コリント人への手紙第一第13章1~13節

1月31日 公現節礼拝説教

コリント人への手紙第一 第13章1~13節

「さいごに残るものは何か」

 

 昨日の午後、黒磯教会の新年聖会がオンラインにより行われました。説教者の水野先生は詩篇第103篇から説教をお語り下さいました。「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」という、礼拝の招詞としても用いられるこの詩篇から、明快な福音を聴くことのできた聖会でした。その聖会のなかでうたわれました聖歌のひとつは『数えてみよ、主の恵み』(新聖歌172番)とうたう歌でした。主の良くしてくださったことを何一つ忘れないで、それを恵みとして数えてごらんなさいというふうに、詩篇第103篇とぴったり合った聖歌の選曲であったと思います。その『数えてみよ、主の恵み』という歌を聴きながら、私はふとこんなことを思っていました。――主の恵みを数える生活。それは簡単なようだけれども、実際にはなかなかできないことだ。うっかりすると、主の恵みを数えることを忘れて、辛いことを数えることばかりしてしまいかねない…… 主の恵みを数える生活を歌としてうたうだけでなく、実際に身に着けてゆくことの大切さを思わせられたのです。では、なぜ私たちが主の恵みを数えることに疎(うと)いのか。それは主の恵みに視点が定まらないために、主の恵みが良く見えていないからであろうと思います。

 教会関係者から――この度のコロナ禍により教会活動が自粛制限されたことで、今まで当たり前のようにして行ってきた教会活動の一つ一つが実は当たり前ではなくて、神さまの恵みであったことがよく分かった、という意味の声を聞くことがあります。それは確かにそうでありましょう。しかし、それなら、コロナ禍のために教会活動について自粛をしている今、神の恵みとして数えられることが少なくなってしまっているのでしょうか。そんなことは断じてありません。むしろ逆です。私たちはコロナ禍のなかで続けられている礼拝を通して、これまでよりも、はっきりと神の恵みを数え得るようになっているのではないでしょうか。

 こんな話しを読んだことがあります。釣り人を乗せた船が沖に出ていたときのこと。夕闇が迫る頃、潮の流れが急に変わって、流れに引き寄せられた船は方角を見失ってしまった。日が沈んで辺りが暗くなると、いよいよ方角がつかめなくなってしまい釣り人たちは慌てました。すると賢い船乗りは大きな声で言った。――明かりを消せ!   言われるままに船の照明を全て消すと辺りは真っ暗闇。しかし、その暗闇のなかに、ぼぉっと遠くからの明かりが見えてきたのです。それは港町の明かりでありました。船の明るい照明を消すことで、見た目にはそれほど明るくはない、しかし船が港に戻るために必要な、それこそ命にかかわる光を見ることができるようになったのです。

 教会の活動を明るく彩るさまざまな集会(チャペルコンサートなどの特別集会)をコロナ禍のために自粛中止することは、今まで灯していた明かりを消すようなことであったかもしれません。〇〇集会が中止になり、〇〇の集いが休止になる、というふうにして教会は明かりを灯せなくなったといえるかもしれない。しかし、そのことで私たちは、私たち自身が最も必要とする、それこそ命にかかわる光を礼拝のなかに、これまでよりもはっきりと見ることができるようになったのではないでしょうか。

 礼拝は華やかさや楽しさにおいては特別集会よりも地味なものかもしれません。しかし、その礼拝を神は用いて我々の魂を照らして下さいます。その神の恵みを数える喜びがコロナ禍のなかで、これまで以上に豊かにされてきていることを見過ごさないようにしたいのです。

                     ◆

 今朝、共にお聴きしました聖書は、主の恵みを数えるために、主の恵みの明るさを私たちに気づかせてくれるものといえます。この手紙を書いたパウロは、こう言っています。

「愛は決して絶えることがありません」

「いつまでも残るのは信仰と、希望と、愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」

 ドイツの作曲家ブラームスが作曲したものに『永遠の愛』という歌があります。愛の頼りなさを嘆く若者に対して乙女が――鉄はとけても、私たちの愛は永遠に変わらない……と答える、そういう歌です。この歌がうたっているようなことをパウロは「愛は決して絶えることがありません」と言っているのでしょうか? 

「いつまでも残るのは信仰と、希望と、愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」ということを聞くとき――ああ、それは本当にそうだ! 人間にとって一番大切なのは愛だ、と納得する人は多いことでしょう。ならば、信仰と希望に勝って「すぐれている」愛とは何なのでしょうか?

――私の愛は決して絶えることはありません、そう断言できる人はいったいどれだけいるのか……

――私はすぐれた愛を実践して生きている、とそうはっきり言える人ははたしているのか……

そうしたことを考える時、愛の素晴らしさ、大切さが分かっていても、私たちの知る愛の現実は、空しさと隣り合わせであることを思います。ですから、次のような愛について語る言葉を、私たちはどのように受けとめたらよいのでしょうか。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」

 ここに語られていることは、みなその通りだと思うけれども、これだけの愛に生きうる人が実際にいるのだろうか……そう思ってしまうとすれば、それは、この聖書箇所についての根本的な勘違いがあるといわなけれはなりません。

 4節から7節に書かれていることは、愛に生きるとはどのように生きるのかという徳目・愛のカタログ・目録を並べて見せているのではありません。愛とはどういう心の状態のことをいうのか、そういうことを説明しているのでもない。愛するとはどういうことか、どうすることなのか、という私たちが実践すべき愛の行為について説明しているのではないのです。 

 ここには一人のお方のことが語られています。一人のお方とはほかでもありません。イエス・キリストです。ですから、ここに記されています「愛」というところを「イエス・キリスト」と読み替えたときに、この聖書から放たれている明かりを私たちは見ることができるようになるのです。

  イエス・キリストは、私たちに対して寛容です。親切です。

  イエス・キリストは、ねたむことなく、自慢せず、

           高慢になることなく私たちを受け入れて下さいます。

  イエス・キリストは、私たちのために、礼儀に反することなく……と、

パウロはキリストの恵みを数えるようにして、この『愛の章』と呼ばれる言葉を書き連ねたに違いないのです。そのことを押さえることで「愛は決して絶えることがありません」「いつまでも残るのは…… その中で一番すぐれているのは愛です」の意味も明らかになります。ここで決して絶えることがないと言っているのはイエス・キリストの愛のことです。イエス・キリストの愛が「すぐれている」ということの一つの意味は、キリストの愛は変わることがなく、無くなってしまうことがないということです。だからこそ、私たちはそのキリストの愛を信仰と希望の土台とすることができるのです。

 キリストは私どもの罪に「苛たたず、人のした悪を心に留めず」に十字架のみ苦しみを受けて下さいました。ここにあらわされたキリストの愛は、変わることなく、無くなることもありません。この変わることなく、無くなることのない「すぐれた」愛をもったままでキリストは審き主として再臨されます。だからこそ主の再臨は、クリスチャンのみならず全ての人のための「希望」となる。そのことをクリスチャンは「信じ」、愛(キリスト)によるとりなしを祈ります。

                     ◆

 今朝の説教題は『さいごまで残るもの』となっています。この題は、今朝の聖書からすれば少々、迫力が足りないといわなければならないでしょう。もっと力強く『最後まで残るのはキリストの愛』と言ったほうが説教題としてはふさわしいのではないかと私自身そう考えておりました。ではなぜ『さいごまで残るもの』という、ややぼんやりとした題をつけたのかというと、教会にとってさいごまで残る大切なものとは何か、ということを、教会員である私たちが皆で考え、それを共に受けとめて行きたいという願いがあったからです。

 2月に教会総会が行われます。コロナ禍の続くこの一年の計画を立てるとともに、教会の将来についての方向性についても見定めて行く必要を思います。その方向性を見誤らないようにするために大切なことは〈教会にとってさいごまで残る大切なものは何か〉ということを、きちん数えることができるようになることです。そのことは、教会にとっての優先順位を数えることができるようになるということでもあります。

 A教区のB教会が、10数年ほど前に同じ地域ありました教会から教会堂を譲り受けたときのことを思い出します。その教会堂は、B教会の教会堂よりもずっと新しく、建てられてからそれほど年数が経っていないようでした。しかしその教会は、新しい教会堂を維持してゆくことができなくなってしまい、やむなく教会堂を捨て、群れは散っていったようです。群れが散った後にさいごに残った教会堂は、まことに空しいといわざるをえません。教会堂という建物を立派にし、また新しくしたいという気持ちは教会員である私たちの多くがもっているものでしょう。しかし、そうしたところで優先順位を数え損なうことのないようにしたいのです。コロナ禍のような人の心を疲れさせ暗くさせてしまう一つの闇のなかで、人の心を温かく照らすことのできるキリストによる愛の明るさを神は礼拝に満たして下さいます。そのキリストによる愛の恵みを何よりも大切な優先順位として数えることのできる教会でありたいと思います。

 これから『キリストには代えられません』とうたう聖歌(新聖歌428番)をうたいます。 ――世の楽しみよ、去れ! とうたうからでしょうか。この歌を禁欲的だといって敬遠する人もあるようですが、この歌は『数えてみよ、主の恵み』とうたう聖歌と、歌の心は同じと言ってよいでしょう。

 キリストによって与えられている恵み、それはコロナ禍のなかでも明るさを失わずに、私たちの魂を照らしてくださるものです。その恵みを数える時、私たちの心は温かく軽やかになります。そのように私たちを救うために、み苦しみを受けて下さったキリストを他のものと代えることはできませんとうたう。それはまことにしぜんなことといえましょう。ですから、この『キリストには代えられません』は強がって歌うものではないのです。力んで歌う必要もない。ましてや悲壮感に心を高ぶらせてうたうような歌ではありません。

 あの釣り船が、方角を見失って暗闇のなかにおかれてしまったとき、港の明かりを見出した時のほっとした気持ち、ああこれで助かったという安心した気持ち。そのような、ほっとした安心感こそ、この聖歌をうたう心にふさわしいのです。

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