マタイの福音書第27章45~66節

マタイの福音書第27章45~66節 

「受難のキリスト Ⅱ」

 

 十字架に磔(はりつけ)となったキリストは、苦しみのなかでこう叫ばれました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

 他でもありません。神の御子であるお方が神に向かって「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と苦しみの声をあげられました。これは不可解なこと。異常なことです。ですから、ある人たちはこのキリストの叫びについてこう考えました。

 ――神の御子であるキリストがこのような言葉を口にされたということは、まったくありえない。これは福音書の著者が間違ったことを持ち込んでしまったに違いない……。そのように考える人たちのいた時代のたいへん古い新約聖書(写本)のなかには、このキリストの叫びを「わが神、わが神、どうしてわたしを辱(はずかし)められるのですか」と記しているものがあります。このような小さな変更を加えることで、「わたしをお見捨てになった」という部分を取り除こうとしたのです。

 また新約聖書と同じ時代に書かれた書物の一つである『ペトロの福音書』(新約聖書として取り入れられませんでしたが他にも『トマスの福音書』などがあります)は、十字架上のキリストの叫びについて「わたしの力よ、わたしの力よ、どうしてわたしを見捨てるのか」と記しています。キリストは神に見捨てられたわけではなく――ああ、私の力はもはや尽き果てた!ということを叫ばれたというのです。     

    このように、イエス・キリストが十字架で死なれてまだまもない時代、キリストを受け入れていた人たちのなかに十字架上のキリストの叫びにつまずく人が少なからずいたのです。キリストを信じてはいるのだけれども、どうしても、神の御子キリストが神に見捨てられるということを受け入れることができなかったからです。それでも教会は、マタイの伝えてくれている「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という苦しみの叫びを、これを紛れもないキリストの言葉として聴き続け、受けとめてきました。

    この言葉を書き記したマタイにとっても、この言葉は分かりやすい、受け入れやすい言葉ではなかったと思います。むしろ不可解な言葉であったことでしょう。しかし、この言葉こそは、十字架にかかられたキリストの言葉として何としても伝えなければならないという強い思いを込めていたに違いありません。だからこそ、キリストの叫びを伝えるにあたって「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というキリストの唇から実際に発せられたアラム語の音声をそのまま書き記してもいるのです。できることならキリストの肉声までも伝えたいとマタイは願っていたのでしょう。       そのマタイは、十字架にかけられたキリストが受けた苦しみについて、キリストを磔にするための釘の大きさや、その釘を打ちつけるハンマーの音、釘を打ちつけられるときにあげたであろうキリストの叫びなどについては何一つ記していません。そんなマタイが、キリストがお受けになった十字架の苦しみについて先ず記したことは、キリストが神の御子であるということに狙いを定めて、そのことを侮辱する人々の言葉でした。

「おまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」

「彼は神に頼っている。神のお気に入りなら、今、救いだしてもらえ。

『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」 

こうした言葉の剣は、神の御子としてのキリストの心を鋭く切り裂き、貫き通していました。しかし、それでも天の父から助けの手が差し伸べられることはありませんでした。だから、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とキリストが叫ぶ理由は十分にあったのです。しかしです。キリストの苦しみは、助けの手が差し伸べられなかったということに尽きるものではないのです。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながらキリストは、これまで誰一人として受けたことのない苦しみをお受けになっていました。それはどのような苦しみであったのか?

ルターやカルヴァンといった私たちプロテスタントの信仰の父たちは、この時のキリストの苦しみについて同じことを述べています。それが今日の私たちが十字架を理解するうえでの基本となっています。

――キリストは十字架に磔になった時、私たちの代わりに神による法廷に立たれた。そして神の裁きをお受けになりました。そのときキリストに何が起こったのか。(私たちの代わりに)罪人として神から見捨てられるという底なしの絶望がキリストを襲ったのです。

ですから「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、神に見捨てられるという、本来であれば私たちが受けなければならない罪のもたらす苦しみと絶望をキリストが代わりに受けて下さったことの証しなのです。こうしてキリストは、世の罪を取り除く神の子羊として犠牲となられたのです。

クリスチャンの作家、椎名麒三(教会にも行っていた人)がこんなことを口癖のように言っていたそうです。――牧師にせよ、神学生にせよ世間知らずである。世の中の苦労を知らない。だから牧師の話を聞くのはよいのだが、世間知らずの牧師が語る言葉は綺麗ごとで終わる。そうならないように、少し苦労させた方がよいのではないか。ぬくぬくと教会の中だけで育てないで、工場で労働者と一緒に働かせるとかして、世間の荒波にもまれないといけないのではないか……

    この椎名麒三の言っていたことを久しぶりに思い出し、私は自分自身のことを考えながら、なるほど、そうかもしれないなあと思わせられています。

 わたしは、宇都宮共同教会に赴任して以来、普通のサラリーマンと同じように、月曜から金曜まで1日8時間、週40時間の労働をしています。中小企業の労務管理や建設業関係の許可申請書類作成といった仕事をしています。もう2年をすぎましたが、正直まだまだ十分な仕事ができていないところもあります。同じ事務所の同僚に助けてもらいながら、時には面倒をかけてしまいながら、それでも何とか続けています。大きなミスはありませんが、もし失敗をするとお客さんの会社に迷惑をかけることになる。そうした緊張感の中にあっても、小さな失敗が結構あったりします。そのことで時にはくたくたになってしまうことがあります。また、この社会の何とも言えない不公平、格差、理不尽なことについても(コロナ禍はそのことを加速、拡大している)――ああこれが現実なんだなあ、ということを思わせられることがあります。

 そうした中で私は、ここ2年程、キリストの〈苦しむ人としての姿〉を改めてしみじみと思い起こすことが多くなりました。そうしながら、自分の過ちやふがいなさ、世間のさまざまな不公平や理不尽に囚われずに生活する健やかさのようなもの与えられていることを思うのです。

     何年か前から、学校の教師になるための教員免許の更新ということが行われるようになっています。学校の教師を続けるためには、免許更新の度に研修を受けなければならない。牧師も一度任命を受けたら引退するまでずっとそのままというのではなくて、15年ぐらい務めたら1年間は教会の仕事から離れて、社会の荒波にもまれる仕事に就くような仕組みを作った方がよいのではないか……椎名さんはそういうことを言いたいわけでもないのだろうと思います。

 椎名さんが言うように、牧師の語る言葉が綺麗ごとになるとしたら、それは社会を知らないという理由もあるかもしれませが、それ以上に問題なのは、慣れがもたらす弊害として、キリストの十字架に対する受けとめ方に深みがなくなるからであろうと思います。その結果、十字架上のキリストの叫びを聴く耳が鈍くなってしまう。

 十字架に磔になったキリストがどれほどの絶望をお受けになったか、どれほどの苦しみを受けられたのか。それはこの社会で仕事をし、暮らして行くための悩みや苦しみよりも大きいものなのです。この社会がどれほど悪の歯車によって動いてしまっているか。クリスチャンであっても、その歯車から自由ではない。こうした社会で生きていこうと思ったら、もう妥協するより仕方がない。長いものにまかれるようにして、力のある人に媚びながら生きるしかない……そう思ってしまってもしかたがないほどの現実の中で、私たちはどうしたら人間らしく誠実な気持ちをとりもどして生活をすることができるのか。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

このキリストの叫びを、魂の耳を開いて聴くよりほかに道はないのではないか、とそう思います。悪の歯車によって動かされかねない、また事実、動かされてしまっている私たちが、それでも諦めないで、人として誠実に優しさをもって生きるために必要なことは、この世のため、私たちのために神の裁きを受けて「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた十字架上のキリストを仰ぐことからしか始まらないのです。こうして、この世の悪の根深さを知ることと、世の罪を取り除く犠牲の子羊となられたキリストの苦しみを受けとめることとは一つとなるのです。

 最後に、もう一つのことを心にとめましょう。そのためにキリストが弟子たちにお語りになった言葉を思い起こしたい。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか」(マタイの福音書第16章24節)

 自分の十字架を負ってキリストに従って生きるというこの言葉を聴くと、私たちは何とはなしに、健気に立派に十字架を負う信仰者の姿を思い浮かべることが多いかもしれません。そのためか――今の私にはとても十字架を負うことができない……と心が折れてしまうような気持にもなる。そのようなときどうしたらよいのか。十字架上のキリストを心の目でよく見ることです。そしてキリストがどのようにしてご自分の十字架の苦しみを担われたかをよく想うことです。

 キリストは十字架に磔になったとき、その苦しみにもかかわらず、立派なことを語られたのでしょうか。そうではないのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、およそ神の御子としてはふさわしくない、耳を疑うような、苦しみを露にする言葉を叫ばれたのです。しかし、このとき、キリストは絶望しきった人が口にするように――神も仏もない、とつぶやいたのではありません。確かに立派な言葉ではない、自分の弱さをさらす言葉ではありましたが、それを天の父に向けて叫んだのです。そうしながら、この世を救うためにご自分の十字架の苦しみを担われた。キリストですらも、こうしてやっと、ギリギリのところで十字架を担われたのです。このキリストよりも、私たちの方がもっとスマートに、立派に十字架を担うことができるはずがありません。キリストは、ご自分の苦しみをありのままに、天の父なる神に向けて叫ばれながら、そうしながら十字架を担われまとした。それは、私たちが自分の十字架を負うことについての手本でもあるのです。               

 (2021年3月28日 棕櫚主日)

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