ルカによる福音書第2章8~20節

12月27日 降誕後主日礼拝説教

ルカの福音書第2章8~20節

「聖夜の恐れ」

 

今年は、格別に寒い冬を迎えています。今私たちは、二つの寒い波、寒波の中にあります。一つは、文字通りの〈寒波〉です。今シーズンの年末年始は、数年に一度といわれています強い寒波が日本列島を覆い、九州や近畿地方でも雪が降るとの天気予報となっています。ここ関東地方も例年に増しての厳しい寒さとなることでしょう。

そしてもう一つの寒波とは〈コロナ感染拡大の第3波〉のことです。感染拡大の勢いが止まりません。イギリスで発生した感染力のつよいウィルスによる危険性が、日本でも対岸の火事とはいえなくなりつつあります。こうしたニュースは私たちの心を寒寒とさせます。

今、私たちは誰一人例外なく、この二つの寒波のなかにある。それに加えて、皆さんひとりひとりにとっての、心を重くさせる不安や課題といったものがあるかもしれません。そんなことを考えるといよいよ寒くなってきてしまいます。このままでは凍えてしまいかねません。

そこで、この朝は、私たちの心を暖めてくれる聖書の物語をお聴きしました。物語といっても作り話という意味ではありません。聖書の物語というとき、それは説明や論理ではなくて、私たちにある情景を見せてくれるということを意味します。その情景を思い浮かべることで、神の言葉が生き生きと聴き取れるようになるのです。先ほど共に聴きました聖書の物語、すなわちクリスマスの物語が、寒波の中にあります私たちの心を暖めてくれることを願いながら、共に耳を傾けてまいりたいと思います。

 今朝の聖書は、聖なる夜であります〈聖夜〉の出来事を物語っています。

 夜の野原を思い浮かべてみましょう。暗い野原ですが、よく注意してみると星明かりに照らされて何かが見えます。群をつくって眠っている羊たちです。その羊の群の側には、羊飼いたちの姿もあります。その時、羊飼いたちは焚き火を囲んでいたのではないか……とそんな想像をすることもゆるされるでしょう。だとすれば、パチパチと薪が燃える音と、羊飼いたちのしずかな語らいの声だけが、夜の野原に響いていたことでしょう。

  そのような暗い夜の野原にいた羊飼いたちのところに、突然、天使が現れました。天使は開口一番、羊飼いたちにこう語りかけたのでした。「恐れることはありません。」

毎年、クリスマスにはルカの福音書が伝えるクリスマスの物語が読まれます。今年も、世界中の教会で、この「恐れることはありません」という言葉が読まれ、聞かれたことでしょう。

クリスマスの祭は、日本においてもなくてならぬ冬の代表的な行事となりました。今年は、例年以上にクリスマスケーキの売れ行きが良かったと聞きます。しかも、値段の高いケーキの売れ行きが良かったそうです。コロナ禍のなか、せめて家庭で、いつもよりも大きなケーキを食べながらクリスマスを過ごそうという人が多いのでは……と店員さんがニュースのインタビューに答えていました。こうしたことを私は好ましいことだと思っています。――キリストのことを全く意識もしないで、ケーキだけを食べるクリスマスが本当のクリスマスと言えるのか……そういう冷たいことを言ったり、考えたりすることはよしましょう。この冬、誰だって温かい気持ちになりたいのですから。そのことのために、クリスマスツリーを飾り、ケーキに蝋燭を灯して、楽しいクリスマス・イブを過ごすことが、心を暖めるために役立つのなら、それはとても良いことだというべきです。

そのことを認めた上で申し上げるのですが、クリスマスといえば、楽しいお祝いであると多くの人は、またクリスチャンもそう考えています。ところが、最初のクリスマスのお祝いを経験することになった羊飼いたちはクリスマスを祝うに先立って「非常な恐れ」を抱いたことを忘れるわけにはいきません。羊飼いたちは、普通ではない、非常な恐れを抱いた。だからこそ天使は最初にこう言わなければならなかったのです。「恐れることはありません。」

 

  クリスマスの夜、羊飼いたちは大いに恐れました。では私たちはどうだったでしょうか。――あなたには恐れはありませんか?と問われるならば、私たちにも全く恐れがないわけではありません。特に今年は、最初に申しました二つの寒波にかかわる恐れがあります。――コロナ禍の影響で、仕事を続けることができなくなってしまうのではないか…… ――就職の内定をもらったけれども、それを取り消されてしまうのではないか……、そういう恐れを抱いている人も多いことと思います。そして、私たちすべてが恐れていることがあります。それは情け容赦なく、どこかで待ち受けている死に対する恐れです。

このように、私たちもまたクリスマスを迎えながらも恐れているのです。しかし、羊飼いたちが「非常に恐れた」というときの恐れは、いま取り上げてみせたような恐れとは内容が全く違います。寒波やコロナに関わる様々な恐れ、死に対する恐れ。こうした恐れは、言うなれば、私たちの心と魂を不安にさせる〈人生の暗闇〉に対する恐れということができます。

 

※子どもは暗闇を恐れる。岡山県の教会にいたとき、近くに温泉があったので――今日は寒いから風呂に入る代わりに温泉に行こう、と家族でよく温泉に行った。三歳になる次女の体を洗ってあげた後、外にある露天風呂に行こうとしたところ次女が嫌がった。どうしてかと聞くと、暗いから嫌だという。こうした子どもが暗闇を怖がる恐れと、大人が、仕事がなくなりはしないかとか、病気や死といった〈人生の暗闇〉を恐れることとは基本的には同じものといえる。

 

それに対してベツレヘムの羊飼いたちが「非常に恐れた」というのは、暗闇を見て恐れたというのではありません。聖書がはっきりと物語っているように「主の栄光が周りを照らしたので」羊飼いたちは「非常に恐れた」のです。この羊飼いたちが、主の栄光にめぐり照らされたことで抱いた恐れというのは、――神さまは本当におられるのだ!と、神の存在の事実に打たれた人の畏れです。クリスマスのメッセージである「恐れることはありません」に対応する恐れとは、神を畏れる恐れのことなのです。

主の栄光は、羊飼いたちをただ照らしたというのではなくて「周りを(すなわち羊飼いたちの周りを)照らした」と聖書は物語っています。それは丁度、天からスポットライトのような光りが差してきて、羊飼いたちはその光に照らされていた、そんな情景です。羊飼いたちは突然、天からのスポットライトを浴びたことでも非常に恐れたのです。

 

※クリスマス・ページェント(降誕劇)のことを思い出してほしい。本格的な劇をする場合、スポットライトを使い、舞台に登場する俳優に光りが当てられる。俳優の動きに合わせてスポットライトの光も動く。それと同じように、我々がどこに行こうと、どんな状態にあっても、神は我々にスポットライトを当てておられる。その光から逃げることはできない。そして自分のやることなすこと、私たちの心の中身までが全て神によって知られている、これは考えてみれば恐ろしいことである。これもまた神を恐れることの一つの意味といえる。

  ベツレヘムの羊飼いたちは、主の栄光に照らされることで、生きておられる神に対する恐れの念に打たれました。しかし羊飼いたちを恐れさせた主の栄光の中から聞こえてきた言葉は、決して、羊飼いたちを恐れによって打ちのめすようなものではありませんでした。天使は神からのメッセージをこう告げたからです。

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを伝げ知らせます。

今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生れになりました。この方こそ主キリストです」

このとき羊飼いたちは、紛れもなく、確かな喜びの知らせを聴いたのでした。

私たちの生活の全てを、神はスポットライトを当ててごらんになっているかのように全てお見通してあるということを考えるときに、私たちにとって光を当てて欲しくない部分というものがあります。それは私たちが行ってしまう神を悲しませる、相手に対する愛のない冷たい仕打ちであったり不道徳であったりします。そうしたことを繰り返してしまう私たちを神は突き放されるのではなくて、キリストに免じて私たちを受け入れ続けてくださいます。そのことのためにお生まれになった幼子について天使は「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と告げているのです。

この幼子・キリストによって、私たちをめぐり照らす神のスポットライトが、私たちにとって違ったものとなります。これまでは自分のすべてを照らされることに恐れを感じていた神のスポットライトが違った役割を果たしてくれていることに気づくようになるからです。それは、人生の暗闇に対する私どもの恐れを取り除く働きを神のスポットライトがしてくださるということです。

 

  • つまりこういうことである。我々の人生の暗闇はこの先、ますます濃くなるかもしれない。しかし、我々に主の栄光というスポットライトを当てていてくださるお方は、暗闇に対する我々の恐れや弱さを知り、必要な助けを与えてくださる。職場や学校の中に、そして家庭の中にすら恐れがある。そういう場所に我々は帰って行かなければならない。しかし、その我々の足取りに合わせるようにして神の栄光が我々を追ってくる。病気や老い、そして死という孤独の闘いにおいてすらも、神の栄光が我々めぐり照らしてくださる。

クリスマスはなぜか孤独を深く感じるときでもあると言った人がある。そのとおりである。たとえば、自分が精一杯努力していることに誰も気づいてくれない。忙しさの中で、皆が己のことで頭がいっぱいで、身近な人の言葉や親切に気がつかないようなことが起きやすいのだろう。そのために相手のためにと思って行ったことが気づいてもらえない、その辛さ、孤独がある。しかし、そういう誰も気づいていないことを精一杯しているその人の行為のすべてを主の栄光はめぐり照らしている。神はそれをごらんになり、神だけは知っていてくださるのである。

私たちを照らす神の栄光は、実際には目に見えるスポットライトの光のようなものではありません。その点、羊飼いたちが見た神の栄光は、実際に光としても見ることのできた特別なものであったかもしれません。しかし、それも長続きするものではありませんでした。天の軍勢によって歌われた「いと高き所で、神に栄光があるように……」という大合唱が終わり、天使たちが天に帰って行くと、再び野原はもとの夜の暗闇に戻ります。まるでは、今見たことは全て夢であったかのように。

  しかし、だからこそ羊飼いたちは、そこで信じたのです。主の栄光は確かに光り輝いたのだと。その信仰があったからこそ、馬小屋の中にお生まれになったキリストを見に行こうという羊飼いたちは決心しました。  

私たちも同じです。このクリスマスの物語で聴いた救い主は、私たちのための、この世界のための救い主なのです。そのことを信じて私たちはこの礼拝に集い、またここから、生活の場へと帰ってゆくのです。神の栄光にめぐり照らされながら。そうして、クリスマスに現れた神の栄光にめぐり照らされながら新年を迎えるのです。

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