マルコの福音書第1章1~8節

マルコの福音書第1章1~8節

「希望の主を仰ぎ見よう」

 

 

マルコの福音書には、キリストの誕生については何も書かれていません。この福音書で最初にキリストが登場してくるのは9節ですが、もうその時のキリストは30歳ぐらいになっていたであろうと思われますから、キリストがお生まれになった後、どのようにお育ちになったのか、そうしたことについてもマルコは全く何も記していないことになります。それに対して、マタイやルカの福音書には、キリストの誕生についての記事があります。しかし、それとてそれほど詳しく書かれているわけではありません。それはなぜか、一つの答えを申しあげると『福音書』というのはキリストの『伝記』ではないからです。

 

例えば、電話機、蓄音機、白熱電灯などを発明したアメリカの発明家エジソンの伝記を読んでみると、そこには、エジソンが生まれた家庭のこと、エジソンが子どもの頃の生活の様子、エジソンがどんな学校生活を送っていたかなどが記されています。そういう歴史に名を残す有名人、偉人の伝記と比べてみると、福音書にあるキリストの子どもの頃の記事は、ルカの福音書にほんの僅かあるだけです。これはなぜなのか? 繰り返しになりますが、今、私たちが読んでいるのは『伝記』ではなくて、まさに『福音書』だからなのです。

福音書とはイエス・キリストの伝記ではありません。この福音書の著者であるマルコは、イエス・キリストがどのような生涯を送ったのかということを書こうとしたのではないのです。それならばマルコは、この福音書に何を書きあらわそうとしたのか。それは、「神の子イエス・キリスト、福音のはじめ」(1節)と書かれているように、「キリストの福音」について、「福音のはじまり」について書いた。それがマルコの書きたかったことなのです。そしてマルコは「福音書」と呼ばれるものを書いた最初の人となりました。キリストによる勝利の報せ、福音のはじまりについて書かれた書物、それが「福音書」です。一般の伝記とはそもそも書かれている目的が違うのです。

その結果として、福音書というのは、どこを読んでも喜びの知らせが溢れて出てきます。金太郎飴(どこで切っても同じ金太郎の顔が出てくるようにつくった棒状の飴)のようなものです。それなら、今朝の聖書はどうでしょうか、まだキリストは登場してきていませんが、金太郎飴のように福音は溢れ出てくるのでしょうか。もちろん出てきます。マルコの福音書のどこを読んでもキリストの福音が語られている。その福音を発見することが、福音書を読む一つの喜びともいえます。ですから今朝も、皆さまと一緒に福音を発見する喜びを共に受けとめたいと思います。

 さて、「神の子イエス・キリスト、福音のはじめ」と書きはじめたマルコが、最初に記しているのは、預言者の言葉です。「預言者イザヤの書にこのように書かれている」(2節)と記したその後に、預言者の言葉の引用があります。こうしてマルコが先ず旧約聖書の言葉をもって語っているのには理由があります。そうしながら、マルコはこう言いたいのです。

――これから皆さんが読んで行く福音書に記されている出来事は、偶然に起こったことではありません。

偶然ではなくて、神の言葉を語る預言者たちが予告していたことが現実のこととなったのです! 

神がご計画し、約束してくださっていたことが実現した、その結果が福音なのです!

 

福音がつくりものではないということ、そのこと自体もまた大切な福音だといえます。どんなに喜ばしい話でも絵に描いた餅では意味がありません。福音の喜びが糠喜びでは困ります。キリストの福音は、神がご計画し、約束してくださっていたことが実現した、現実のことなのです。

 

その神のご計画により、キリストに先駆けて伝道の働きを始めた人がバプテスマのヨハネでありました。そのヨハネがしていた伝道というのは「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝える」(4節)というものでした。このヨハネの伝道を受け入れた人々は、罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。こうした伝道をしていたヨハネは当時、人々の間でたいへんな評判となっていたようです。やがてこの後、キリストが公に人々の前に姿をあらわされて伝道をお始めになりますが、キリストが登場したとたんにヨハネの評判、人気が下がってしまうということはなかった。むしろ、ヨハネの方が断然、キリストよりも有名であり続けたのです。ヨハネがそれほどまでに人々からの注目を受けるようになったのには、それなりの理由がありました。その理由の一つに、ヨハネの姿と生活がありました。

「らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め」――――これは列王紀(下第1章)に記されているエリヤという預言者が身につけていた服装と同じです。このような旧約の預言者そっくりの姿をして「いなごと野蜜を食べる」だけのたいへん禁欲的な食生活をしているヨハネの姿は、人々の注目を引くものとなっていました。そして―――このヨハネこそは、待ち望まれていた救い主ではないか…… 人々の中にはそう思う人も少なくなかったのです。

 

 そのように人々から注目を受けていたヨハネが人々に宣べ伝えていた教えというのは、実に厳しいものでありました。マタイやルカの福音書によると、洗礼を受けるために集まってきた人々に向かってヨハネは叱りつけるようにして「まむしの子らよ」と呼びかけていた。わたしがもし、皆さんに「まむしの子らよ」などといったら、どうなるか…… ともかく、ヨハネの語り口は、たいへん厳しいものであったし、その教えもまた厳しいものであったことがマタイやルカの福音書には記されています。しかし、マルコの福音書にはそういうことは何も書かれていません。

 

これから先、この福音書を読んでゆく上で大切なこととして皆さんにも覚えていただきたいことがあります。それは、四つある福音書のなかのマルコの福音書の読み方についてです。マルコの福音書は、マタイやルカ、ヨハネと比べて、同じ事柄を書いている文章がだいたいにおいて簡潔、シンプルです。バプテスマのヨハネのことも、マタイやルカはもっといろいろなことを書いています。

そういう場合に、マルコの記事はあまり詳しくないから、マタイやルカ、ヨハネが書いている事柄を参考にして、四つの福音書を全体として理解するという読み方があります。四つの福音書をまぜあわせるような読み方です。これはこれで良い面もあるのすが、ただ、そうしてしまうと、それぞれの福音書の特徴や強調点を読み損なってしまうという大きな欠点があるのです。マタイにはマタイの視点、ルカにはルカの視点、ヨハネにもたいへん特徴的な視点がある。マルコの記事が簡潔でシンプルであるということにもそれなりの理由がある。ですから、できるだけマルコの福音書そのものに注目し続けながら、マルコは何を伝えたかったのか、そのことを丁寧に読みとることを大切にしたいと思っています。

 

 さて、そうしたことを意識して今朝の聖書を読むと、マルコはバプテスマのヨハネが厳しい語り口で、厳しい教えを語ったということについては全く何も触れていません。そして、ヨハネの口から語られた言葉として、何としても伝えたい言葉だけを7節、8節にこう記しています。

 「私よりも力のある方が私の後に来られます。

私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。

私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、

この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」  

 

これこそは、今朝の聖書に記されている福音です、ここには喜ばしい報せに関わる二つの言葉が語られているからです。その一つは「わたしよりも優れた方が、後から来られる」ということ。もう一つは「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」ということです。

 

ヨハネがキリストのことを「私よりも力のある方」と言っているのは、決してキリストを持ち上げてそう言っているのではありません。事実としてキリストは、ヨハネよりも力ある(新共同訳「優れた」)方なのです。では、どんな点でキリストはヨハネよりも力があり優れていたのか。その大きな違いの一つがバプテスマすなわち洗礼なのですが、この二人の語る言葉についても大きな違いがあったと言えます。

 

ヨハネの語る言葉――それは悔い改めについての教えであり、実際にはなかなか厳しい言葉でしたが、人々はこのヨハネの教えを真剣に聞き、それを実践しようと努力もした。しかし、なかなかその教えの通りに生活できないことに悩み、落胆した者もいたことでしょう。正しく生きるための大切な教え、秘訣ともいえる教え――そうした教えは、結局のところ、その教えを聞いた者が、後はどれだけ自分で努力できるか、そこにかかってくるからです。

キリストの語る言葉――それは単なる教えではなく、出来事を起す、力ある言葉でした。キリストの復活された日の夕方のことを思い出してみましょう。あの日、弟子たちは恐れに囚われて部屋に閉じこもり鍵をかけていました。その弟子たちに復活されたキリストが姿を現され「あなたがたに平和があるように」とお語りになりました。すると、弟子たちは実際に平安を得たのです。キリストの言葉による平安が弟子たちから恐れを追い出してしまわれた。そのような力ある言葉をお語りになるという意味でキリストはヨハネよりも優れていたといえます。

キリストは力ある言葉を語ってくださるお方です。このみ言葉を語ってくださるキリストこそは、私たちの希望です。私たちは自分の精神力とか気力とかに希望を持てません。疲れ切って、無気力になってしまうことさえある。そういう私たちの気力を立て直してくださるのがキリストの力ある言葉なのです。そのみ言葉を私たちはどこで聴くのか、礼拝の中で聴くのです。真理の霊である聖霊の恵みによって、説教者の語る言葉から、キリストのみ言葉を聴くことができるのです。

 

キリストがヨハネよりも力があり優れているもう一つのことでありますキリストは「聖霊によってバプテスマをお授けになる」ということに移ります。

この後、私たちはマルコの福音書を通してキリストのなさったことをいろいろと見て行くのですが、キリストが誰かに洗礼を授けたという記事は一つも出てきません。ヨハネの福音書には、キリストのところに来て洗礼を受ける人がたくさんいたということが書かれていますが、その直後に、洗礼を授けたのは、本当はキリストではなくて弟子たちであったとわざわざ断っています。ですから福音書を読むかぎり、キリストは洗礼を授けるという行為をしていないのです。

では、キリストは「聖霊によってバプテスマをお授けになる」とは、どこで実際に行われるようになったのかというと、それは教会の洗礼においてです。キリストの名によって授けられる洗礼、実際には父、御子、聖霊の名によって授けられますが、その洗礼こそは「聖霊によってバプテスマをお授けになる」というその洗礼なのです。

「名によって」とは、名前の主の行為を意味する言い方です。教会が行う洗礼は、形の上では水を用いるヨハネの洗礼そのものですが、ヨハネと違うのは、キリストを含めた三位一体の神の名による洗礼であるということです。

――キリストの名による、聖霊による洗礼を受けた者たちは、神の子とされます。

――キリストの名による、聖霊による洗礼を受けた者たちは、神が慈しみ深い天の父であることを証しし、それを分かち合う祝福の担い手とされます。その祝福を担うための助けとして、聖霊を内に宿すという、驚くような恵みさえ与えられます。

 

家族や友人に伝道することの困難を覚えることがあります。病者を訪問する時には、福音の恵みを証しする者としての明るさを持ってということが言われたりもします。しかし、だからといって病の不安や苦しみに耐えている人の前で、やたらに明るく振舞うことが、明るさを持って接するということではありません。こうした話を聞くと、福音を証しするということは難しいなあと思ってしまうかもしれません。

そこで思い起こすことは――自分は、キリストの名による、聖霊による洗礼を受けているということ。

そして洗礼を受けている自分にも聖霊が与えられるということです。そのような聖霊による洗礼の恵みを現実のものとしてくださった、父なる神を、そしてキリストを仰ぎ見ることから、福音の担い手としての一歩が始まるのです。

(2021年6月20日 三位一体後主日礼拝)

 

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