詩篇 第23篇
「信頼の歌をうたいながら」
先ほど朗読されました聖書になかに、私たちはこう語られているのを聴きました。
「私は乏しいことがありません」
この詩篇第23篇には「ダビデの賛歌」すなわちダビデの讃美歌という題が付いています。このダビデとは、旧約聖書に出てくるイスラエルの王、世界的にも名が知られている有名な王です。
皆さんも知っての通りトランプの13のカード、キングは絵札になっています。そのなかのスペードのキングはダビデ王をあらわしています。ちなみにハートはカール大帝、ダイヤはジュリアス・シーザー、クローバーはアレクサンダー大王となっています。いずれも繁栄を極めた人たちです。その一人であるダビデが「私は乏しいことがありません」と言っているのです。ダビデは繁栄を極めた王として誇らしげにそう言っているのではありません。ダビデは神を畏れ敬う王でした。そんなダビデは神への感謝と信頼をこめて「私は乏しいことがありません」とうたっているのです。
そのようにダビデがうたうことのできた根拠について、今朝は二つのことに注目をして参ります。
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「私は乏しいことがありません」とうたうことのできる根拠の一つは「主は……御名のゆえに私を義の道に導かれます」ということです。
ここに「義の道」という言葉が出てきます。聖書に親しんでおられる皆さんの中には「義」という言葉を聞いて、たとえばパウロがローマ人への手紙に記しました「福音には神の義が啓示されて、信仰に始まり信仰に進ませるからです『義人は信仰によって生きる』と書いてある通りです」といった言葉を思い出された方もあるでしょう。このパウロが語っている「神の義」と「義の道」とはもちろん深い関係があります。
しかし、ここではパウロの言葉を引き合いに出すことをしないで、この詩篇そのものをよく味わうようにして「義の道」とは何なのかを理解したいと思います。この詩篇は、神を羊飼いに、私たちを羊に譬えるという特別な語り口をもっているのです。そのことを無視しないで、羊飼いと羊の様子を思い描きながら「義の道」ということを理解することがふさわしいといえましょう。
さて「義の道」とは、言い換えれば「正しい道」(新共同訳)ということです。ここで言われている「正しい道」とは、羊飼いから見て正しいと判断できる道ということができます。
こんなことを想像してみてください。羊に草を食べさせるために青草の原に連れて行くときにどんな道が良いか。距離があまり長くなく、崖地のような危険の少ない道が羊にとって良い「正しい道」といえましょう。しかし、その道がつねに「正しい道」とは限りません。その道に、近頃はオオカミのような獣がうろうろしているということになれば、その道は危険な道ということになります。そうなると羊飼いは、オオカミのいない道を選ぶことになります。その結果、青草の原に行くにはたいそう遠回りになる、羊にとっては少々きつい道を選ぶこともあるでしょう。しかし、それが羊のための「正しい道」になるのです。ですから、最初から〈正しい道〉と〈悪い道〉という二通りの道があるわけではないのです。昨日は〈正しい道〉であった道が、今日は〈悪い道〉になることがある。そこで羊飼いは、羊のことを配慮しながら正しい道を判断するのです。判断するのは羊飼い、羊ではありません。
これと似たようなこととして、神は私どもを「正しい道」に導いてくださいます。神は私どものことを配慮して、私どものために「正しい道」を判断してくださいます。
――それはありがたい話だ……と思いますね。しかし、ここに一つ受けとめなければならないことがあります。それは、神が私どものために判断してくださる「正しい道」は、私たちにとって、快適な道であるとは限らないということです。むしろ、神が導いてくださる「正しい道」は、苦しみや困難を感じることが多いと言っても、言い過ぎにはならないかもしれません。
羊にどの程度の思考力があるのかは知りませんが、オオカミの危険を避けるために二倍以上も歩かなくてはならない遠回りの道を歩かされた羊の中にはこう考えるものもいたかもしれません。――なんだって、こんな遠回りをさせるんだ。やだなあ。もっと近い道にしてほしいものだなあ……
神が導いてくださる「正しい道」は、私たちが自分で考える理想の正しい道とは、大きく違っていることが多いと言ってしまってもおそらく間違いにはならないでしょう。「正しい道」は、普通に人々がもつ価値観からすれば、失敗者の道、落ちこぼれの道、ドロップアウトした人の道のように映ることもあるかもしれません。
しかし、羊飼いである神は、ひとりひとりを配慮して「正しい道」すなわち「義の道」に導いて下さる。そして最後には――ああ、やっぱり神さまの導きに間違いはなかった! と私たちが神の名を讃美することができるようにしてくださいます。「御名のゆえに、義の道に導かれます」とうたわれている通りなのです。
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「私は乏しいことがありません」とうたうことのできる根拠の二つ目のことに移ります。それはこううたいあらわされています。
「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」
「死の陰の谷」とは、暗黒の谷という意味の言葉です。そこに踏み込んだら、死ぬことを覚悟しなければならないような時をあらわしています。
たとえば、思いがけなく癌の宣告を受け、あと何カ月の命と余命を告げられる。そうしたときに一瞬、目の前が真っ暗になったという話しを聞いたことがあります。私たちには実際に、真っ暗闇な暗黒の谷のなかに立つことが起こりうるのです。そういうときにでも「私は災いを恐れません」とこの詩篇はうたう。神が共にいて下さるからです。そのことを羊飼いと羊に譬えて表現すると「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」となるのです
ここに出てくる「むち」という言葉から〈飴とむち〉とか〈愛のむち〉というようなことを考えてしまうと、この詩篇が言わんとしていることがわかりにくくなってしまいます。はっきり申しあげますが、この詩篇の「むち」に〈飴とむち〉とか〈愛のむち〉という意味は全くありません。
この「むち」は「こん棒」と訳すこともできる言葉で、羊飼いがオオカミのような獣を追い払うための武器のことです。ですから「むち」にせよ「こん棒」にせよ、また「杖」にしてもそれは羊を守るための道具なのです。そして重要なことは、そうした道具には〈使い手〉がいるということです。道具だけがあっても羊を守ることにはなりません。そうした道具の使い手である羊飼いの存在が羊にとっての慰めとなるのです。
オオカミが羊を襲って来ても、羊飼いは羊と一緒にいて羊を守ります。それと同じように、神は、私どもが死の暗黒のなかにおかれることがあっても、そうした時にも一緒にいて下さり、私どもを守って下さるのです。
このことから、逆にこうも言わなければなりません。私たちはたとえ夫妻であっても、親子であっても、「死の陰の谷」を一緒に歩んであげることはできないということです。
自分の親が、あるいは夫が、妻が、病床のなかで死を前にして苦しみに耐えている時、それを傍らで見守ることは厳しいことです。まして、自分の子どもが死に瀕している様子を見るようなことになれば、それは耐え難いことでしょう。そういうところで、私たちは、苦しんでいる家族と一緒に「死の陰の谷」を歩んであげることはできないのです。どうしたらよいのか? そういう時こそ、詩篇が指し示すようにしてうたっていることを思い起こすのです。
「私は災いを恐れません。(神である)あなたがともにおられますから。」
神は「死の陰の谷」を通る人と一緒にいてくださいます。そして神だけが「死の陰の谷」を通る人と一緒にいることができるのです。その神が、恐怖をもたらし、苦しみを大きくしようとする暗黒という敵を撃退してくださいます。
この羊飼いとしての神のことを、私たちはもはや譬ではなくて、正式な名前をもって呼ぶことができます。旧約聖書である詩篇の作者が知らなかった新約聖書を私たちは読むことができるからです。それゆえに、私たちはこの詩篇を、喜びを込めてこうように読み替えることができるのです。
たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。
イエス・キリストが ともにおられますから。
イエス・キリストの十字架 それが私の慰めです。
さいごに「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます」ということに触れておきましょう。羊飼いは、青草のうえで、また憩いの水のほとりで羊たちを休ませます。そのことは私たちにとってはどのようなにして現実のものとなるのでしょう。
それは、今、私たちがしています礼拝おいて現実となります。
この礼拝をしている時、私たちは緑の牧場におり、憩いの水のほとりにいるのです。
この礼拝で、神は私たちの「たましいを生き返らせ」てくださいます。
この礼拝で聴く神の言葉・みことばが私たちの内に働いて、私たちのたましいを生き返らせるのです。
戦中に〈欲しがりません、勝つまでは〉という標語が国中に広められました。街角や家の中にも標語の書かれた紙が貼られ、子どもたちは学校で標語を唱えさせられました。
「私は乏しいことがありません」ということを、ダビデは国を治めるための標語として定め、この言葉を国民に毎週唱えさせたというのではありません。ダビデは「私は乏しいことがありません」ということをうたったのです。しかも、だれからも強いられることなく、自由な気持ちで自分から、心からうたったのです。その時のダビデの心は、朗らかな、快いものであったことでしょう。
そのようにして「私は乏しいことがありません」とうたうこの詩篇第23篇を、どうぞ、標語にしたり、スローガンにしたりしないようにしましょう。そんなことをしたりすると、自分で自分を追い詰めることになりかねません。標語というものは用い方を誤ると、人を追い詰め、気持ちを重くさせてしまいます。ですから、私たちはこう願い祈ろうではありませんか。
主イエス・キリストの父なる神さま
私どもに歌をうたうことのできる自由な心を与えてください。
「私は乏しいことがありません」とうたうことのできる心を何度でも新しくしてください! と。
(2021年2月21日 受難節第1主日礼拝)