マタイの福音書第26章30~46節

1月17日 公現節礼拝説教

マタイの福音書第26章30~46節

「目を覚まして祈りなさい」

 

 今、共にお聴きしました聖書には、一度ならず三度も「目を覚まして」ということが語られていました。この「目を覚まして」ということの意味を正しく聴きとるために重要なことは、この言葉が、誰によって、どういう状況の中で、どういう人に向けて語られたかということをきちんと把握することです。

 たとえば「目を覚まして、祈りなさい」というこの言葉そのものは、いたってシンプルな、その意味では難しい言葉ではありません。そのため、この言葉を聞いてすぐにこんなふうに理解してしまいやすいのです。

 ――目を覚まして、とは、要するに信仰の目を覚ますということだろう。そして覚醒した信仰を持ち続けるために、祈り続けなさい、ということを言っているのだろう……という具合にです。こんなふうに理解してしまいますと、世間でも耳にするような――目を覚まして、〇〇に励もう、といった標語とあまり変わらない言葉になってしまいます。しかし、今朝の聖書にある「目を覚まして」にはもっと別の意味があるのです。それを共に聴きとってまいりましょう。

「目を覚まして、祈っていなさい」とお語りになったのは他でもありません、イエス・キリストです。キリストは十字架に磔になるまえに、オリーブ山の麓にあるゲツセマネという所で最後の祈りをなさいました。オリーブの老木が茂る山の中で、キリストは刻一刻と近づいてきている十字架の死の時に備える祈りをなさったのでした。この時のキリストについて聖書は「イエスは悲しみもだえ始められた」と記しています。キリストご自身も「私は悲しみのあまり死ぬほどです」と語っています。悲しみもだえ、死ぬほどの苦しみの中にあるキリスト。そのキリストが「目を覚ましていなさい」とお語りになっているのです。そのことを先ず心に留めたいと思います。

さて、ゲツセマネでのキリストの苦しみは、確かにキリストご自身が苦しまれたのですが、その苦しみは弟子たちに関わるものでありました。ですからキリストは弟子たちに向かって、心を振り絞るようにして繰り返し、言い聞かせているのです。

「わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

「あなたがたは……一時間でもわたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。」

「目を覚まして祈っていなさい。」

 こうして弟子たちに目を覚まして祈るようにと促すことが、どうして必要だったのでしょうか。例えば私たちは、熱を出してうなされたりしているとき、自分を看ていてくれる人が側にいると安心します。辛い時に、近くにいて自分の苦しみを共に負ってくれる人を求める心が私たちにはあります。しかし、キリストはそういう意味で弟子たちに——目を覚まして自分の苦しみのために共に祈ってほしい、と言っているわけではないのです。そうなりますと、キリストを苦しもだえさせていた原因については、これをきちんと考えてみなければなりません。

 そこで福音書に記されているひとつの出来事を思い起こしましょう。キリストと弟子たちとがガリラヤ湖に舟を漕ぎ出し、湖の真っ只中で嵐に襲われたときのことです。嵐に呑まれて、いつ沈んでもおかしくない船のなかでキリストは眠っておられました。それを見て弟子たちは「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と腹を立てたほどでした。それほどにキリストはなぜあの嵐の中で死を恐れずに眠ることができたのか。その問いに対する答えともいうべき詩篇があります。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ、あなただけが、安らかに 私を住まわせてくださいます」(第4篇9節)         嵐の波にもまれる船の中でキリストは、まさに「平安のうちに身を横たえ、眠って」いました。そのキリストが、このゲツセマネでは弟子たちに対して眠らないで「目を覚ましていなさい」と強くお命じになっているのです。

ガリラヤ湖の嵐のなかで眠っておられたキリストの眠りと、ゲツセマネで眠ってしまった弟子たちの眠りとは何かが違います。嵐の中でキリストが眠ることができたのは、神に対する全幅の信頼の故でした。しかし弟子たちの眠りは――さし当たり、今はまだ少しぐらい眠っていても大丈夫だろう……というように気をゆるしていたことによる眠りであったといえます。

 キリストはゲツセマネで一瞬たりとも気をゆるすことはありませんでした。この後に何が起こるか、そのことを既に知っておられたからです。そして後に起こることを予告して「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます……」(31節)と言われました。するとペテロは、このキリストの言葉に反論して「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言つたのでした。しかし、こう断言したペテロがどうなるのか、そのこともキリストは見通しておられたのです。

  ペテロが三度までのイエスを知らないと、つまずきの言葉を口にしてしまうことを。

  ペテロだけではない、他の弟子たちもまた自分を捨てて逃げてしまうことを。

  そしてユダが自分を逮捕する者たちの協力者として間もなくやってくるということを。

こうして自分が手塩にかけて育ててきた弟子たちが、ものの見事に皆つまずいてしまう。キリストにつまずくということは、結局神につまずくということ。神を信じそこなってしまうことです。それこそがキリストを悲しみもだえさせていたことでありました。       ―—このままでは、弟子たちは皆わたしにつまずいてしまう。そして天の父を信じることについてもつまずいてしまうだろう。できることなら、十字架の死を先に引き伸ばして、弟子たちをもっとしっかり育てた方が間違いがないのではないか……こうした葛藤が人間としてのイエスにはあったかもしれません。

  しかし、神の定めた時を止めることはできません。十字架の受難の時はすぐそこまで迫っているのです。そのとき弟子たちは信仰が消滅してしまうほどにつまずくことになる、そのことを何も知らずに快適に眠っているその弟子たちに向けてキリストは悲しみ、心を痛めながら「目を覚まして、祈っていなさい」と語られたのです。

 ここで私たちが肝に銘じるべきことは、キリストにとって信仰に生きていた人がつまずくことほどに悲しく、心を痛めることはないということです。教会につまずき、信仰につまずき、そして神から離れてしまうという危険が私たちにはあります。しかも、その危険に気づかずに眠るように無防備に時を過ごしてしまうことがあることをゲツセマネの弟子たちの姿は示しているのです。

 ならば「目を覚まして、祈っていなさい」とは、どういう意味なのでしょうか。これまで申し上げてきたことを踏まえれば、こう言い換えることができるでしょう。       ――備えなさい! 苦難や試練があなたに襲いかかる時のために準備しておきなさい。あなたの魂と信仰を粉々にしてしまうかもしれない苦難が襲ってくることに対して備えていなさい!

 私たちは、何事もない時には呑気に生活していてもよいが、一たび苦難が襲いかかってきたときには、それに立ち向かえるようでなければいけない、というふうにはいかないものです。それでは間に合わないからです。ですから、まだ静かなうちに、平和なうちに備える必要があります。それは地震災害の備えと同じです。

  例えば、重い病気との戦いが私たちを待ち受けているかもしれません。こうした病にかかったことで、ひどく落胆して、つぶやきと不満だらけの患者になってしまわないように、天の父である神は、私どもが病の中でも望みをもって生きることができるように平安を与えてくださいます。その平安を受けとめるためにも、私たちは「目を覚まして」いなければ、すなわち備えていなければなりません。

 健康なうちに、体の自由が効くうちに備えをするのです。苦難に対して無防備のままでよいというのではありません。苦難を耐え忍ぶために、神の助けと導きが与えられることを祈る。それが目を覚まして祈るということです。

 

さいごに「目を覚まして祈る」ことの手本ともいうべきキリストが祈られた二つの小さな祈りを心に留めたいと思います。第一の祈りはこれです。

「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(39節前半)

 大きな悲しみと苦しみの中でキリストが最初に願ったことは、弟子たちがつまずくという危険を回避するために、十字架にかからなければならないという定めを過ぎ去らせてほしいということでした。このキリストに倣って私たちも、悲しみと苦しみの中に置かれた時に、――父なる神さま、できることなら、この試練を過ぎ去らせてください。この困難を過ぎ去らせてください……と率直に祈ることがゆるされているといえます。私たちは困難の中に置かれたときこそ大胆に、天の父に向かって祈ることがゆるされ、またそうすべきなのです。

 ただそこで、キリストの祈りにはもう一つ別の響きがあったことを忘れてはなりません。キリストが最初に率直に願われたことを超える別の祈り、すなわち神のご意志を受けとめる第二の祈りのことを忘れないようにしたいのです。その第二の祈りはこれです。

「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」 (39節後半)

 キリストはご自分の願われることについて全く率直に祈られましたが、それによって神のご計画に対して心を閉ざすことは一瞬たりともありませんでした。注目しましょう!「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」 これこそが備えるということであり、「目を覚まして祈る」ということの核になるものです。この第二の祈りは、第一の祈りを打ち消してしまうものではありません。第一の祈りを祈りつつ、神の御心に対しては心を開き続ける祈りということができます。

 私たちに襲いかかってくる苦難に対する最も重要な備えとは、神が望まれていることを、私も一緒に望むことができるようになることです。それは、神が望まれるように自分自身が活かされることを願い、それを承認することでもあります。

「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と祈る人に対しては、いかなる困難苦難もその人をつまずかせることはできません。悪魔ですらも手を出すことができません。このキリストの第二の祈りこそは、私たち自身の身体と魂を守る最善の祈りとなるのです。

 

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