マタイの福音書第26章17~29節

1月10日 公現節礼拝説教

マタイの福音書第26章17~29節

「聖餐卓が証しすること」

 

 コロナウィルスの感染拡大を防ぐために、礼拝で聖餐を祝うことを控えるようになって、まもなく1年が経とうとしています。聖餐を皆が安心して祝うことができるようになる日が回復することを願いながら、今は、ウィルス感染の危険性・リスクをできうるかぎり避けるために聖餐を控える。それが現時点における宇都宮共同教会の判断です。

 私たちは、聖餐式をしてはいけない、と禁止されているわけではありません。今この状況下でも聖餐式をしている教会もあります。しかし、それでも私たちは聖餐を祝うことを控えることを選び取ったのです。こうした判断、選択については、慎重すぎるのではないかとか、実際にパンやぶどう汁の飲食をしないで、聖餐式の形だけでも行ったらどうか、といったいろいろな意見があろうかと思います。私自身も、一度は、聖餐のテイクアウトということを考えたりもしました。しかし、その考えは実行に移すまでの確信には至りませんでした。その最も大きな理由は、コロナウィルス感染予防のために、という理由で聖餐を祝うことを控えている今、キリストはどのようなことを願っておられるのだろうか、ということを考えますときに、主であるキリストが、聖餐のテイクアウトよりも願っておられることがあるに思われたからです。

 それは、聖餐の意味を深く知ること。代々の教会がどのように聖餐を祝ってきたのかを知ることです。そうしたことを、今だからこそ、私たちはじっくりと取り組めるし、そうすべきなのではないでしょうか。

 そのために、ふさわしい聖書をこの朝はお聴きしました。今朝の聖書が伝えてくれています『最後の晩餐』と呼ばれます聖餐式の原型ともいえる、その食事でキリストは何をなさったか。そのことを、しっかりと聴き取り、その意味を知ることは、聖餐を豊かに受けるためにとても重要なことと言えます。その意味で、

この朝は、聖餐式が回復される日を望み見ながら、その備えとして聖書に耳を傾けてまいりたいと思います。

多くのキリスト教会の礼拝堂には、その正面中央に聖餐卓と呼ばれています、聖餐式を行うときに用いるテーブルが据えられています。この聖餐卓は、聖餐式のないときにでも、やはり礼拝堂の中央正面に据えたままにしています。そしてこの聖餐卓を中心にして、説教卓と洗礼盤が据えられています。この三つは、神が私たちに祝福を注ぐために用いる三つの手段をあらわすものともなっています。その三つの祝福の手段とは、神の言葉として語られ聴かれる説教、洗礼、そして聖餐です。

この聖餐を祝うための聖餐卓は、聖餐式を行わないときであっても、大きく二つの役割を果たしていると言ってよいかと思います。その一つは、聖餐卓は、復活されたキリストが今まさに、ここにいてくださる、というキリストの臨在を象徴する場所となっているということです。

 

※カトリック教会では、礼拝堂に花を飾る時には聖餐卓の前に飾る。それは飾るというよりもキリストに花をささげるという意味合いが大きい。そのようにして聖餐卓に臨在しておられるキリストを想い、そのキリストを礼拝する。

※宇都宮共同教会では礼拝献金の籠を聖餐卓の上に置く。それは聖餐卓の中央におられるキリストに、献金をささげていることを表すものとなっている(それゆえに献金籠は、聖餐卓の上ならどこでもよいというのではなくて、両手を添えて中央に置くよう留意したい)。

 

聖餐卓が果たしているもう一つの役割は、キリストと弟子たちとが最後に食卓を囲んだ、いわゆる『最後の晩餐』の出来事を、この聖餐卓を見るたびに思い起こすとができるようにするということです。そのために、私たちはマタイの福音書が伝えてくれている『最後の晩餐』の出来事を、あらためて自分の心にしっかり刻み込むようにして記憶にとどめたいと思います。繰り返すようですが、それが聖餐を豊かに受けるための備えの一歩となるのです。

最後の晩餐におけるキリストの姿を記憶にとどめるために注目しなければならないのは、ユダという人です。キリストの12人の弟子の一人、イスカリオテのユダは、キリストを裏切ってしまう痛ましい人物としてその名がよく知られています。

ユダは、ほかの弟子たちと同じようにキリストの弟子として、キリストの教えを直接に聞き、またキリストのみわざを身近に体験してきた人です。そのユダがなぜ、キリストを裏切ることになったのか、その理由を聖書ははっきりと記していませんが、キリストがこうおっしゃったことを記しています。

「人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれてこなければよかったのです」

ずいぶんと厳しく激しい言葉です。しかし、こう言いながらキリストは、ユダを恨んでいるのではないのです。裏切りをしてしまうユダが、最後にはどうなるのか、そのことがキリストには分かっていたのだろうと思います。ユダが追い込まれてゆく悲しい結末を思い、キリストは胸が張り裂けるような思いでユダをごらんになっていた。それがこの厳しく激しい言葉を生んでいるのです。

 そして、更に注目したいのは、キリストは「とって食べなさい、これはわたしのからだです」と語りながらパンを弟子たちにお与えになったときに、そこからユダを外してはいないということです。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」とぶどう酒を弟子たちにお与えになったとき、そこからユダを外してはいない。キリストは、ご自分を裏切るユダに対しても聖餐をお与えになったのです。――ユダよ、お前は私を裏切ろうとしているから聖餐を受ける資格はない、とユダを追放したり排除したりはしなかったのです。

この『最後の晩餐』において、キリストご自身が、十字架にかかられて肉体を裂かれ、血を流すことの意味をお語りになったことも忘れることはできません。「多くの人のために、罪が赦されるために」十字架にかかる。そのことをキリストは確信をもってお語りになりました。その罪が赦される多くの人のなかに、裏切りをしてしまうユダもはいっているのです。

ユダは、後にキリストを裏切ったことを後悔して自殺をしてしまいますが、ほんとうは自殺をする必要などなかった。なぜなら、ユダの罪さえも赦されるからです、それほどの赦しを与えるためにキリストは十字架にかかられる。そのような十字架の意味をキリストは『最後の晩餐』の中で明らかにされたのです。

そして、このような最後の晩餐をなさったキリストについては、こう申し上げても良いでしょう。キリストは、この晩餐を通して、一人ひとりの弟子たちを例外なく愛し抜かれた。こうしてキリストに愛し抜かれた弟子たちは、それによって例外なく、お互いに愛し合う友となり、兄弟であり続けるのです。

 キリストがふるまってくださる聖餐を祝う場所に集まっている者たちを、キリストは愛し抜いてくださいます。そのようなキリストの愛を常に証しするために聖餐卓は礼拝堂に据えられているのです。そして、その聖餐卓の前に立つ者は、十字架にかかられたキリストの愛を真剣に受けとめることを通して、互いに赦しあい、互いを兄弟として受け入れあいます。キリストがユダを排除しなかったように、互いに排除することなく受け入れるのです。このようにして聖餐に与ることをした人のエピソードを最後に紹介したいと思います。

 

※1923年、第一次世界大戦にドイツがフランスとの戦いに敗れ、フランスの占領軍の支配を受けていた

 ルール地方での出来事。フランス占領軍の将校であるエチエンヌ・バッハは、軍人であったが信仰に厚く、聖書を聞き、祈ることを求めて、ある日、ドイツ人牧師の家の戸を叩いた。残念なことに、このドイツ人牧師は、フランス人が自分たちドイツ人と一緒に聖書を読み、祈るなどということは考えられないと言ってしまった。それほどに当時、この地方はフランス占領軍から厳しい支配を受けていたのであろう。

  しかしエチエンヌ・バッハは、それでも一緒に聖書を読み、祈る友を求め続けた。そして、町ははずれのみすぼらしい、しかしつつましそうな人たちが聖書を囲んでいる集まりに、仲間入りをすることができるようになった。こうしてエチエンヌ・バッハはドイツ人の信仰の友を得ていった。

受難節を迎えた。金曜日のキリスト受難の日、バッハに教会に行きたいという願いを持った。そして、街の大きな教会ではなくて、労働者の多く住む地域にある小さな教会に行った。礼拝堂に入ると、礼拝に遅刻することがないように早めに礼拝堂に入って席に座っていたバッハを周りの人たちは不思議そうに見ていた。必ずしも好意的な眼差しばかりではなかった。バッハは大きな声でも心をこめてドイツ語の讃美歌を歌い、ドイツ人牧師の説教に注意深く耳を傾けた。そうしているうちにバッハはあることに気がついた。聖餐が用意されていたのである!

 ――どうしよう。フランス軍の制服を着た将校である自分が、ドイツ人ばかりのこの教会で聖餐に与れるだろうか。

聖餐卓の前に進み出たとしても牧師に断られてしまうのではないか……集まっている人たちが、憎むべき敵とも

いえるフランス占領軍の軍人と共に聖餐に与ることなどできないと、言い出すのではないだろうか……こうした考

えが頭の中をめぐった。しかし、バッハはこう思い直した。

 ――聖餐卓の前に進むということ。それは十字架にかけられたキリストに前に進むということではないの

か。そのキリストの前には、フランス人もドイツ人もなく人間があるだけである。十字架にかかられた

キリストは、私たちすべてを赦すお方である。こうしてバッハは、自分を引き止める思いが渦巻く中に、

聖餐卓の前に進み出た。この教会では、二人ずつ聖餐を受けることになっていた。このとき、バッハの隣

に立っていた人は、この土地の市長であった。この市長は日ごろからフランス占領軍と市の行政のこと

について、暴力以外の方法で激しく戦っている人であった。その市長が、フランス軍の将校と並んで聖餐

卓の前に立ったのである。牧師は好意の眼差しをバッハに向け、バッハを退けるようなことはしなかった。

そうではあっても、バッハにパンを差し出し、杯を差し出す牧師の手は震えていた。

  二人は、同じパンを食べ、同じ杯を飲んだ。そして席に戻ると黙って握手をした。二人は依然として占

領地域におけるフランス人でありドイツ人であった。その意味では憎みあう敵同士であった。しかし、人

間の力では取り除くことのできない、相手を敵として見てしまうその思いが、聖餐卓の前に進み出たとき

に、すなわちキリストのみ前に進み出たときに取り除かれ、キリストからのパンとぶどう酒に与る中で、

兄弟としての平和を得たのである。

 

 コロナウィルス感染拡大の深刻さが増していることに加えて心配なことは、世界とこの国の様々なところに、幾つもの分断が生じていることです。緊急事態宣言をめぐっても賛否両論、ネットではそれぞれの主張を攻撃的に批判する言葉があふれています。アメリカでは、民主主義の国であることを疑わせるほどの大統領の発言や、その大統領を今なお支持する人たちが、分断の傷をいやすどころす深めてしまっています。日本と韓国の間にも分断が残されたままですし、更に正直に言わなければならないことは、キリスト教会の中にすらも、意見の合わない分断はあるのです。そうした分断の只中で、聖餐卓に進み出る真剣さが、私たちには求められているのです。ユダを退けなかったキリストの前に立つ真剣さこそが、聖餐を祝うための供えとなります。ユダを排除しなかったキリスト、そのユダのためにも十字架のみ苦しみを負われたキリストの前に立つ真剣さが、分断の最中にあっても敵同士が握手をすることができるほどの平和をつくるのです。

カテゴリー: Uncategorized パーマリンク