マルコの福音書第1章14~15節

マルコの福音書第1章14~15節

「キリストのライフメッセージ」

 今、お聞きした聖書には、いよいよキリストが伝道をお始めになったことが記されていました。それによるとキリストが最初に向かって伝道地はガリラヤありました。ここに「ガリラヤ」という地名が記されているのは、それは単に、キリストによる伝道開始の場所がどこであったかということだけを言おうとしているのではありません。福音書の著者は、キリストがガリラヤ地方で伝道をお始めになったということに特別な意味を見出して「ガリラヤ」という地名を書き記しているのです。そのことを知るために、ガリラヤという地域がどういうところであったかを少し紹介しましょう。

 私たちが福音書を読んでいてガリラヤという地名が出てきたときに、いつでも思い出せるようにしておくとよいことは、ガリラヤという地域は、他の地域に住むユダヤ人からはあまり評判が良くなかったということです。それにはこういう理由があります。このガリラヤ地方には、ユダヤ人よりももっと古くからカナン人と呼ばれる先住民が住んでいました。この先住民は神を信じていない人たちであったため、ユダヤ人は軽蔑を込めてカナン人のことを異邦人と呼んで嫌ったのです。

 ところが、このガリラヤに住むようになったユダヤ人は、長い年月の中でカナン人の生活習慣を随分と採り入れるようになっていったのです。そういうガリラヤ地方のユダヤ人の生活というのは、他の地域に住んでいるユダヤ人からすれば、神を信じる者としての生活が崩れた芳しくないものに見えたのです。そのために、エルサレムのような町に住むユダヤ人は、ガリラヤ地方に住むユダヤ人をガリラヤの人たちと呼んで、見下げるようなところがあったのです。このようなガリラヤをキリストは選ばれ、そこへ行かれた。そこで神の福音を宣べ伝える伝道をお始めになったのでした。

 キリストが宣べ伝え始められた神の福音とは、神によってもたらされる喜びの知らせ、勝利の知らせのことです。そのような福音が宣べ伝えられる場所としてふさわしいのは、神を礼拝する神殿のあるエルサレムであり、そのエルサレムのあるユダヤ地方であると、当時、多くの人々はそう思っていたでしょう。                         ――神を信じていない人たちがもともと住んでいた地域、そして、そういう神を信じていない人たちの生活習慣や因習の強い地域は、福音を伝えるには不向きではないか……。そういうところには福音は伝わり難いのではないのか。福音を伝えても伝わらないのではないか……しかし、キリストはそのようにはお考えにならなかったのです。

 キリストがガリラヤに行き、そこで福音を宣べ伝えられたということは、そのこと自体が私たちにとって既に福音といえるでしょう。それはこう言えるからです。        ――キリストは、日本のように様々な宗教、習俗習慣のある国にも福音を宣べ伝えるために来てくださいます。キリストは、私たちの家庭、教会と縁のない、そういう家庭にも福音を宣べ伝えるために来てくださるのです。そのことを実現するために、キリストは教会をお用いになります。

そこで、皆さんにお願いしたいことがあります。私たちの街、家庭に福音が伝えられるためには、ただ教会堂で待っているだけでは足りません。福音を語る者が教会堂の外へ出て行かねばなりません。牧師がずっとこの教会堂の中にいても、それでは福音を広く伝えることはできません。かといって、牧師が、あちこち歩き回って――聖書の話をしますが玄関に入れてください……などというやり方をすればかえって怪しまれるだけです。

 そこで、皆さんに牧師を引き出して欲しいのです。皆さんの周辺にいるご親戚やご友人の方が、もし――ああ、なんでこんな辛いことばかりが続くのかねえ。私は何か悪いことでしたのかねえ……と漏らすのを聞いたときには、――私が通っている教会の牧師さんはいい話をしてくれるから一度聞いてみない。なんだったら、牧師さんに私の家に来てもらうから……というふうにして家庭集会を開く段取りをしていただけたらと思うのです。そうして行われる家庭集会が一回きりでもかまいません。そのようにして行われる家庭集会、牧師の訪問、あるいは牧師でなくても皆さんがクリスチャンとして、悩める人の傍らに赴くことを通して、キリストは今も私たちにところにも、この日本というガリラヤにも来てくださるのです。

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 さて、ガリラヤに行かれたキリストが宣べ伝えた福音のメッセージについて、マルコの福音書はこう記しています。

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 この言葉は、キリストが伝道をお始めになった最初に、一度だけ語られたというのではなくて、キリストのなさった伝道でいつも語り続けられていたメッセージであったといえます。そのメッセージを最大限に短く要約したものといえます。このキリスト言葉は、句読点の区切りで言えば、3つの言葉から成っているといえますが、今朝は「時が満ち、神の国が近づいた」「悔い改めて福音を信じなさい」という二つに区切って、それぞれの言葉を聴きとりたいと思います。

 先ず前半の「時が満ち、神の国が近づいた」について。これこそは、キリストがお語りになった福音の中心です。この点、たとえはパウロが語った福音の中心は、何と言ってもキリストの十字架による死と復活による勝利、つまりキリストが罪と死に打ち勝ってくださったということでしょう。それに対してキリストは神の国が近づいたということを常に福音として語りました。そして語るだけではなくて神の国が近づいたことを人々に証明することもしました。

 この後、福音書を読み進めていくと、第1章の後半から第2章にかけて、キリストが汚れた霊に取りつかれた人をいやし、重い皮膚病を患っている人をいやされる出来事がでてきます。こうしたキリストによるいやしは、人間の目には奇跡として映りました。キリストは、そうした奇跡を行うことで自分の力を誇示したわけではありません。そうではなくて神の国が近づいたことを証明するために、汚れた霊に取りつかれていた人をいやし、重い皮膚病の人をいやされたのです。こうした奇跡的ないやしの意味というのは神の国が近づいたことを告げるメッセージの一部であったといえます。

 奇跡的ないやしによっても明らかにされた神の国とは、神による恵みの支配ということを意味します。そして更に神の国が「近づいた」ことをキリストは伝道なさったのでした。

 この「近づいた」ということも、注目したい言葉です。駅で電車を待っているとき、こういうアナウンスを聞きます。――まもなく電車が到着します。あぶないですから白線の内側にお下がりください。「まもなく電車が到着します」というとき、これはもうほとんど「電車が来ました」と同じ意味です。ですから駅のホームで子どもを連れた親は、待ちくたびれていた子どもに言います。――ほら、電車が来たよ。こういうときの「来た」と、今朝の聖書の「近づいた」という言葉は同じ響きをもっているといえます。

 またこうも言えるでしょう。電車がホームに来てしまってから白線の内側に下がったのではおそい。電車が近づいてきたから下がる。だから言葉の上では電車が「来た」「近づいた」とはほとんど同じことなのです。神の国が近づいたということも、これは神の国が来たと言ってもよいほどの言葉なのです。実際に、そのように翻訳している聖書もあるほどです。

 そして電車が近づいたときには――白線の後ろ側にさがるように、と語られるのに対して、神の国が近づいたことでは「悔い改めて福音を信じなさい」と語られます。「悔い改める」という聖書の言葉(ギリシャ語)には……向きを変えるという意味があります。恵みの支配をもって私どもを慈しみ憐れんでくださる神に心を向けること、それが悔い改めるということ。このような悔い改めには、大きく二つのあり方を考えることができます。

 ひとつは、これまで――私は神を信じない。神の救いなど私には関係ないと思っていたそういう人が、神を信じ、神の恵みを受け入れるという、心の向きを180度変えるような大転換ともいえる悔い改めがあります。クリスチャンではなかった人がクリスチャンになる。洗礼を受けるというときに、この大転換としての悔い改めがあります。

 もう一つの悔い改めというのは、先ほどの大転換としての悔い改めをした人、つまりクリスチャンが日々行う悔い改めです。改革者ルターの最も有名な言葉にこういうものがあります。

「私たちの主であり、真の教師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい』と言われる時、それは私たちの生涯が日々、悔い改めであることを求めているのです」

 このルターの言葉に対して、日本のある有名な牧師が――日々悔い改めているようでは情けない。それでは進歩がないではなか。悔い改める必要がなくなるほどに、きよめられなければならないのではないか……という意味のことを言ったという話を聞いたことがあります。残念ながら、この先生はルターの言っている悔い改めの意味を全く理解していないといわざるをえません。ルターは、何か悪いことをしてしまったときにする懺悔としての悔い改めのことだけを言っているわけではないのです。

 ルターのいう悔い改めの意味を理解するために、アルプスの花畑の花を思い浮かべてみることが助けとなります。アルプスのような高い山の上には建物などによってできる影がありません。そういう場所に咲く花は、日の出から日没まで、太陽の光の下で花を咲かせている。その花をよく観察すると、花は太陽の方角に向いて咲く。そして太陽の動きに合わせて、花はぐるーと一回り、首を回すようにして自分の顔を太陽に向け続けるのだそうです。

 ルターがいう日々の悔い改めとは、悪い事を毎日毎日繰り返すたびに悔い改めるという意味ではなくて毎日毎日、心新たに神に心を向ける。恵みの支配をもって私どもに御顔を輝かせてくださっている神に、自分の顔を向け続けることなのです。そうしてこそ、不安から、悩みから、恐れから、怒りから解き放たれることができます。そうしてこそ、罪と戦う姿勢をとることができます。そのような福音をキリストは、先ず、ガリラヤに行かれて宣べ伝え、ご自身の伝道をお始めになったのです

  

                       (2021年7月11日三位一体後主日礼拝説教)

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