ヨハネの福音書第1章15~18節

12月20日 待降節主日礼拝説教

ヨハネの福音書第1章15~18節

「クリスマス―恵みとまことの実現―」

 

 待降節第4の日曜日を迎えました。今年は4回の待降節礼拝の中で、ヨハネの福音書の序文と言われています第1章の1節から18節を聴きながら、クリスマスを迎える計画を立て、今朝はその最終日になります。クリスマスの当日は今週の金曜日ですが、一足早く、私たちはこの朝の礼拝をクリスマス礼拝としてここに集まっています。お集まりの皆さんに、そして通信機器をとおしてこの説教に耳を傾けてくださっている皆さんに、クリスマスの挨拶を送ります。

 先週の礼拝でお聴きしました「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」という喜びの歌にあらわされています祝福が皆さんのうえに確かに、豊かにありますように! 私たちと同じ人としてお生まれ下さったキリスト、それゆえに私たちの喜びも苦しみも分かってくださるキリスト。そのキリストが同じ一軒家に住んでくださるようにして共にいてくださる。そのことによる励ましと慰めが、皆さんにありますように!

さて、今朝の聖書に記されていますヨハネの讃美歌にも、私たちの心を慰め、喜ばせてくれる言葉が幾つもあります。その中で、16節と17節後半はこのようにうたいあらわしています。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」「……恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」

 

   ※我々はお互いの誕生日を覚えて「誕生日おめでとう」とお祝いするが、「クリスマスおめでとう」と祝うとき、それはイエス・キリストの誕生日の祝っているわけではない。クリスマスの意味を知らない方に、分かりやすくクリスマスを説明するために――クリスマスには、イエス・キリストの誕生を祝うのです……という言い方をすることはある。それを全く間違いであると決めつける必要はないが、クリスマスを「おめでとう!」といって祝う理由については、正確に覚えたい。我々がクリスマスを祝うのは、キリストが人としてお生まれ下さるという形でこの世に来てくださったことにより、この世を救い、我々を救うための神の恵みが実現したからである。そのようなクリスマスを祝う理由をヨハネの讃美歌は、

――神が私たちに「満ち満ちた豊かさの中から」恵を与えてくださるときが来た。そのことがキリストの誕生によって実現した!と喜びうたっている。

 

昨日、妻と夕方にスーパーに買い物に行ったときのことです。いつも買っている牛乳を買おうとしたところ、品切れになっていました。年末、正月に備える買い物のために折角お店に行っても品切れということがあります。しかし、キリストによって実現した恵みは、どんなにたくさんの人に分け与えても、品切れになってしまうことはありません。

またスーパーの話しになりますが、時々、何かの大安売りが行われている時、その商品が並べられているコーナーには、たいていこういう注意書きが貼られています。「お一人様一つ限り」 安売りの恵みに与ることができるのは、お一人様一回限りというわけです。しかし、キリストによって実現した神の恵みには、お一人様一回限りという制限はありません。そのことについても初代教会の讃美歌はうたうのです。

「私たちはみな、この方の〝満ち満ちた豊かさ〟の中から、〝恵みの上にさらに恵み〟を受けた!」

それだけではありません。キリストによって実現したが恵みは、豊かなだけでなく、その与え方に

おいてもまた特別です。そのことをはっきりさせているのが「律法はモーセによって与えられ」ということです。

※ここではキリストによって実現した「恵みとまこと」ということが「律法」と対比されている。

     この二つの間には決定的な大きな違いがあるからである。では何が違うのか。

     律法は……○○しなさい、○○してはいけないという行いを求めて、命じる。それをきちんと実行すれば、それがその人にとって祝福になる。だから、律法によって約束されている祝福に与るためには、それ相応の努力が必要。これは良し悪しの問題ではなく、そもそも律法にはそういう一面がある。子どもたちにクリスマスのプレゼントの話をするときに――よい子にしていたらサンタさんがプレゼントをもってきてくれますよ。しかし、悪い子にはプレゼントはありません、と言い聞かせるなら、それは律法の教えを語っていることになる。このような律法に対して

     キリストによって実現した恵みとまことは……徹頭徹尾、神のご好意による。我々が努力してよく働いたから、その見返りとしてというのではなくて神のご好意によって与えられる。だから「恵み」なのである。そのことを真剣に受けとめながら子どもたちにクリスマスのプレゼントを贈る大人は子どもたちにこう教える。――今日はクリスマスだから、あなたが良い子であろうと悪い子であろうとプレゼントをあげます。神さまは、あなたが良い子でも悪い子でも愛されるからです。だから、自分が悪い子だと思ったら、いつまでも悪い子のままでいるのではなくて、良い子の仲間入りができるようにしようね。そのためにも神さまは助けてくださいます、と福音を語る。

    ※クリスマスに洗礼を受けたという人は多いであろう。律法によってではなくキリストによって実現した恵みとまことによって恵みを受けたということは、自分の受けた洗礼のことを考えるとよく分かる。自分が洗礼を受けたことを――私は人並み以上に努力したから、洗礼を受けることができた……などと自分の手柄のように言う人はいない。――私が洗礼を受けたということは、これは「まこと」に神さまからの「恵み」です。そうでなければ、私は洗礼を受けることはなかったでしょう……というはずである。神の子となる洗礼の恵みを受けるために必要なものもまた恵みである。恵みの上塗りによって我々は洗礼を受けることができたのである。

                   ◆

クリスマスを喜ぶ理由を示してくれているもう一つの言葉18節に移ろう。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされるのである。」

「いまだかつて神を見たものはいない」という言葉を指してある人は――聖書はずいぶんと大胆なことを語る、と言っています。なぜ、大胆なのか? 一般的にはこう考えるからです。――聖書というのは、神のことを記している本なのでしょう。その聖書に、いまだかつて神を見た者は一人もいないというのは何とも頼りない話だ。神を見たこともない人がどうして、神のことを語ったり、書いたりすることができるのか…… こういう一般的な考え方・理屈からすれば、むしろ「私は神を見た。その神がこう語られるのを聞いた」という人がいて、その人が聖書を書いたというほうが理に適っているのです。

 

※聖書が書かれた時代、自分は神を見たということを言う人は、決して珍しくなかったようである。そういう人を中心にした信仰グループが幾つもつくられた。現在でも、新興宗教の多くは、教祖が、自分は神を見た、キリストに出会った、ということを言う。そして神を見ることのできる力を誇って教えを説く。残念なことにキリスト教会にもそういう力を誇る牧師がいないわけではない。だからこそ、「いまだかつて神を見た者はいない」というこの言葉は、我々に一つの注意を呼びかけるものともなっている。

その注意とは、神を見る方法だとか、神に出会って神を見たという体験に頼ってはならない。そういうものに惑わされてはならない、ということである。神を見る体験、神と出会う体験といったものに頼ったり惑わされたりすると、極めて自己流の信仰になってしまう。その結果、行き着くところは、聖書に基づいた信仰とはかけ離れた、いわゆる異端的な信仰に陥ってしまう。

 

では「いまだかつて神を見た者はいない」のに、どうして神がこの世を愛し、私たちを救ってくださる恵深いお方であるということが分かるのでしょうか。それをヨハネの讃美歌はこううたうのです。

「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」

 

※父の「ふところ」とは、胸元ということでもある。胸というのは、心のある場所を象徴している。神の胸元にいたキリストは、神のみ心を誰よりもよく知る神の独り子であるということをヨハネの讃美歌は、文学的な表現で「父のふところにおられるひとり子」とうたう。そのキリストが、いまだかつて誰も見ることができない神がどういうお方であるかを示してくださったのである。

だから、我々は自分の神体験に頼って、自己流で神とはこういうお方だ……と考えたり判断したりしないし、その必要もない。福音書に記されているキリストが語ったこと、キリストが身をもって示してくださったことを通して神を知ることができるし、それで足りる、十分なのである。

※大阪にいたときにある牧師がこんな話をしてくれた。その牧師が交通事故にあわれた時のこと。

    ゆるやかなカーブになっている道路で、わき見運転をしていた対向車がセンターラインを超えて牧師の運転していた車と正面衝突した。お互いに車のスピードが30キロ程度であったので、双方とも怪我はなかったが、車の方はというと、フロント部分が大破し、走行不能になってしまった。

     後日、相手方の保険会社から電話がかかってきた。その内容は――車の修理費用について130万円という見積もりがでたが、年式と走行距離を勘案すると、中古車市場では39万円程度の車になるので、賠償金はその金額しか払えない、とのこと。また、貸し出している代車の利用期間は二週間が限度だと事務的に告げるものであった。被害者である牧師は、とても納得できる話ではなかったので、130万円で修理できるのなら、修理して返して欲しいと言ったが受けつけてもらえなかった。仕方なく、新しい車を買おうと決心して販売店に行き、事情を説明したところ、自動車保険も扱っているその販売店の営業マンが――事故による代車の利用期間は、保険業界内では通常一ヶ月のはずだと教えてくれた。そして。賠償金についても保険会社と交渉してくれることになり、その結果、代車の利用期間は一ヶ月になり、事故にあった車の評価額も10万円アップした。

「餅は餅屋」ということわざがあるように、保険業界には業界内のルールがあり、それを知らないでいると、相手の都合のよいようにあしらわれてしまうことを痛感したとその牧師は話してくれた。

 

「餅は餅屋」とは、物事にはそれぞれの専門家があるという意味です。神のことを最もよく知っている専門家はというと、牧師や神父を考える人があるかもしれません。しかし、牧師や神父は、聖書の専門家ではありますが、神のことについての専門家とは言えません。なぜなら、神を見たことがないからです。神についての、真実の専門家は、神のふところにいて、そこから来て下さったイエス・キリスト、ただおひとりなのです。このキリストのお陰で、こちらが知らないことを良いことにいい加減なことを言ってくる保険業者のような、神についてのまやかしの言葉から守られるのです。私たちの心の目と耳をキリストに集中することで、私たちは神を正しく知り、神と向き合うことができるようにされるのです。

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