マルコの福音書第1章12~13節

マルコの福音書第1章12~13節

「荒野でのキリスト」

 

 イエス・キリストがヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになった後、どのくらいの時間が経ってからのことかはわかりませんが、キリストは荒野で40日もの間とどまり、そこでサタンの誘惑をお受けになりました。神の御子である方が、どうして荒野でサタンの誘惑を受けられたりしたのか。その理由を聖書は、はっきりとこう記しています。「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」

 キリストは洗礼をお受けになった後、独り静かに祈りの時をもとうとして荒野に行かれたというのではありませんでした。キリストは「荒野に追いやられた」のです。この言葉を新共同訳聖書は「送り出された」と翻訳をしていました。個人的にはこの「送り出された」という翻訳にも良い面があると感じていますが、送り出されたというと、少し弱々しい感じがするかもしれません。

朝、子どもが学校に出かける時間が来ているのに、ぐずぐずしているのでお母さんが、さあ、もう時間ですよ、と子どもを「送り出す」ということがある。しかし、それでも子どもが腰を上げないでいると、さっさと行きなさい!と子どもはお母さんから「追いやられる」ようにして家を出るということになるでしょう。「御霊はイエスを荒野に追いやられた」とは、はっきりとした強い力に促されてキリストは荒野に向かったということです。キリストには洗礼を受けた後で荒野には行く予定は全くありませんでした。しかし、その全く行く予定のなかった荒野に聖霊によって「追いやられた」。それは言い換えれば、キリストは天の父・神によって「送り出されて」荒野に行かれたということです。

 

ところで「荒野」と聞くと皆さんはどんな場所、どんな土地を思い浮かべるでしょうか。私たちは荒野と聞くと、荒れ果てた土地、岩のごろごろしている緑の少ない土地の様子を思い浮かべます。しかし、今朝の聖書に使われている「荒野」という言葉には、そもそもは荒れた土地という意味はありません。

「荒野」と訳されている原文のギリシャ語は「捨てられた」という意味をもっています。最初から、人が住めないような荒れた土地としての荒野もあるでしょうけれども、今朝の聖書に出てきている荒野は、人々から捨てられた土地のことなのです。人々に捨てられ、人が住まなくなったから土地が荒れて行く、結果として荒野になったのです。そういう土地はますます人々から見放される。だから「荒野」とは見放された土地ということもできます。そのような土地である荒野にキリストは追いやられたのでした。

 

このことに、私たちは一つの福音を見出すことができるのではないでしょうか。そこで考えてみたいことは、私たちにとっての「荒野」ということです。『人々から捨てられた土地』『見放された土地』とまでは言わないまでも『人々が行きたがらない場所』というものがあります。

皆さんは――できれば行きたくない場所と聞くとどんな場所を思いだされるであろうか? できることなら病院には行きたくないな、病院が嫌いだという人にとっては、その病院が荒野と言えるかもしれません。

ストレスがたまりにたまって会社を休みたい。学校に行きたくない。そう思ってしまっている人にとっては、

会社や学校は荒野のような場所ということになるかもしれません。

――その場所に足を運ぶことが辛い。そこで生活し続けることが辛い……と思われる場所。そういうひとりひとりにとっての「荒野」の現実があります。そうした場所に神はキリストを送り出してくださる。キリストは、私たちの「荒野」に来てくださるお方なのです。そして、それはただ来てくださるだけというのではありません。それについては後に触れることにしましょう。

マルコの福音書は、マタイやルカに比べると、同じ出来事についての記事が簡潔・シンプルであるということを何度も申し上げてきましたが、荒野でサタンから誘惑を受けた出来事についてもマルコの記事は実にシンプルです。記事の長さについて言えば、マタイは11節、ルカは13節ありますが、マルコはたった2節しかありません。ですからマルコの福音書には、キリストがサタンからどのような誘惑を受けられたのか、それをキリストはどのように跳ね返したのか、といったことはただの一言も触れられていません。マルコの福音書は、キリストとサタンの対決の様子とは別のことに注目をしているからです。それをこう記しています。  

 

イエスは40日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。

イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが使えていた。

 

キリストは「野の獣とともにおられた」といいます。この「野の獣」というのは、狼のような人間にとっても襲われると危険な動物のことです。そのような獣のことを書くのであれば「イエスの周りを野の獣がうろうろしていた」と書いたほうが良さそうなものですが「野の獣とともにおられた」と聖書には書かれている。ここが注目点です。まるで、獣とキリストが何事もなく一緒にいたというような書き方をしているからです。この「野の獣とともにおられた」と書かれていることについて、大きく二つの理解がなされてきました。

 

一つの理解は、キリストは40日間、荒野におられた時、野の獣がうろうろしていたけれども、天使たちがキリストを守っていてくれていたおかげでキリストに害はなかった。だからキリストは、野の獣とともにいることができたと解釈するものです。

もう一つの理解は、「野の獣とともにおられた」ということにイザヤ書の言葉が実現したと受けとめるものです。イザヤ書の第11章には『平和の王』としての救い主のことが記されています。平和の王がお出でになるとどのようなことがおこるかについて、こう記しているのです。

 

狼は小羊と共に宿り、豹(ひょう)は子やぎとともに伏し、

子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。

雌牛(めうし)と熊は草をはみ、その子どもたちとともに伏し、

獅子も牛のように藁を食う。

乳のみ子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。

 

預言者イザヤは、平和の王が来てくださる時、人と野の獣との間にさえも平和が訪れる、そのようなパラダイスの幻を見たのです。そのパラダイスが、人々から見捨てられ、見放された土地に実現した。神が平和の王であるキリストを荒れ野に送り出して下さったからです。

そしてキリストは、私たちにとっての「荒野」にも来てくださる。ただ来て下さるだけでなくそこに平和、平安をもたらしてくださるのです。これこそは、今朝、私たちに与えられている福音です。

 今、紹介した二つの理解は、どちらか一方だけを正しいとせずに両方の意味を受けとめても矛盾はありません。ただ、預言者イザヤ書の語った平和の王の登場によって人と獣が和らぐほどの平和が、荒野に実現したという理解をしたときに、それならば天使たちは何をしたのかということが問われることになるでしょう。これについてもはっきりとした理解があります。

 

聖書は「御使いたちが仕えていた」と記しています。「仕える」という言葉の原文のそもそもの意味は、食べ物を給仕するということなのです。ですから、イザヤ書の預言が実現したという理解に立つとき、天使たちの務めは、野獣がキリストに手を出さないようにということではなくて、キリストに食事の世話をすることであったと理解します。マルコの福音書も「仕える」と記しているわけですから。

このことからも分かりますように、マルコの福音書は荒野で40日間をすごしたキリストが断食をなさったということは言いません。むしろ、天使たちが食事の世話をしてくれていたということを伺わせるような書き方をしているのです。

 

 マタイとルカの福音書が記している荒野でのキリストは、断食の空腹に耐えながら、キリストご自身がみ言葉をもってサタンと闘ってサタンを退かせる、いわば戦う強いキリストです。こうしたキリストが、断食による空腹に耐えながらサタンと戦い、サタンに負けることのない強いお方であるということは私たちにとって頼もしいことといえるでしょう。

それに対してマルコの福音書は、神の遣わす天使たちに仕えられ、助けられながら荒れ野で耐えるキリストを伝えてくれているとえるのです。これはこれで、私たちにとって一つの励ましになることでしょう。もしかすると、私たちにとっての励ましになるキリストの姿ということでいえば、マタイやルカが伝えてくれている強いキリストの方ではなくてマルコの福音書が伝えてくれているキリストの姿の方かもしれません。

 

 マルコの伝えてくれていることによれば、キリストは何から何まで、自力でがんばられたわけではないのです。私たちと同じ肉体を持つ、ひとりの人間として生きてくださったキリストは、天使たちの助け、すなわち神の助けを受けながら、荒野におけるサタンの誘惑に耐えたのです。

そのことは更にこう言っても良いでしょう。荒野においては、キリストでさえも神の助けを受けながら耐えたのです。そうであるのですから、ましてや私たちが荒野で耐えるために助けが必要であるということは天の父である神は一番よく知っていてくださるのです。そして、天の父は私たちにも助け手を送ってくださる。そのことを望みとして信じてまいりたい。

 

天の父が送ってくださる助け手とは天使以上のもの、天使に勝るものです。神は、聖霊を送ってくださり、

その聖霊の働きによって、キリストが常に私たちと共にいてくださるという、大いなる助けを与えて下さいます。

この神の助けを本気で信じて生きる者を、天の父はそれぞれの荒れ野に送り出されます。

――ああ、今、私はなんでこんな辛いところにいなければならないのか。……と、思うことがあれば、

それは、もしかすると天の父が、その人を荒野に送り出しておられるからかもしれません。天の父が、ある人を荒野に送り出すということは、その人を神が信頼しておられるからです。

 

神から見放されている人は、ただの一人もいません。

しかし、神から見放されることはないというそのことを知らないでいる人はたくさんいます。

――あなたは決して神から捨てられてはいない、見放されてはいない。それどころか、愛されていいますよ!

そのことを証しするために、天の父は、私たちを荒野に送り出されるのです。

それだからこそ、天の父は、荒野のなかで耐えて生きるために必要な助けをも与えてくださるのです。

 

(2021年7月4日三位一体後主日礼拝説教)

 

 

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