マタイの福音書第27章27~44節

マタイの福音書第27章27~44節 

「受難のキリスト Ⅰ」

 

 イエス・キリストの十字架刑について記している聖書をいま共にお聴きしました。そこで聴いたことの中には、キリストを十字架に磔にしたときの釘の大きさであるとか、その釘をキリストの手のどこに打ちつけたのかといったようなことについては何一つ全く語られていませんでした。

十字架刑というものがどれほど惨たらしい残酷なものであるか、また、キリストはその肉体にどれほどの苦痛を受けられたか、そうしたことについて、聖書は徹底して何も記していません。この福音書の著者であるマタイは、キリストの受けた十字架刑の残酷な仕打ちや肉体の苦痛については、敢えて何も記さず沈黙をしているからです。

私たちと同じ生身の肉体をもって生きられたキリストが、十字架に磔になることで肉体に激しい苦しみを負ったことは、いうまでもない事実です。それを軽んじることはできません。その一方で忘れてならないことは、キリストが負った肉体的な苦しみを思い起こさせることについて、たとえば、キリストの体に打ちつけられた釘のことなどについて、聖書は徹底して沈黙を貫いているということです。

 この聖書が沈黙している部分について、いろいろと詳しく語る説教者もいないわけではありません。しかし、そうした説教の多くは、聖書そのものが語ろうとしていることを受けとめ損なってしまっていることが多いのです。そして、いやがうえにも、十字架刑がもたらす惨たらしい苦痛を強調して止まないのです。しかし、繰り返し申しあげますが、聖書は十字架刑そのものの残酷さについては敢えて何も語ろうとしていないのです。

ですから、今朝の聖書を読むときに心すべきことは、ここに語られていることを丁寧に聴きとることです。そして、聖書に書かれていることだけでは物足りない、よく分からないからと言って、キリストの十字架を描いた映画(『パッション』という映画が話題になったときがありましてが)などに飛びつくようなことはしないことです。受難節の礼拝も今朝で5回目になります。主キリストのご受難を、私たちは聖書そのものを通して想い起し、聖書が私たちに伝えようとしている十字架の出来事とは何であったのか、そのことをきちんと受けとめてまいりたいと思います。

    キリストがお受けになった苦しみについて、今朝の聖書は先ず、総督官邸でなされた兵士たちのキリストに対する仕打ちのことを記しています。兵士たちはイエスに王の格好をさせるという悪ふざけを思いつき、王が身に着ける紫の外套の代わりに、緋色(赤い)のマントをイエスに着せました。そして、王の頭にのせる黄金と月桂樹の冠の代わりに、茨で編んだ冠をかぶらせました。更に王が手にする黄金の笏の代わりに、芦の棒を持たせました。そして「ユダヤ人の王様、万歳」といってイエスを「からかった」ことを聖書は記しています。こうして聖書は、キリストが侮辱を受けたことをはっきりと記しているのです。

 ここで見落とさないようにしたいことがあります。兵士たちはキリストに、いわば王の猿真似をさせて侮辱しているのですが、キリストが王であるということそれ自体は、まぎれもない真実であったということです。キリストは事実、ユダヤ人の王でありましたし、ユダヤ人だけの王ではなく、世界中の全ての人々のための王としてこの世に来られた方でありました。そのことを笑いものにしている兵士たちの侮辱というのは、神の御子を王としてこの世に遣わされた父なる神に対する侮辱、神のご計画に対する侮辱でもあったということができます。

 

 さて場面をゴルゴタに移します。十字架に磔となったキリストは服を奪われました。その服はくじ引きで人々の手に渡って行きました。服すらも奪われてキリストは磔になったのです。そして、その左と右には2人の強盗が磔となりました。この二人の強盗がどのような悪事を働いたのかは分かりません。しかし、十字架刑になるほどですから、余程の悪事を犯していたに違いありません。そのような強盗に並び、挟まれるようにしてキリストは十字架に磔にされたのです。

 そのようにして十字架に磔になったキリストのところに通りすがりの人たちが集まってきました。また、イエスを裁いた祭司長たち、律法学者たち、長老たちもやってきました。いわば、十字架にかけられたキリストの目撃証人たちの登場です。これらの人たちはイエスを嘲笑し、辛辣にこきおろして言い放ちました。

「他人は救ったが、自分は救えない…… 神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」

これは、いうなれば、開いている傷口をかきまわす鋭い磨き抜かれた剣のような言葉です。人々は言葉の剣でもってキリストを侮辱したのです。キリストは、神の御子としてのご自分の使命を一時たりとも放棄することなく大切に守ってきました。そのキリストの心に狙いを定め、踏みにじるようにして人々はイエスをののしったのです。

「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ……」

 キリストは、捕えられる前、ゲツセマネで天の父にむけて「あなたのみこころがなりまように」と祈られました。キリストはご自分が十字架にかかることで天の父のみこころが実現することを何よりも大切にされてきたのです。そんなキリストの心を徹底的に踏みつけるような言葉の剣が、十字架に磔になっていたキリストを刺し貫いていた。そのことを聖書は実に丁寧に物語っています。こうして聖書は、キリストの受けた苦しみの重要な一つが、十字架にかかられたキリストを刺し通していたのは、神の御子に対する恐るべき侮辱、あざけりの言葉であったことを伝えているのです。

 その際に、ここでも、もう一方のことに注目することを忘れないようにしたいことがあります。それは、人々のキリストに対するののしりの言葉は、確かにキリストを侮辱するためのものなのですが、ののしっている言葉そのものは、いずれもイエス・キリストがどのようなお方であったかということを言い当てるものになっているということです。

「神の子」であるキリスト

「他人を救った」キリスト

「イスラエルの王」であるキリスト

「神に拠り頼んでいる」キリスト 

 そのお方が今や十字架に磔となっている。そのキリスト罵倒する人々や祭司長らの口を封じさせる者はいませんでしたし、天の父もそれをなさらなかったのでした。神の御子としてのキリストが、これほどまでの苦しみを受けられた、その意味を汲みとるために、古くから教会が大切に思い起こしてきた旧約聖書の言葉があります。イザヤ書の第53章にはこう記されています。

彼は蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。

人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。

それなのに私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

その打ち傷のゆえに、私たちは癒された……

 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが口を開かない。

屠り場に引かれて行く羊のように……

 

しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。

彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら……

主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 イエスはどうして、あんなにも侮辱を受け、あざけられながら、十字架刑の苦しみを受けなければならなかったのか。十字架にかけられたイエスを見物にするために集まっていた人々や祭司長らは、イエスが十字架刑になったその理由については、こう確信していたことでしょう。――あの男は、神から見捨てられたのだ……と。しかし、預言者は別の理由を述べています。

私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために

私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒されるために

すべての人間に、平安をもたらすため、癒しを与えるためにキリストは苦しみを受けられた。そのように預言者は、神のことばを告げて止まないのです。このことについて、皆さんは、アーメン、それは真実ですといえますか? アーメンといえることは幸いなことです!

――2000年以上前の出来事が、どうして、私のためにといえるのか?

――キリストが侮辱を受けて苦しまれたことと、私の罪のために苦しまれたということは、どのように結びつくのか?

このことについて、方程式を解いてみせるようにして説明することはできません。キリストの受けた苦しみと私たちの救いの関係を、他の何かにたとえて説明しようとしても、うまくいきません。

キリストは十字架にかけられて、全ての人々に平安と癒しを与えるために苦しみをお受けになった。これは、神が人間を救うためにご計画されたことであり、神のなさり方であったとした言いようがありません。これを説明することはできない。しかし、それで良しとしようではありませんか。

キリストが、天の父のみこころに信頼して十字架の苦しみをお受けになったように、私どもも、天の父のみこころに信頼しようではありませんか。人間を救うための神のご計画を、神のなさり方を、すなわちキリストの受難を私たちのためのものとして受けとめようではありませんか。

 

(2021年3月21日 受難節)

 

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