マタイの福音書第26章47~56節

 

1月24日 公現節礼拝説教

マタイの福音書第26章47~56節

「神をおそれる者は、剣を捨てる」

 

 キリストが逮捕されたとき、キリストを捕えるためにやって来た群衆の先頭にいたのはユダでした。このユダについて聖書は「12人の一人のユダ」と記しています。ここで聖書は、ユダのことを〈裏切り者〉のユダという言い方をせずに、あくまでもキリストの〈12人の弟子の一人〉として記しているのです。キリストを逮捕するために、真っ先にやってきたのは、キリストのみ側近くにいた12人の直弟子の一人であるユダであったことを重要なこととして強調しているからです。

 ユダはキリストに近づくと「先生、こんばんは」という挨拶とともに口づけをしました。これは予め、キリストを逮捕する人たちとユダとの間で示し合わせていた合図でした。暗闇の中での逮捕です。人違いをしないように、イエスの顔を間違いなく見分けることのできるユダがイエスに口づけをすることで――この男がイエスだ、ということを知らせる合図になったのです。その合図によってキリストは逮捕されました、がその時、一人の男がキリストを捕えようとした手下に切りかかってその耳を切り落としました。この男についてヨハネの福音書は、それがペテロであったと記しています。キリストはペテロに言いました。

「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」

今朝、第一に注目したいのはこの言葉です。

 「剣を取る者はみな剣で滅びます」というこの言葉は、格言のように心に残りやすいものです。米国の新しい大統領の就任演説には聖書が引用されていましたが、「剣を取る者は……」というこの言葉は、平和を呼びかける演説などで引用することができるのではないか、と考える人もいるかもしれません。しかし、この「剣を取る者は……」は、○○をした者は○○になるという原理法則を語っているわけではないことに注意しておく必要があります。

 世界の歴史上、剣・武力を殊に多く用いた人物がいます。その一人であるアレクサンドロス大王は、風邪で死んだと言われています。ナポレオンは、セント・ヘレナ島で柔らかい羽根布団に包まれて死んだようです。一方、剣・武力を取ることをしなかったのに、剣にかかって死んだ人はいくらでもいる。このことからも「剣を取る者はみな剣で滅びる」ということは、原理原則としては成り立たないことは明らかです。

 平和活動のために、この言葉を引用することは、かえって話をややこしくしてしまう危険性があります。というのは、キリストはこの言葉をそもそも平和問題や武力行使の問題のために語っているわけではないからです。では、どういう意味でキリストはこれをお語りになったのでしょうか。「剣を取る者はみな剣で滅びます」と語られたキリストは、続けてこうお語りになりました。

「わたしが父にお願いして、十二軍団以上よりも多い御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」

 12軍団とは7万人の兵士の集団です。キリストは、天の父にお願いすれば、7万を超える天使の軍団を送ってもらうことだってできる、と言われる。その天の軍団の力をもってすれば、逮捕するためにやってきた人々を打ち、逮捕を止めさせることは、たやすいことでありましょう。

 この時、キリストを捕らえるためにやって来ていた群衆について聖書は「剣や棒を手にしていた」と記しています。キリストの弟子たちの中にもペトロのように剣をもっている者がいたのでしょう。剣をもっていない他の弟子たちにしても、いざとなったら身近なところにある棒きれや石を剣のかわりに武器として手に取ったことでしょう。そうした中で、ただお一人、キリストだけは剣をおとりにならなかった。天の軍団を呼ぶこともなさらなかった。こうしてキリストは剣の力に頼る心をお捨てになっているのです。

 さて、それでは、キリストはなぜ剣を取ろうとする心を捨てたのか。このことについてはキリストご自身が明確に答えを語っておられます。

「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためである。」

 弟子の一人であるユダが、暗闇の中で人違いをすることなくイエスを逮捕するために、口づけの合図を送る。そして群衆がイエスを捕らえる。こうしたことは、旧約聖書の預言が実現するためのものであったとキリストはおっしゃっているのです。それは言い換えれば、暗闇の中でキリストを逮捕するために起こった全ての出来事は、神のご計画が実現するためである。そのことをキリストは明確にわきまえていたということです。そして、キリストはこうはっきりと心に決めていたと言ってよいでしょう。                   ――わたし自身が、天の軍団を呼び寄せて剣の力を振るわなくても、天の父がご計画を実現してくださる。わたしが剣の力をふるってしまったら、かえって天の父のご計画の実現を拒むことになる……と。こうしたキリストの心を読み取るならば「剣を取る者はみな剣で滅びます」というこの言葉は、武力行使を戒める格言ではないことがわかります。

世界を支配しておられる天の父・神がおられるのです!

その神はご計画をもっておられます。

そのことを真剣に受けとめ、神のご計画の実現を真剣に願い求める人は、

剣の力に頼りません。神に一切を信頼してお任せします。だから剣を捨てるのです。

 注目したい第二の言葉に移りましょう。それは「先生、こんばんは」と挨拶をしながら口づけをしてきたユダに対してキリストが「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われたことです。

 この時キリストは、突然ユダが剣や棒をもった群衆を連れてきたので驚いて――何のために来たのか……とユダに問い詰めることはしなかった。そうではなくて――友よ、あなたが何のためにきたのかは分かっている。だからしようとしていることを今ここでしなさい! と言っているのです。

 普通は、逮捕する側と逮捕される側とについていえば、主導権を握っているのは逮捕する側です。しかし、ここでは逮捕される側のキリストが主導権を握っている。キリストは逮捕する側についているユダに「しようとしていることをしなさい」と命令をし、ユダは言われた通りにするだけです。このようにして、キリストを裏切るユダの行為は、あくまでもキリストの主導権のもとに行われたのでした。それは、キリストを裏切るユダすらも、神の支配のもとで、神のご計画の実現のための道具として用いられているということを意味します。このことに!   私たちは一つの慰めを見出すことがゆるされるでしょう。

 キリスト逮捕の出来事は、悪の力が思い通りに事を進めていると見ることのできる暗い出来事であったことに違いはありません。今朝の聖書の結末は「弟子たちはみなイエスを捨てて逃げてしまった」と書いてある通り、ここで起こっている出来事自体には何一つ良い話はないように見えます。。

 「軍団」という軍の用語が出てきていたので、それちなんで一つの例をとりあげます。軍隊では作戦行動をとっているとき、なかなか計画通りに事が進まないことはめずらしいことではありません。そのために司令官の下には悪い報告、暗いニュースが次々と届くことがあります。そういうときに兵士たちが求めるのは、どんなに小さくてもかまわないから「良い知らせ」すなわち「良いニュース」だといいます。5つのニュースのうち4つが悪いニュースでも、そのなかに1つだけでも「良いニュース」があると、それで元気をとりもどす。そういうことが軍隊では、よくあるという話しを読んだことがあります。

 ところが、今朝の聖書の出来事は、それ自体が暗いニュースであり、更にはユダが裏切りを果たし、他の弟子たちはみな逃げてしまうといったように、良いニュースが何一つ見当たりません。悪の側の作戦行動が成功しているようにしか見えないのです。しかし、そうした暗い出来事すらも、天の父なる神のご計画の実現のために、キリストの主導権のもとに事は進んでいたのです。そのことは、コロナ禍による暗い今も変わってはいないのです!

 さいごに、今朝、注目してきたキリストの語られました「剣を取る者はみな剣で滅びます」「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」という二つの言葉を、私たちの生活のなかで聴き受けとめる手引きのようなことを申し上げたいと思います。

 キリストが捕らえられそうになった時、それを見ていたペテロは、逮捕を止めさせるために剣をとり、相手に切りかかり大きな傷を負わせました。私たちは、実際にナイフのような剣をとって相手に切りかかるというようなことはしませんが、言葉の剣を抜いて相手に切りかかり、言葉によって相手に傷を負わせてしまうということはあるかもしれません。

 コロナウィルスの感染者を減少させるために緊急事態宣言が栃木県にも発令されています。さまざまな形で求められている自粛をめぐって、あるいは自粛生活からくるストレスによって、お互いの言葉づかいが剣のように突き刺すような、きついものになったりはしていないでしょうか。言葉のやり取りのなかで、相手を切り裂く剣のような言葉を語ってしまう者に対しては――言葉の剣を抜く者は、言葉によって滅びます、と語られてもおかくしはないでしょう。

〈コロナ禍〉を大きくしてしまう禍(わざわい)の引き金として、言葉による剣を抜いてしまうことが現実としてあります。たとえ正しいことを言っていても、相手の心を冷たく刺すような剣の言葉では、相手のためにならないばかりか、お互いが気まずくなり暗くなるだけです。そのようになりやすい私たちにキリストは「剣を取る者はみな剣で滅びます」と語りながら、こう仰せになるのです。                              ――天の父がおられることを信じなさい。その天の父が立てておられるご計画に信頼し、あなたは言葉の剣を抜かなくてはならないほどに頑張らなくてもよいのです。天の父に信頼してごらんなさい!

「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」については手短に申しあげましょう。この言葉を聴きながら思い出したいことは、主導権はキリストが握っておられるというこの一点です。

「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」というこのキリストの言葉を聴いて、ユダのようにキリストを裏切ることであろうと何であろうと自分がしようと思ったことをしたらよいと、キリストは私にもそう語っておられると理解してはいけません。この言葉は、ユダその人に語りかけられたものであり、私たちには語りかけられてはいないのですから。しかし、その言葉を聴くことで私たちは、主導権を握っておられるのはキリストであるという事実を思い起こしたいのです。主導権をもっておられるキリストを想起することが私たちにとって慰めとなるからです。そのことを踏まえてこのユダに語りかけられたキリストの言葉を、こう聴きとりなおすことはゆるされることでしょう。               ――友よ、救い主であるわたしが、あなたの周囲で起こる出来事についても主導権を握っています。それを信じて、あなたは周りの人を明るくしてあげるために、今あなたができることを精一杯しなさい、と。

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