ヨハネの福音書第一章6~13章

12月6日 待降節主日礼拝説教

ヨハネの福音書第1章6~13節

「クリスマス―言・光のみわざ―」

 ただ今、お聴きした聖書には、「イエス」という名前も、「キリスト」という呼び名も記されていません。イエスという名前、あるいはキリストという呼び名が一度も出てこないのにもかかわらず、今朝の聖書には「最も小さいイエス伝」が記されていると古くから言われてきました。「イエス伝」とはイエスの伝記ということです。そのイエス・キリストについての伝記が、最も小さい形で、今朝の聖書にはある。その箇所とは、9節から12節です。ここを今朝は、待降節に与えられたみことばとして耳を傾けていりたいと思います。

「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(9節)

クリスマスとは、キリストがこの世に来てくださった出来事を思い起こし、それを感謝する祭りです。そのキリストは「まことの光」としてこの世に来て、すべての人を照らすお方であります。

 

※「まことの光」とは、本当の光ということ。この「まことの」とか「本当の」という言葉について注意したいことがある。クリスマスになると「まことの」とか「本当の」ということをめぐって、クリスチャンが陥りやすい過ちがある。その過ちを犯すときこんなことを言い始める。

――世間のクリスマスは、イエス・キリストの誕生のことを知らずに、プレゼントだとかパーティーをしているだけで、それは「まことの」クリスマス、「本当の」クリスマスのお祝いとはいえない。それに対して、私たちは「本当の」クリスマスを祝っている。「まことの」クリスマスを祝うためには教会に来るべきである……こういう考え方は、実に冷たい、愛のない考え方。→『パリサイ主義』

※ヨハネの福音書の第1章1~18節は、初代教会のクリスチャンたちがうたった讃美歌がもとになっている。初代のクリスチャンたちは、自分たちこそは「まことの光」であるキリストを知っている、ということを、いささか自慢するような気持ちで歌っていたというのではない。そもそも讃美歌というのは、我こそはまことの神を知っている。本当の神を信じているということを誇らしく自慢して歌うようなものではない。讃美歌は、慰めを受けとめ、喜びを共に分かち合うようにして歌われるもの。ヨハネの讃美歌もまさにそのように歌われている。こんなふうに。

 ♪――すべての人を照らす光が来た。すべての人の命を照らし、その人の心を不安や恐れから救うことのできる光が来た。その光は絵空事ではない。その光は誰かの作り話ではない。その光はまことに存在する光。その光は本当に私たちの命を照らすことのできるまことの光!――♪

 

※ヨハネの讃美歌が「まことの光」と歌うとき、それは本物と偽物とがあって、――我こそは本物の光を知っていると、そういうことを歌っているのでない。そうではなくて、

 ――私たちの心、不安や恐れで暗くなってしまう心、その心を照らして明るくしてくれる光、そんな光が本当にある。その光は、すべての人を照らすことのできるまことの光。だから、その光は、あなたの心だって照らしてくれる。そのように、相手を思いやりながら歌っているのである。

 

では、その光は、実際にはどのようにして私たちの魂・心を照らすのでしょうか? それは「ことば」によってです。ですからこのヨハネの讃美歌の中でキリストは「まことの光」と歌われると共に「ことば」とも歌われている(1節、14節参照)のです。

  • 今年はクリスマス礼拝の後、いつものような食卓を囲む祝会は行わない。しかし、それによってクリスマスの祝いができないと考えないようにしたい。コロナの禍と呼ばれている今こそ、我々はクリスマスを喜び祝う。例年以上に豊かに祝うべきであろう。そのために今年は、プレゼント交換と合わせてみことばの交換会をすることにした。皆さんがそれぞれに、プレゼントを受け取る人のために、その人を元気づけてあげられるような、みことばをカードに書いて、それをプレゼントと共に贈り、お互いにそれを受けとる。こうした、ささやかなことを通してでも、みことばによってキリストは、我々の心を照らしてくださる。そのことを信じたいと思う。

さて、ヨハネの讃美歌は、明るい喜びを歌いながら、暗い厳しい現実についても、そこから目を背けずに、こう歌いあらわしています。

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」(10~11節)

 

  • ここに記されている「知らない」(新共同訳「認めない」)、そして「受け入れない」という二つは、我々人間の神に対する罪の本質をあらわしていると言える。人間の犯す最大の罪、人間自身を惨めにしてしまう深刻な罪の本質、それは神を「知らない」といって退け「受け入れない」ことである。

 

 すべての人を照らすためにこの世に来たキリストは、認められず、受け入れられなかった。そこでキリストはどうされたか。――それなら、もうわたしはすべての人を照らす光であることをやめる。勝手にするがよい、とこの世を見捨てるようなことはなさいませんでした。なぜなら、神が、キリストを受け入れる人々を生み出されたからです。そのことをヨハネの讃美歌はこう歌うのです。

「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(13節)

 キリストを受け入れない世ではあったけれども、その中に、信仰深く、素直に、熱心にキリストを受け入れる人々がいた、というのではないのです。人間の意志ではなくて、神によって、キリストを受け入れる人々が生み出された。信仰を持つとはそういうものだ、と初代教会のクリスチャンは歌っているのです。

 そのようにして神によって生み出され、キリストを受け入れた人々、キリストの名を信じた人々には、神の子どもとなる特権が与えられます。

 

 ※「神の子ども」という言葉で想うこと。

  今年の待降節礼拝にはS・Yさんの姿がない。そのことを改めて思う。Sさんの葬儀説教で、また、その直後の礼拝でも語ったことであるが、お元気であったときのSさんは、私と妻に度々質問をしてこられた。――自分は本当に神に受け入れられているのでしょうか、と。その質問に私と妻は、Sさんの質問にはこうこう答えよう、と打ち合わせていたわけではないが同じ答えを繰り返してきた。む――Sさんは神の子どもですよ!と。それに対してSさんは、

  ――そうですか、とそれこそ幼子のように嬉しそうな顔をされた。それがSさんの最も信仰者としてのすばらしい姿、すばらしい瞬間であったと私は信じている。

   そして、こんなことも思う。私が死んだとき、私の葬儀を執り行う牧師に願うこと、あるいは期待することがあるとすれば、いささかでも私の功績のようなことを語ることはしないでほしいということ。私のことを「先生」として語ることをしないでほしい。そして願うことは――この人(田上)は、神の子どもであることを喜びとしていた、とだけ語ってほしい。またそう語ってもらえるような、生き方をこれからしてゆきたいと思わせられている。

 

 ※米国長老教会が、子どもに信仰教育をするためにつくった教理問答がある。

  問1 あなたは誰ですか。

  答  私は神さまの子どもです。

  問3 あなたは何によって神さまの子どもになりましたか。

  答  恵みという「神さまの愛の贈り物」によってです……

  問4 神さまに愛されるためには「良い子」にならないといけないのですか。

  答  いいえ、私がどんな子であっても、神さまは私を愛してくださっています。

  であるから、神の子どもは、自分を誇らない。自分の功績を人々に知ってもらおうとは思わない。

  また神の子どもであるお互いは、人を大きくしないで神を大きくすることをわきまえる。

  それゆえに、ヨハネの讃美歌もこう歌うのである。

「……人の意志によってではなく、ただ神によって生まれたのである」

 

 さいごに、神は、なぜ私たちクリスチャンに「神の子どもとなる特権」を与えてくださったのか、そのことを受けとめたいと思います。結論的なことだけを申し上げます。

神が私どもに、神の子どもとなる特権をお与えくださったのは、私どもを用いて、すべての人々の心にキリストの光を届かせるためです。

この世に来られたキリストを世の人々は受け入れませんでした。しかし、それでも神は、キリストを受け入れない人々にも、キリストの光をもって心を照らしてあげたいのです。「すべての人を照らす光」が「まこと」であることを、神ご自身が諦めないのです。そこで神は、神の子どもとされた者たちを用いて、キリストの光がまことに、本当に「すべての人を照らす」ことができるように、そのために神の子どもとなる特権を与える人々を生み出されたのです。

 

  • もう一度「みことばのカード」のことについて

この取り組みは、すべての人々にキリストの光を届けるために、神の子どもとされている者に

とっての、一つの実践訓練ともいえる。

カードにみことばを書くときに、クリスマスだからと言って、おきまりの聖句を安易に書かないでほしい。あなたの書いたカードを受けとる人が、もしクリスマスを素直に祝えないほどに、心が落ち込んでしまっているとしたら、そんな人の心が少しでも明るくなるために、どんなみことばを届けてあげたらよいか、そのことを、聖書をめくりながらでものよいから、よく考えながらカードを書くことをしたい。また、どの聖句を書いたらよいか、よくわからないというときには、たとえば、

あなた自身が、落ち込んでいるときに、元気づけられるたみことばを書く。それも良い方法であろう。そのときに気をつけたいのは、自分の好きなみことばをかくというのでない。あくまでも、相手がそのみことばを読んだときに、その人の心に光が照らされるために、ふさわしいと思いみことばを書くということである。神の子どもとされている喜びを受けとめながら、このささやかな祝会の試みを受けとめていきたい。

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