聖書は、はっきりと「律法学者たちのようにではなく、権威ある者として」と書いている。それは律法学者たちには権威がないということを言っているのと同じことです。キリストは(権威のない)律法学者たちのようにではなく権威ある者として教えられた。こういうことを当の律法学者が聞いたら、面目をつぶされたと言って腹を立てるに違いありません。 実際、この後、律法学者たちは自分たちの権威がキリストによって傷つけられたと感じて、キリストに怒りを抱くようになっていきます。そして、ついにはキリストを殺すことを企むようにまでなって行くのです。

 ともかく、人々はキリストのお語りになる教えを聞いて驚いたのです。ならば、いったいキリストはこの時、どのような教えをお語りになったのでしょう。ここには教えそのものは何も記されていません。しかし、キリストがお語りになった教えの内容は、もうすでにマルコの福音書が明らかにしてくれています。それを私たちは、こう聞いてきました。

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

――神の国が近づいた、すなわち恵み深い神のご支配による新しい時が始まった。その神に、あなたがたは心を向けなさい。

 こう語るキリストの言葉に人々は学者たちの語る言葉にはなかった権威を聴きとりました。それは人間の言葉にはない権威、神の言葉としての権威であったといえます。この時、会堂に集まっていた人々は神の言葉を聴いた。礼拝をしていた人々は神の言葉を聴いたのです。それで驚いたのです。そのとき驚いたのは人々だけではありませんでした。その礼拝堂に集まっていた人々の中に汚れた霊につかれていた者がいました。その人にとりついていた霊が叫んでいったのです。

「ナザレのイエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」

 汚れた霊は、人間の心の自由を奪いとってしまいます。汚れた霊に心を支配されてしまった人は、その人自身も苦しめられますが、それだけでなく、周りの人々をも平気で苦しめるようなことをしてしまいます。汚れた霊は、人の心の健やかさを奪うだけでなく、社会をも病気にさせてしまう。

 そのような汚れた霊が最も嫌がることは、自分たちの支配力を打ち消し、滅ぼすことのできる神の支配がやってくることでした。神の国が来ることは、汚れた霊のもっとも恐れていたことでした。その神の国が近づいたと語られるキリストの言葉を聞いたので霊たちは怖れをなして「私たちと何の関係があるのですか」(新共同訳「かまわないでくれ」)と叫んだのです。私たちと何の関係があるのですかとは「私は私、あなたはあなた」という意味の言葉です。ですから汚れた霊はこう言っているのです                   ――イエスよ、あなたの正体はわかっている。あなたは神が遣わされた聖なる者だ。だから、我々とあなたとは何の関係もない。あなたはあなたで、我々のいないところで活動してくれ……。しかし、キリストは汚れた霊に向かって言われました。「黙れ。この人から出て行け」

この「黙れ」というキリストの言葉は命令よりもっと強い言葉です。泣き止まない犬を黙らせるために、口の部分にはめる輪のような道具があるそうですが、そのように相手を黙らせてしまう力ある言葉でキリストは「黙れ」と言われたのです。そしてキリストは「この人から出て行け」と命じられました。すると汚れた霊は出て行き、苦しめられていた男は癒されました。こうしてキリストは、汚れた霊の支配に正面からぶつかって行かれました。そして神の国が近づいたということ、すなわち神のご支配の時が来ているということが現実のものとなっていることをを明らかにされたのです。

 その様子を見ていた人々は、そこでまた驚きました。今朝の聖書には、会堂に集まっている人たちが「驚いた」ということを二度記していますが、一度目の驚きと二度目の驚きとは、違ったものになっていたと思われます。

 最初の驚き(22節)は、今まで聞いたことのないものに触れたことによる驚きでした。それに対して二度目の驚き(27節)、キリストが汚れた霊を放後したそのようすを目の当たりにしたときの驚きには、恐れが含まれていたといえます。汚れた霊を追い出されたキリストの様子を見ていた人々は、――おお、すごい、すごい……とその様子を喜びながら見ていたのではありません。見ているうちに恐ろしくなってきてしまったのです。そして           ――神は、ほんとうにおられる。神は、ほんとうに生きておられる……という畏れに撃たれながら驚いたのです。

 礼拝に来ている人たちですから、神を信じている人たちです。しかし、神を信じているとはいいましても、その信じ方はいろいろです。神を信じるということが形だけのものになってしまっている人も少なくなかったでしょう。そういう人にとって礼拝は、守るべきおつとめ、習慣でしかありませんでした。そのような人もいたであろう会堂での礼拝を、キリストは真っ先に伝道の場所とされたのです。そして、神はほんとうにおられる、神はほんとうに生きておられる、という生ける神への畏れを人々に与える伝道をなさったのでした

≪中略≫

 キリストの権威ある教えによる伝道は、先ず、神を信じている者たちに、       ――神は、ほんとうにおられるということを                     ――神は、私たちの祈りをほんとうに聞いておられることを              ――神は、私たちがしていること、考えていることをほんとうにすべて知っておられることをそうして                                     ――神は、ほんとうに生きておられるお方であることを畏れることによる驚きを呼び起こすものであったのでした。

 

                       (2021年7月25日 三位一体後主日礼拝)

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