マタイの福音書第18章15~20節

マタイの福音書第18章15~20節 

「教会の危機管理」

  1週間前の21日に足利市で山林火災が発生し、昨日まで炎と煙が残りました。ニュースによると、大方、火は消し止められたようで、今のところ、けがをした人や民家への被害の確認はされていないようです。しかし100ヘクタールを超える山林が焼け、山の中にあった神社の建物が全焼しました。この山林火災が発生してから5日目、まだ鎮火のめどが立たないとニュースで報じられていた頃、総理大臣官邸内にあります危機管理センターにこの山林火災のための情報連絡室が設置されました。この危機管理センターという組織の名前の中にあります「危機管理」という言葉は、災害をもたらすような大きな台風が発生した時や強い地震が起こった時にも耳にします。また、病院や学校などの施設でも危機管理ということが言われるようになっています。危機管理とは、不測の出来事がひき起す危険や破局(悲劇的な出来事)に対処するための体制とか仕組みのことを意味します。

今朝、私たちが聴きました聖書は一つの言い方をすると、教会の危機管理について語られているということができます。教会のための危機管理について、他でもありませんキリストがお語りになっているのです。 

キリストが教会について直接語っている言葉はそう多くはありません、というよりも極めて少ない。その教会について語った少ない言葉の中でキリストは何を語られたのかというと、教会財政のこととか伝道の方法というのではありませんでした。教会運営の在り方とか、どうしたら皆が仲良くやって行けるかといったことでもなかった。キリストが教会に関して集中して語られたこと、それは教会に属する者たち、すなわちクリスチャンが罪を犯してしまった時、その罪を教会がどのように処置するかということでした。

 

教会の危機管理というと、普通は教会堂が災害にあった時とか、牧師に事故が起こったときにどうするかということ考えるかもしれません。そうしたことも大切な危機管理の課題ではあります。しかし、それ以上にもっと大切なことがある。教会にとって最も大きな危機管理の課題、処置の仕方を誤ると教会そのものがおかしくなってしまうといってよいほどの危機管理の課題があるのです。それは、教会の仲間が罪を犯してしまった時、その人をどのように導いてあげるかということです。そのことをキリストがお語りになっていると言うことをまず明確に覚えたいと思います。

 

今、申し上げたことを別な面からも考えてみましょう。

聖書を学ぶときに、ただその解釈や意味を学ぶだけでは足りない、聖書の言葉を実際に適応できるようにならなければと語られることがあります。ならば、今朝の聖書を私たちはどれだけ適応してきたでしょうか? ある人は、自分自身のことも含めて、はっきりとこういっています。

――日本のプロテスタント教会は、この主イエスの言葉を読んでも読まなかったふりをしてきた、あるいは素通りしてしまい、真剣に受けとめることをしてこなかったのではないか? 

――我々は、このみ言葉の適応を怠ってきたのではないか? それだけに、ここで主イエスがどんなに真剣な思いでこれを語っているか、そのことを我々は未だ十分に気づいていないのではないか? 

 

厳しい指摘であり、反省の言葉です。確かに私たちは、今朝のキリストの言葉を本気で受けとめてこなかった、このみ言葉の適応と実践についてきちんと考えても来なかったと言わざるを得ません。ならば、今こそ、キリストがここで、私たちに語って下さっていることに真剣に耳を傾けようではありませんか。

では、聖書そのものに耳を傾けましょう。キリストはこうお語りになりました。

「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい」

この翻訳は、いささか誤解を与えかねない訳であるように思われます。

――教会の仲間の誰かが私に対して罪を犯したなら、というふうに読んでしまいやすいからです。ここは以前の口語訳の方がより適切であるように思われる。それはこう訳しています。

「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら……」

誰に対して罪を犯したか、ということが問題なのではありません。私たちの信仰の家族であり友である仲間がもし罪を犯してしまった時、教会内に罪を犯したままになっている人がい時どうするのか? そのことをキリストは問われているのです。

 

学校におけるいじめの問題が度々起こっています。そうしたいじめの問題がニュースでとりあげられるのを見るとき、実にしばしば耳にするのは、学校や教育委員会が、何とか対面を繕うとする言い訳です。つまり、学校なり教育委員会の過ちを〈覆い隠す〉ことを謀るのです。ある集団・組織のなかで過ちが行われると、それが表ざたにならないように隠すという処置の仕方は世間のあちこちで見られることですが、それに対しては世間においても厳しい批判があります。

 もう一つ、これは日本でよく見られる罪の処置の方法といえるかもしれません。それは〈時が解決する〉と決め込んで、結局、犯された罪の問題をそのままにしておくということです。太平洋戦争が終わってから今日まで、くすぶりつづけている日本と東アジア、特に中国や韓国といった国との問題は、時間がたてば解決するという日本人の思い込みが悪い形で影響しているように思われます。

今、申し上げました世間に見られる罪に対する処置方法は教会にとっても他人事ではありません。残念なことですが教会のなかにも罪の問題を〈覆い隠す〉〈時が解決する〉ということで対処してしまう実例が見受けられます。だからこそキリストはお語りになっているのである。

「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい」

 

キリストの語られる対処方法には、一つ一つの段階、手順があります。先ず行うべきことは、相手の罪に気づいた人が、その相手のところに行って、2人だけのところで指摘をすることです。

「指摘する」と訳されている原文は、興味深いことに光にさらすという意味があります。ですらこう言ってもよいでしょう。キリストがお語りになる「指摘する」とは、み言葉の光が当たるようにしてあげるということです。み言葉が告げる神の愛と赦しの中で自分の罪に気づき、そのことを素直に受けとめることができるようにしてあげるということです。

――あなたは罪を犯しているでしょう。そんなことをしていてはクリスチャンとして証しにならないではないか……などと言ったりすることとは違うのです。「指摘する」とは、いささかも相手を責めることではありません。神の愛という光りの中に罪人として共に立つことです。

キリストは「小さな者たちの一人が滅びることは、天の父のみこころではありません」と語られてもいます。罪を犯した者が、その罪に気づかず、受けとめられず、そのために悔い改めることができなかったら、その人自身が神との関係を裂いてしまう(滅びるとはそういうことです)。そうならないことを真剣に願いながら、父のみこころを想いながら指摘してあげるのです。

 その指摘が聞き入れられなかった場合は「ほかに一人か二人、一緒に連れて行き」その複数人の証言によって、罪をめぐる事実を立証しなさいとキリストは言われます。それでも聞き入れない場合は「教会に伝えなさい」と言われる。この場合の教会とは、今日であれば、牧師を含めた教会役員会ということになるでしょう。その牧師・役員会の言うことも聞き入れないなら、その人を「異邦人か取税人のように扱いなさい」といいます。これはいったいどうすることなのか? そのことを知るために一つの実例を紹介しましょう。

 

 カトリックの修道院の一つにベネディクト修道院というのがあります。その修道院の創始者でありますベネディクトゥス(5世紀後半から6世紀にかけて、イタリアで生き活動した)がつくりました修道院のための規則に『聖ベネディクトの戒律』と呼ばれるものがあります。この規則は、後にヨーロッパの各地に建てられていった修道院の営みの原点になりました。その戒律のなかに、罪を犯してしまった修道士のために、修道院長が行うべき配慮についての規則があります。こういう規則があるということ事体、私には驚きでした。というのは修道士になるほどの人が罪を犯してしまったら、もう修道院にいられなくなってしまうのではないかと思ったからです。しかし、そうではないのです。

修道士がある一定の罪を犯すと罰則が行われます。それは先ず、聖餐に与ることが禁止される、いわゆる陪餐停止です。そればかりではなく、普通の食事も他の修道士と一緒にテーブルについて食べることができなくなります。こうした罰則は罪を犯したことを悔い改められない人を「異邦人か取税人のように扱いなさい」と言われたキリストの言葉の実践と言えます。しかし、この罰則には重要なことがある。それは修道院から出なくてもよかったということです。そして、罪を犯した修道士のために、修道院長は最大限の配慮を注ぐべきであることが規則に定められているのです。

たとえばその一つに、修道院長は他の仲間の修道士たちに「神の愛が罪を犯してしまった兄弟を支配するように祈ってあげてほしい」という祈りを求める。また、次のような言葉が『聖ベネディクトゥスの戒律』には記されています。

「修道院長が倣うべきは、一匹の羊を探し求めた羊飼いである。

この羊飼いは、身を低くして、羊を肩にのせ、羊の群れに連れ帰る。」

 

修道院長は、迷い出てしまった羊を探し求めた羊飼いの働きを率先して実践するのです。こうしてみると、罪を犯してしまった人の最も大きな棘のようになっている罪が何であるかがわかってきます。それは、神の愛から離れてしまうという罪です。いろいろな、さまざまな罪があるけれども、その最も根幹にあるのは、神の愛から離れてしまうという罪です。神の愛から離れるから嘘をつく。神の愛から離れるから盗む。神の愛から離れるから人を傷つける。その結果として――そんな罪を犯してしまっている自分をもはや神は愛してくださったりはしないだろう、と更に神の愛から遠ざかってしまうのです。

そのようにして迷い出てしまった羊を、群れに連れ帰るのが修道院長の務めだとベネディマトゥスは言っているのです。しかし、それはただ修道院長や牧師の務めというのではなくて、クリスチャンひとりひとり、そして最終的には教会全体がとりくむべきことなのです。

 

罪を犯して、忠告を聞き入れない人を「異邦人か取税人のように扱いなさい」ということを私たちが実践する場合、やはり聖餐を受けることを禁止する陪餐停止が一つの適応となります。私が聖餐を司式する時、聖餐への招きを語るときに「洗礼を受けていない者、陪餐停止の戒規を受けている者は、これ(聖餐)に与ることはできません」と告げているのは、まさに、今朝のキリストの言葉を受けとめてのことなのです。罪を見て見ぬふりをして、時が解決するだろうとそのまま聖餐に与らせるということはしないのです。

「陪餐停止」ということになれば、それはその人が何らかの罪を犯して悔い改めていないということを公にすることになります。――そんなことをすると他の教会員を不安がらせることになってしまうから、ここは穏便に、というようなことで心が揺れていたら実践できません。

しかし、断じて誤解してはならないのは、罪を犯してしまったからといって、その人を教会から排除するのではないということです。ですから、罪を犯した人を「異邦人か取税人のように扱いなさい」ということは――主イエスよ、この人のことについてはもう私たちの手に負えません。どうぞ助けて下さい。どうぞよろしくお願いしますと、キリストにゆだねることだといってもよいでしょう。

そうした教会役員会の努力、教会の努力を用いて、キリストは迷い出てしまった人を、再び救いの喜びのもとに引き戻して下さいます。キリストによって与えられた救いの恵みは、それほどの努力をもってしても守られるべきものなのです。そして、そのためにこそ教会があるのです。

教会にとっての最大の危機は、会計が赤字なることではない、会堂が雨漏りをすることでもない。兄弟姉妹が罪を犯したまま迷い出てしまうことです。そしてこの迷い出た兄弟姉妹を引き戻す羊飼いの姿を教会がしっかりと見ることができるかどうか、これこそが教会の危機なのです。そして教会の危機管理というのは、罪を犯して迷い出てしまっている仲間を、教会が力を尽くして、救いの喜びに引き戻してあげるための実践のことなのです。

 

罪を犯した人が、その罪を認め悔い改めて、キリストの救いへと立ち返ることのできることを、キリストは「兄弟を得たことになる」という言い方をしている。「得る」という言葉は得をする、利益を得るという意味の言葉です。教会はどこで得をするのか。どこで損をするのか。罪を犯した兄弟姉妹が迷い出たままになってしまう時、それは教会にとっての最大の損失となります。逆に、迷い出ていた兄弟姉妹が立ち返る時こそ、教会は最大の利益を得ることになる。それはどんなに大きな献金にも勝る利益といえるものなのです。アーメン!

 

(2021年2月28日 受難節)

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