マルコの福音書第1章16~20節

マルコの福音書第1章16~20節

「キリストの招き・召し」

 皆さんの中には、テレビでドラマを観たり、映画館に行って映画を観ることが好きだという方もいるでしょう。そうしたドラマや映画には、ほとんど必ずと言ってよいと思いますが主人公が登場してきます。聖書に記されている出来事の主人公は、ほとんどの場合、それは神であるということができますし、聖書にキリストが登場してくれば、そのキリストが主人公であるということができます。

今朝の説教には「キリストの招き、召命」という題をつけています。来週の説教題は「キリストの権威」となっています。こうした説教題を少し注意深くご覧らなって下さっている方ならお気づきかと思いますが、私の説教題は「キリストによる○○」とか「キリストの○○」というふうになっているものが多い。これはなぜかというと、私がここで語る説教はキリストが主人公であるからなのです。

今朝の聖書には四人の漁師たちがキリストの弟子となった出来事が記されています。この出来事の主人公は、シモンやアンデレ、ヤコブやヨセフといった弟子になった人たちではなく、あくまでもキリストです。そのことをはっきりとさせるために、福音書そのものが、主人公が誰であるかを指し示すような書き方をしています。16節以下を少し丁寧に見てみましょう。

先ず「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを通り」とキリストの行動が記されています。

次に「シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをごらんになったと書かれています。

ここにはシモンとアンデレのことが書かれているようにも読めますが、そのシモンたちをキリストが「ごらんになった」という、やはりキリストの行動が書かれているのです。

そして「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と、キリストがお語りになったことが書かれています。

ここまでにキリストのとられた行動が三つ記されていたことになる。それに対してシモンとアンデレのとった行動については、「すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った」ということ、これだけです。

その後19~20節に記されているゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの場合を見ても、やはりキリストの行動が三つであるのに対して二人の漁師の行動は一つだけです。こうした福音書の書き表し方に、この出来事の主人公はキリストであるということが表現されているのです。

さて、ここを読んでいて不思議に思うことがあります。それは、キリストに呼びかけられたシモンとアンデレは「すぐに網を捨てた」ということです。漁師にとって網は大切な仕事道具、それは当時の漁師にとっては財産といってもよいほどのもの。それをすぐに捨ててキリストに従ったという。どうしてそんなに簡単に財産を捨ててイエスに従えたのだろうか……

その後に出てきますヤコブとヨハネに至っては、父親と雇人たちを舟に残したまま、キリストに従ったといいます。考えようによっては、この時のヤコブとヨハネの行動は、あと先の事を考えない無責任なものだと批判されてもしかたがないほどのものです。実際に、こんな単純に事が運んだのでしょうか? キリストに呼びかけられた漁師たちに迷いはなかったのでしょうか?

――この人についていって大丈夫だろうか…… 生活していけるだろうか…… 

――それよりは漁師のほうが貧しくとも生活は安定している。さあ、どちらにしようか……

そうした葛藤が四人の漁師たちにあったと考えるほうが自然です。しかし、この福音書の著者は、そういうことには全く無関心であるかのように、四人の漁師たちの心の動きについては何も書いていません。それはなぜなのか。この出来事の主人公はあくまでもキリストだからです。

ここまで私は説教の中で『主人公』という言い方をしてきましたが、『主人公』よりももっと適切な言い方が実はあります。それは『主導権をもっている人』ということです。今朝の聖書の出来事で主導権を握っているのはキリストなのです。

 16節に「ごらんになった」と書かれています  19節にも「ごらんになった」と書かれています

これは、漁師たちが網を打ったり、網の手入れをしたりしているその様子を、キリストがつぶさに「見ていた」ということではなくて、弟子として誰を選ぼうかというという弟子を「探している」キリストのまなざしを表しているといってよいでしょう。こうしてキリストは四人の漁師たちを「ごらんになって」弟子として選ばれたのでした。

普通、先生に弟子入りする場合、弟子となる側にも先生を選ぶチャンスがあるものです。たとえば陶芸家を志す人がいたとしましょう。そういう人は、いきなり陶芸家として独立してしまうというのではなくて、できれば、有名な陶芸家の下で修業を積んで腕を磨く。そういうときに、誰のもとで修業を積むのか。誰でもいい、ということではないでしょう。あの陶芸家のもとで修業をしてみたい――あの先生のところに弟子入りしたいと、弟子になる側が先生を憧れ見ることから始まる。そして、弟子にしてください、とお願いをする。

しかし、キリストの弟子たちの場合、弟子たちの方から弟子入りを願ったわけではありません。キリストに選ばれ、キリストの方から招かれて弟子にされたのである。これをキリストによる『召命』といいます。

 皆さんは、仏教の用語で『出家』という言葉を聞いた事があるでしょう。家を出て仏門に入ること。世俗の生活から離れて、仏の道に生きる修行に入ることを出家という。いままでサラリーマンだった人がその仕事をやめて僧侶、お坊さんになる場合、一つの典型的な出家といえるでしょう。

私も、牧師になる以前はサラリーマンでした(今はサラリーマンをしながら牧師をしていますが)。私が当時の仕事をやめて、家を出て牧師になるための神学校に入ったときに、そのことを――私は出家します、とは言いませんでした。――私は召命を受けたので神学校に行き牧師になります、という言い方をしたのです。

この「召命」と「出家」とは、教会とお寺の用語の違いであって、どちらも同じことを言い表しているように思われる方もあるかもしれませんが、これは全く違ったものです。

「召命」という言葉を広辞苑で調べてみると、ある使命を果たすよう神から呼びかけられること、と説明がされています。そのように「召命」は、神がある人を神の働きのために選んで呼びかける。呼びかけをする神が主人公・主導権を握っているのです。

一方、「出家」は、あまり仏様がどうのこうのということは言わない。それよりも出家をする本人が決心をして家を出る。だから出家をする本人が主人公となり主導権を持つのです。四人の漁師たちが「出家した」というのであれば、漁師たちがどんな気持ちで決心をしたのかということを聖書は詳しく記したかもしれません。しかし、キリストの弟子たちは召命を受けたのです。キリストが四人の漁師たちを呼び出されたのです。そのことを聖書は声を大にして伝えてくれているのです。

さて、こうしてキリストはガリラヤの漁師たちを弟子として招きいれ、召されました。そのことを私たちはどう受けとめていったらよいのでしょうか。更に言えば、今朝の聖書の出来事は私たちにとってどのような意味をもつものとなるのでしょうか。最後にそのことを考えてゆきましょう。

先ほどお話したとおり「網を捨てる」ということは、漁師であった人たちにとっては財産を捨てるということでした。その財産を「すぐに捨て」キリストに従ったと聖書は、そうはっきりと記しています。そのところを――「すぐに捨て」と書いてはあるが、実際にはいろいろと葛藤もあっただろう……と、ここであまり想像力を働かせて読んでしまうことは、この場合、正しい読み方ではありません。聖書が網を「すぐに捨てた」と記していることを無視するわけには行かないのです。

そうなると――財産を「すぐに捨て」キリストに従った漁師たちは凄い、とても自分には真似ができない……という話しになってしまうかもしれません。しかし、それでは「出家」になってしまう。

そこで、もう一度、繰り返して思い出したいことは、あくまでも、ここで起こっている出来事の主導権を持っているのはキリストであるということです。そのキリストがここで「神のことば」を語ることで召命の出来事を引き起こしておられるのです。

神の言葉による出来事ということで思い起こしたいのは、創世記第1章に記されている天地創造の出来事です。第1章3節にはこう記されています。

神は仰せられた。「光、あれ」。すると光があった。

このように、天地創造の出来事について創世記は、神が「〇〇あれ」と言葉を発する、「すると、そのようになった」という書き方をしています。こうして、神の言葉は出来事を引き起こすのです。このような神の言葉をキリストは四人の漁師たちに向けてお語りになったのです。

イエスは言われた。「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしてあげよう」

すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。

この時、ガリラヤの漁師たちは、一瞬にして洗脳された状態になったというのではありません。言われたとおりにしか動くことのできないロボットになってしまったというのでもありません。

その証拠に、この漁師たちはこの後、弟子となってキリストと共に伝道の旅をするなかで随分とキリストの言葉を誤解し受けとめてもいるのです。キリストが捕らえられると、キリストを置き去りにして逃げてしまう弟子たちであった。人間としての弱さをもったままの弟子たちに変わりはなかったのです。

そういう漁師たちを、キリストは強制的に「来なさい」と引き込んだとか、猟師たちを一瞬にしてマインドコントロールしたというのではない。招かれたのである。その招きをシモンやアンデレ、ヤコブやヨセフは喜んで聞いた。嬉しかったのだと思います。シモンやアンデレ、ヤコブやヨセフといった人たちがすぐにイエスに従ったとき、そこには大きな喜びがあったのです。

戦時中のこととしてこんな話をきいたことがあります。中学校の校庭に男子生徒たちが集合させられた。校長先生の話が終ると団の上に立ったのは陸軍の軍人でした。この軍人は、陸軍少年飛行兵を募るためにやってきたのです。軍人がひとしきり演説をすると、生徒たちに目をつぶらせて、お国のために航空兵として志願したいと思う者は手を挙げるようにと、言いました。最初はだれも手を上げません。そこで軍人は何をするのか。誰も手を挙げていないのに、――よし、よく手を挙げた。よし、よく決心した。おお、また手が挙がった。こっちでも手が挙がった。すごいすごい…… そうして大方の生徒たちが手を挙げているということになる。

こういうのは招きとはいいません。目を閉じさせる段階ですでに心理操作が始まっている。そして、おそらく手を挙げた生徒たちは喜んで手を挙げてはいないのです。義務感に駆られてということになる。

 キリストの招きには、召命には喜びがあります。キリストは神の言葉によって、私どもを喜びへと導いてくださる。そして必要なら、私たちもまた網を捨てる事ができるようにしてくださるのです。                     

 

(2021年7月18日 三位一体後主日礼拝)

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