へブル人への手紙第13章8節

1月3日 公現主日礼拝説教

ヘブル人への手紙 第13章8節

キリストは、きのうも今日も同じお方

 

 ただ今、聴いた聖書には、イエス・キリストについて「とこしえに変わることがありません」と語られていました。キリストがとこしえに、すなわち永遠に変わることがないということを聞くと、私たちはこう考えるのではないでしょうか。

――そうだ、今から約2000前にクリスマスにキリストがお生まれになった時から、そしてこれから何千年経っても、キリストは変わることはないのだ……と。そんなふうに私たちは「とこしえに、永遠に」ということを耳にすると、何千年、何万年という私たちの人生の長さではとらえきれない長い年月のことを考えるかもしれません。

 ところが、今朝の聖書は「とこしえに、永遠に」ということを語るときに「昨日も今日も」という言葉を添えているのです。「イエス・キリストは、2000年前も今後2000年経っても、とこしえに変わることはありません」と言えばとこしえにという言葉がしっくりくるものとなります。しかし「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえにかわることはありません」と言っているのでとこしえにという言葉がつりあいのとれない、大袈裟なものとなってしまっています。この点、この聖句は、不格好な、奇妙な言葉遣いをしていると言わざるを得ません。しかし、ここにこの聖句が持っている宝が隠されているのです。その宝を見出すために三つのことに注目してゆきましょう 

    まず第1のことは、聖書が「昨日と今日」といっていることについてです。私たちが用いている新改訳聖書が「昨日」と表記している言葉を、新共同訳聖書は「きのう」とひらがなで表記をしています。もっとも新改訳聖書も「さくじつ」と読まないように「きのう」というルビをふっています。このことが示しているのは、ここで語られている「昨日」とは、単なる前の日、一昨日という意味ではなく、過去の日々全体を指しているということです。

  このとき、注意したいことは「きのう」という言葉が指し示している過去の 日々というのは〈あなたにとっての過去の日々〉のことであるということです。これを〈2000年前の過去〉というふうに歴史をさかのぼることのように考えはいないのです。今朝の聖書は、  ――あなたの生きてきた過去に日々においても、そして今日もキリストは変わることはありません。なぜなら、キリストは永遠に変わることはないからです。と語りかけているのです。

 そこで、心に留めたい第二のことは、今朝の聖書が「イエス・キリストは、昨日今日も、とこしえに変わることのない方です」と語られています「きのう」、すなわち〈あなたの生きてきた「きのう」〉には、キリストがおられたということです。このことは、特に、厳しい過去をふり返る時に意味があります。例えば、私自身、昨年一年間の過去を振り返るときに、月曜から金曜にかけて務めている労務管理の仕事の中で幾つかの失敗をしてきたことを思う。そのことを振り返ることは気が重くなることでもある。

 そういう〈私の生きてきた「きのう」〉には、キリストはいなかったのであろうか……キリストがいなかったら守ってもらえずに失敗をしたのだろうか……。そんなことはない。――あの時もキリストは変わることなく共にいて下さっていた。そう思うだけで、不思議なことだが気持ちが楽になる。皆さんがご自分の厳しい過去、苦しんでいた時の過去を振り返るとき、そこにもキリストは変わらずにおられたのです。そのときのキリストは、どのようなお方として、あなたのそばにおられたでしょうか。私たちが失敗したとき、キリストは、           ――困った人だ……そんなことでは証しが立たないではないか……などと言ったりしたであろうか? あるいは、誰かから辛い仕打ちを受けていた時、キリストは、                                         ――人間関係において苦しみはつきものだ。人の言葉や仕打ちなど気になどしなければよいのだ……と、突き放すようなことを言ったでしょうか。そういうキリストは、私たちの過去のどこを振り返っても出てくることはありません。

「足跡」という詩には、こんなキリストの姿が描き出されています。                                     

一人の男が夢の中で砂浜に残された足跡を見る。その足跡は、その男自身の過 去 の歩みを表すもので、男の足跡と共にもう一人、主(キリスト)の足跡があった。ところが、その足跡をたどって見てみると、ところどころ、足跡が一人分だけになっているところがある。それは、男にとって、困難にあって辛かった時、悲しみで打ちひしがれていた時であった。そういう時にかぎって、足跡が一人分になってしまっている。それを見て男は主に尋ねずにはおれなくなった。 ――主よ、どうして私が困難に遭って打ちひしがれていた時、あなたは私をひとりにしておかれたのですか……と。それに対して主はお答えになった。――私の愛する子よ。あなたが困難の遭って打ちひしがれていた時、私はあなたを背負っていたのだ。この詩が描き出しているキリストは、ヘブル人への手紙が「イエス・キリストは、昨日も今日も……変わることはありません」と証言しているキリストの姿と重なるものであるといえるでしょう。

    過去のことをきれいさっぱり忘れて、新しい一年にむかうということは一見すがすがしいスタートのように思えるが、そういうやり方は、実際にはうまくいかないものです。かえって同じ失敗を繰り返しやすい。傷のついたレコードのように、同じところをぐるぐる回るだけの一年になってしまいかねません。

「過去に対して目を閉じるものは、現在を見る目をも持たないのである」と言った人がいます。辛い過去、失敗の過去は、決して無駄になるものではありません。そうした過去から学ぶべきことは実に多いのです。しかし、辛い過去を振り返ることは、心の傷を再び開いてしまうという痛みを引き出してしまうことがあります。

    そういう私たちの心の健康のことをヘブル人の手紙の著者は知っていたのかどうかはわかりません。いずれにせよ、今朝の聖書の著者は――つらい過去にも意味がある。だからその過去を受入れ、それを今の生活に役立てなさい、というような荒っぽい言い方はしないのです。そして、私たちにとって、取り戻すことのできない過去としての「きのう」というその時にも、キリストが変わることなくおられた、そしてそのキリストが、「きのう」というその時を生きていたあなたをごらんになっていてくださっていたということを告げているのです。

 

     第三のことに移ります。イエス・キリストが「とこしえに」すなわち「永遠に」変わることがないということは、イエス・キリストは、きのうも今日も同一人物であり、そのことは永遠に変わらないということです。――そんなことは、あたりまえではないか……という人があるかもしれません。しかし、キリストが「きのうも今日も」永遠に同一人物であるということは、私たちにとって、深い慰めと安心をもたらす重要な根拠なのです。

 ミケランジェロの大作「最後の審判」に対して、神学者カール・バルトはどちら かというと批判的な見方をしていたようです。その理由は、あの絵に描かれている審判者としてのキリストと、十字架にかかり苦しみをお受けになったキリストが同一人物に見えなからです。

 キリスト教会が陥りやすい偏った再臨信仰の犯す過ちは、十字架にかけられたキリストと審判者キリストとを別人のようにしてしまうことにあります。キリストが全ての人を救うために十字架にかけられたことは認めつつも、そこまでのことをキリストがして下さったのに、そのキリストを信じない者については、キリストといえども面倒は見切れない。だから、審判者キリストは信じなかった者たちを裁いて滅ぼすと説くのは、新興宗教の特徴ともいえる。そういう信仰者たちにとってキリストは「きのうと今日」とでは違うのである。

    クリスマスの夜、飼い葉桶に寝せられていた幼子と十字架への道を歩まれたキリストとは同じお方です。そのキリストが十字架にかけられるために逮捕されたとき、弟子たちはキリストを捨てて逃げてしまいました。一番弟子ともいえるペテロでさえも、キリストのことを知らないとしらを切りました。そのような弟子たちに対して、お甦りになったキリストは「あなたがたに平安があるように」と語られました。そのキリストと、私たちが共にいてくださると信じているキリストは同じお方です。そして、やがて裁き主として再臨されるキリストと、十字架で「父よ、彼らをおゆるしください。何をしているのか分からないのです」と、とりなされたキリストとは同じお方なのです。キリストの人格が途中で変わってしまうということはないのです。

    このとこしえに、永遠に変わることのない、憐れみと慈しみに満ちたキリストが、きのうも今日も変わることのないお方として、私たちのまことの主であり、また教師として共に歩んでいてくださいます。そのことによる祝福が、この一年、皆さんの上に確かなものとして与えられますように。

 

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