テサロニケ人への手紙第一第2章13~16節

2月7日 公現節礼拝説教

テサロニケ人への手紙第一 第2章13~16節

「教会であり続けるために」

 

 新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐために、さまざまな分野で活動の自粛や制限が行われています。そのことはスポーツや芸術などの分野でも同じです。しばらく前にテレビで、俳優の藤原竜也さんがコロナ禍のなか、感染予防に取り組みながら行われている演劇活動について話しておられる番組を観ました。コロナの感染予防のために強く求められていることの一つに飛沫を飛ばさないということがあります。そのことを舞台のうえで取り組むには演劇特有の難しい面があるようです。台本には、役者同士がお互いの飛沫が飛び交うような近い距離で、大きな声を張りあげてセリフをしゃべるようになっている場面があったりする。そういう場合、飛沫を避けるために相手との距離を広くとったり、小さな声でしゃべるセリフに変えたりといった演出を変更することもあるようです。また(私はこの方のことをほとんど何も知らないのですが)藤原竜也さんは、情熱的な演技で叫び声のようにして語られるセリフを得意とする方のようでして、そうした演技をすることがコロナ禍の今、いわば封印されてしまっている。そのために、藤原さんは役者としいての自分が今、何をしているのかわからなくなってしまうことがある、という意味のことを(私の記憶では)おっしゃっておられました。

 1年以上になるコロナ禍のなかで、今、自分はなんのために生きているのか。これから自分はどのように生きていけばよいのか。そのことが分からなくなってしまう悩みを抱いている人は多いのだろうなということを藤原さんの話しを聞きながら思わせられました。そして、そのことは教会や教会員である私たちについても言えるのかもしれないと思いました。

 教会も新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐために、今まで行ってきていた活動や集会の多くを中止にしたり、また行うにしても時間を短くしたりと、いろいろな制約を自らに課しています。宇都宮共同教会も聖餐を控え、短い時間での礼拝を始めてほぼ1年になります。こうした教会の在り方を皆さんはどのように思っておられるのでしょうか。もしかすると、こんなことを思ってしまっている人があるかもしれません。――こういう礼拝がいつまで続くのか。礼拝以外にほとんど何も活動できないのでは、教会として十分とはいえないのではないか。コロナ禍になる以前の教会の働きを100とするならば、今の教会は30パーセントぐらいの働きしかできていないのではないか…… ふと、そんなふうに考えてしまうことがあるかもしれません。しかし、それは正しい考え方なのでしょうか? こう申し上げても良いでしょう。今、教会は、教会であり続けるために何を一番に大切にするべきか、そのことが問われています。そこで今朝は、教会が教会であり続けるための要(かなめ)ともいうべきことをテサロニケ人への手紙から受けとめてまいりたいと思います。

テサロニケ人への手紙は、新約聖書のなかで最も早い時代に「福音書」や「使徒の働き」よりも先に書かれたものです。それだけに、テサロニケ人への手紙には、誕生して間もないキリスト教会の様子が、ある意味で生き生きと記されているともいえます。その生き生きした様子を感じとることのできる言葉に先ず注目しましょう。この手紙を書いたパウロは、テサロニケの教会のクリスチャンたちにこう書き送っているのです。「わたしたちもまた、絶えず神に感謝しています」

「絶えず神に感謝しています」とパウロが言う通り、パウロには、いつでも、絶えず喜んでいることがありました。それは伝道者にとってこれ以上の喜びはないという喜びであったといえます。その喜びについてパウロは、神に感謝していたといいます。それほどまでにパウロを喜ばせ、絶えず神に感謝せずにおれなかった理由ついてパウロはこう述べています。「あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです」(13節)

パウロをはじめとする当時の伝道者たちの語る説教、それをテサロニケの教会のクリスチャンたちは、人の言葉としてではなく、神の言葉として聴き受け入れていた。それこそはパウロが絶えず神に感謝していた理由でありました。

 パウロの時代の教会は、今日の教会のような教会堂を持ってはいませんでした。教団、教区といったような組織もなかった。ですから教会と呼ぶとき、そこにあるのは信仰者の集まりでしかなかったわけですが、その集まりが、まぎれもないキリストの教会であり得たのは何によるものであったのか? それに対する明瞭な答えが13節に記されているパウロの言葉のなかにあります。教会堂はなくとも、組織や制度がなくとも、他の何がなくとも、伝道者の語る説教が神の言葉として聴かれるところに教会が存在するのです。

 このパウロの言葉(13節)からは、キリスト教会で語られる〈説教とは何か〉ということを理解するうえで、極めて重要なことを三つ聴きとることができます。その重要な第一点は

≪神の言葉として語られる説教は、神の言葉である≫ということです。

パウロは、本当は神の言葉などではない自分の説教を、テサロニケのクリスチャンたちが神の言葉として聴き受け入れてくれたから喜んでいるのではありません。説教者の語る説教は「事実そのとおり神のことば」だとはっきり断言しているのです。これは驚くべきことです!

 

こう考えている人はいないでしょうか。――〈神の言葉〉とは〈聖書の言葉〉のことであって、牧師の説教というのは、神の言葉である聖書をわかりやすく解き明かしてくれるものであると。しかし、パウロが言っていることはそういうことではないのです。伝道者によって語られている説教そのものが神の言葉だといっているのです。このことから、神の言葉には三つの形態があることを覚えておきたいと思います。

啓示の言葉……神が(ある一定の時代の)預言者・使徒に語らせた言葉。キリストが語られた言葉。

聖書の言葉……預言者・使徒・キリストの言動を記した言葉。

宣教の言葉……聖書を根拠に、今日の我々に対する神の語りかけを説教者が語る説教の言葉。

 

説教は、単に聖書を分かりやすく詳しく解き明かすものではありません。ましてや牧師個人の考え方や信仰体験を表明するものでもない。そのようなことが説教で語られることがあったとしても、それは神の存在を証言するために語るのであって説教の核ではない。説教が語ろうとしていることは、今のこの時代、この世界に生きている私たちに、聖書を通して神が語りかけて下さっていること、キリストが語りかけて下さっていることなのです。

 

≪説教の言葉のもつ弱さと限界≫

ところでパウロは「あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです」と述べています。そのことは、パウロたちの説教を神の言葉として聴く人たちがいた一方で、説教を人間の言葉として聞く人もいたということを表しているともいえます。説教は神の言葉として語られ、聴かれるべきものではあるのですが、あくまで人間の言葉として聞かれてしまいやすいという弱さをもっているからです。

牧師の説教を聞いて陥りやすい聞き方として――今日の先生はよく勉強して説教を準備されたようだ。いい勉強になった、とか逆に――この先生は何を言っているのかよくわからない。もっと話し方の勉強した方がよいのでは……といったような聞き方になりやすい。そうなると、神の言葉を聴きとることができずに、人の言葉だけを聞いて終わってしまうことになります。

確かに、牧師の語る説教には、はっきりいって上手下手がある。説教者が自分のことを語りすぎたり、聖書から聞こえてくる神の言葉を語り損なっていたりすることもある。そういうことにならないように、説教者には絶えざる精進・努力が求められる。何よりも祈りが求められます。説教者の口から語り出される言葉が、錬金術のように神の言葉になるわけてはないからです。

聖書の理解においても足りない面があり、時には間違ったことを口にしてしまうことすらある。そういう弱さ、愚かさをもった人間が牧師・説教者として神の言葉を語る務めを託されている。その事実を何度でも受けとめ直しながら、神の言葉として聴かれる説教を正しく語ることができるようにと祈らざるをえません。

礼拝のなかで説教者のための祈りがなされることがあります。その祈りは、礼拝の奉仕をする奉仕者のための祈りとは別のものというべきです。そもそも礼拝が始まってから奉仕者のために祈ることは遅きに失します。奉仕者のための祈りは土曜日や、すくなくとも礼拝前になされるべきものだからです。それに対して、説教者のために祈ることは、次のような神の言葉を求める祈りの延長線上にあるのです。

――みことばを与えて下さい。神であるあなたの言葉を聴かせて下さい。そのために説教者に聖霊の助けを与え、祝福して用いて下さい。説教を神の言葉として聴きとれるように私の耳を開いてください。

こうして神の助けを求めながら謙遜に耳を傾ける聴き手は、時に語っている説教者以上に豊かに神の言葉を聴きとることも珍しくありません。

 

≪説教として語られた神の言葉の働き≫

 テサロニケのクリスチャンたちが、パウロたちの説教を神の言葉として聴き受けとめたときに起こったことについてパウロは「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています」と述べています。このことも、まことに驚くべきことだと言えましょう。

説教は、単に私たちの信仰の知識を豊かにするものではありません。

説教は、信仰者としていかに生きるべきかということを教える〈お説教〉ではない。

説教は、それを神の言葉として聴き受けとめた人の中で神の恵みとして働く言葉になります。

パウロたちの説教を聴いたテサロニケのクリスチャンの場合、その言葉はどのように現実に働いたか。そのことに触れているのが「あなたがたは、ユダヤのイエス・キリストにある神の諸教会に倣うものとなりました」(14節)いうことです。テサロニケのクリスチャンたちがユダヤの諸教会の人たちに倣って身につけたこととは、結論だけをいうと、苦しみに耐えることを身につけたということです。

神の言葉が私たちの中で働くということを理屈で説明することはできません。しかし、はっきりしていることがある。それは、神の言葉が私たちの中で働くことで、私たちは苦しみに耐えることができるようになるということです。苦しみにただがまんするということではありません。苦しみに耐えながら将来について望みを持つ力が、私たちの中で神の言葉が働く事によって与えられるのです。

 牧師はさまざまな弱さや欠けをもった人間であることは言うまでもないことです。そのような牧師が説教者として慎み深く神に祈りながら、神の言葉として聴かれるべき説教を語ります。その牧師の説教を慎み深く神の言葉として聴き受けとめる者たちの中で神の言葉が働きます。それこそは、教会が教会であり続けるための生命線といえます。神の言葉が語られ、それを聴く礼拝が正しく営まれるならば、それだけで教会は100パーセントの働きを果たしているのです。

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