マルコの福音書第1章1節
「勝利の報せを聞こう」
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの福音書があます。それら4つの福音書の書き出しの部分は、それぞれに特徴があります。
マタイの福音書は――――イエス・キリストの系図ではじまり、実に41人の名前が書き連ねられています。ルカの福音書は――――著者であるルカが、自分の書いた福音書をテオフィロという人に奉げるための文章、
いわゆる「献呈の言葉」が最初に置かれています。
ヨハネの福音書は――――「ロゴス讃歌」と呼ばれる初代教会の讃美歌を用いた序文・プロローグになっています。
さて、それではこれから私たちが聴き続けて行きますマルコの福音書の書き出しはというと、たった一行の短い言葉。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。これだけです。しかし、この短い文章は、最大級と言っても良いほどに重要な言葉からなっています。ですから今朝は、この1節だけに集中して耳を傾けてまいりたく思います。
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そこで先ず「神の子、イエス・キリスト」という言葉について見てゆきます。四つの福音書は、いずれもイエス・キリストのことを記しているのですが、それぞれに違った強調点があります。マルコの福音書が何よりも強調していることは「イエス・キリスト」が「神の子」であるということです。そのことをマルコの福音書は、最初にずばりと宣言しているのです。こうしたやり方は、福音書が書かれた当時としては、極めて大胆なことであったといえます。といいますのも、この福音書が書かれた時代(西暦65年から70年頃)にイエス・キリストは神の子であるということを公にすることは、文字通りに命懸けのことであったからです。西暦60年代からローマ帝国によるクリスチャンに対する迫害が始まっており、ペテロは60年頃にローマで殉教しています。そのペテロから聞き伝えられていた記録をもとにしてマルコの福音書がまとめられたのであろうとも言われています。いずれにしてもイエス・キリストは神の子であるということを不用意に口にしようものなら、ローマの官憲に捕らえられかねない。そして命すら奪われかねない。そういう時代にこの福音書は書かれているのです。
さて、それではなぜイエス・キリストは神の子であるということを口にすることが、迫害を受ける原因となったのか。それは「神の子」という言葉は、クリスチャンの間だけで使われていた言葉ではないからです。
世界史を勉強しているとアレキサンダー大王という人物の名前を覚えさせられます。イエスがお生まれになる300年ほど前に、ギリシャから始まって、シリア、エジプト、ペルシャを征服し、インドにまで勢力を拡大したアレキサンダー大王は「大王」と呼ばれるだけでなく「神の子」とも呼ばれました。それから後、ローマ帝国の時代になるとローマ皇帝は自分を「神の子」と呼ばせました。そして皇帝である自分を神として崇拝することを人々に強制したのです。というわけでマルコの福音書が書かれた時代、世間では「神の子」と言えば、それはローマ皇帝を指す言葉でした。ですから、そういうところでイエス・キリストは神の子であると言いあらわすということは、――ローマ皇帝は、本当の神の子はではない、イエス・キリストこそが神の子である、と言っているともとられかねない。当時のクリスチャンたちは決してローマ皇帝を冒涜するような言葉を語ったりすることはなかったのですが、イエス・キリストを神の子と告白することで、結果としてローマ皇帝を神の子と呼ぶことを拒否することになり、それが皇帝を冒涜することであると非難され、数え切れないほどの多くの信者が迫害を受け、命を落としていったのです。
そうした迫害の時代、クリスチャンたちの間で用いられていた印がありました。それは魚の形をしたマークでした。なぜ魚なのかというと、ギリシャ語ので「イエス」「キリスト」「神の」「子」という文章を書いた時、そこに使われている単語の頭文字だけをつなげると「魚」という言葉になるからです。クリスチャンたちは、隠れ家の扉などにこの魚のマークを書いて、お互いの居所を確かめ合ったりしたのです。
しかし、この福音書を書いたマルコは、クリスチャンだけに通じるような印とか暗号のような言葉は使いませんでした。それどころか、誰にでも目につく最初の一行に、堂々と「神の子、イエス・キリスト」と書いたのです。これはとても危険なことでしょう。なぜそうしたのか? クリスチャンにとって、どんなに苦しい迫害の中にあったとしても、イエス・キリストが神の子であるということが希望の全てであったからです。そのことは私たちにとっても同じことです。私たちにとっての希望、それを最も短い言葉で言いあらわそうとするなら、イエス・キリストが神の子であるというこの一点に尽きるのです。
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ならば「神の子、イエス・キリスト」がなぜ、私たちの希望なのか、その理由を示しているのが「福音」という言葉です。聖書に「福音」と訳されている言葉の原文・ギリシャ語はエウァンゲリオンといいます。この言葉には、もともとは、戦争のときに戦いに勝ったことを伝える勝利の報せという意味があります。この福音という言葉の歴史を紐解いてゆくと、マラトンの戦いというギリシャとペルシャが戦った有名な戦争にちなんだエピソードが必ずと言ってよいほどに語られることになります。
紀元前490年にマラトンという戦場において、ギリシャ軍がペルシャ軍を打ち破った時のことです。一人の兵士がその勝利の報せをギリシャのアテネまで伝えるようにとの命令を受けて走りました。この兵士は、あまりに早く走ったため、アテネに到着して勝利の報せを伝えると、そのまま倒れて死んでしまいます。
なぜ、そこまでして早く走ったのか。それは、アテネの町で待ち焦がれている人たちの不安な気持ちを少しでも早く取り除いてあげるためです。このマラトンの戦いの勝利を記念して42.2キロの行程を走るマラソンというスポーツ競技が生まれました。42.2キロとは、勝利の報せをアテネに伝えるために兵士が走った距離でした。
このような勝利の知らせを伝える兵士は、心配しながら待っている町の人々の前に現れると、挨拶のために手を挙げて、大声で「喜べ、我々は勝ったぞ」と叫びます。そして、どれだけの敵を倒し、捕虜にしたか、その数も報告します。その兵士の頭には、月桂樹の冠が飾られます。こうした兵士の伝える勝利の報せが、エウァンゲリオン・福音という言葉になったのです。
福音を「グッドニュース」とか「喜ばしい知らせ」と言い換えることもできますが、そもそもの意味は戦いに勝ったことを報せる「勝利の報せ」であったということをぜひ覚えておきたいものです。そして、マルコの福音書が「神の子、イエス・キリストの福音」と言っているときの福音とはどのような勝利を指しているのかといえば、それはマラトンのような有名な戦場で勝ち取られた勝利ではなくて、エルサレムで勝ちとられた勝利、もっと正確に言うとゴルゴタの丘の上で勝ちとられた勝利でありました。
キリストの受難日となった金曜日に――――キリストは十字架の上で「成し遂げられた」とお語りになりながら息を引き取られました。そのようにして成し遂げられた勝利です。
キリストの復活日となった日曜日に――――空っぽになったキリストの墓について、天使は「あの方は復活なさった」と告げました。そうしてキリストは死を打ち破って勝利されました。このキリストの十字架の死と復活こそは、私たちに希望を与える勝利の報せ・福音なのです。
更に言えば、礼拝の説教というのは「福音」を告げることこそが本来の最も重要な務めなのです。説教を語る牧師の務めは、勝利の報せを伝えるために走る兵士の務めと同じようなもといえるでしょう。
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戦争の勝利を報せる兵士は、戦いに勝ったという結果だけでなく、どれだけの敵を倒し、捕虜にしたかということも報告するということを先ほど申しあげました。また説教者は、勝利の報せを伝えるために走る兵士のようなものだとも申しました。そうであるならば、今、私がここで語っています福音を語る説教においても、十字架の死と復活によって勝利されたキリストは、どのような敵に対して勝利を勝ちとってくださったのか。そのことをここでお伝えしなければ、今朝の説教を終ることはできません。
キリストが私たちのために戦い、倒してくださった敵。それは、罪と死という敵です。パウロは「罪の報酬は死です」(ローマ人への手紙第6章23節)と言いました。その罪の支払う報酬としての死をキリストは打ち破ってくださったのです。ただ、キリストが死を打ち破ってくださったということについては少し説明が要るかもしれません。
キリストが死を打ち破ってくださったのなら、もう私たちは死ななくて済むのか……、そういうことではありません。キリストが死に打ち勝ったということは、死というものを無くしてしまわれたわけではない。
ですから、私たちにはいずれ死ななければならない時がくる。そのような死の現実は変わることはありません。ならば、キリストが罪と死に対して勝利してくださったことによって何が変わったのか。それは、キリストが罪と死を打ち破ってくださったことによって、もはや、神に見捨てられて死ぬ人は、いないということです。
キリストが罪と死を打ち破ってくださったことによって、死は人間にとって、不自然なもの、異常なもの、危険なもの、恐ろしいものではなくなったのです。このようなキリストの勝利によってもたらされたものをパウロはこう語っています
「神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです」(ローマ人への手紙第6章23節)
キリストは、神の賜物としての永遠の命をすべての人に与えるために、十字架の死と復活によって、罪と死に勝利してくださいました。この神の子、イエス・キリストの福音を希望として受けとめ、この希望をもって、家族や友人たちを励ましてあげることができるように、慰めを語ってあげることができるようになりたいと思います。
そして、家族や友人たちが、この福音による希望を「わたしの救い」として受けとめることができるようになることを祈ってまいりたく思います。その祈りを常に新しくして行くためにも、私たち自身が福音の希望の中にしっかりと立つことができるように、マルコの福音書をこれから聴き続けてまいりましょう。
(2021年6月13日 三位一体後主日)